第三章 輝く幻影
輝く幻影(一)
昨今は朝の冷え込みも和らいで上着なしでも風が心地よい。セルビトゥの一件から幾日も過ぎて、隠れた公女の生活や精神状態も落ち着いてきたと教庁へ報告が入るようになった。
クルサートルから言い渡される新たな仕事もなく、セレンもケントロクスの修道院でいつも通りの日々に戻っていた。そろそろ新しい学習過程に入る科目もある。教室が開かない日の昼下がり、初めて担当する子供たちとどう過ごそうか、静かな期待に満たされながらセレンが自室で教材を整理していると「ちょっといいかしら」とミネルヴァが扉を叩いた。
「セレン、悪いのだけれど、おつかいをお願いしても良いかしら」
「もちろん。どちらにでしょうか」
文机からくるりと身を回したセレンは、ミネルヴァが分厚く膨れた封筒を抱えているのに気がついた。修道院間でやりとりされる荷物であることを示す印が押されている。
「この間、新しくケントロクスで編纂された子供用の聖典があるでしょう。これを教科書と一緒にテッレに持っていってくれないかしら」
「郵便馬車では間に合わないのですか?」
「そうできたら良いのだけれど、今回は誰かにお願いしないといけなくて。テッレの修道院で人事移動があってね。新しい
「ああ、そういうことでしたら」
了解した、とセレンは微笑んだ。正規の修道士は手が空いていないという意味だ。学校が新しい学習過程に入る時期は当然ながら行政も区切りの時期に当たるので、業務が増えるのは仕方がない。
こんにちのケントロクスは修道士不足である。養育院の修道士は子供たちの世話がある以上、ケントロクスからなかなか離れられない。またケントロクスにいくつかある修道院のうち、ここミネルヴァの管理する以外の院に属する者の多くは教庁その他の行政にも従事している。ケントロクスは教会組織の中心であるがゆえに、もともと修道士の仕事が多いのだ。
テッレ教区ならばケントロクスから馬で行けば二日で往復できる。セレンは修道女の職位にはないし、普段、クルサートルの指示で飛び回っている時間を考えれば、そのくらいは修道院から抜けてもなんら問題ない。
「すぐに行って帰ってきます。一応、秘書官の許可を取ってから出発しますね。クルサートルの手がなかなか空かないと思うので、少し時間がかかるかもしれませんけれど」
「そこまで急ぐわけではないから構わないけれど。全くあの子は休みなしねぇ。総帥様のお加減はまだ思わしくないのかしら……」
古来、聖職者の中でも神から最高責任者としての命を拝領した総帥は、神前に控え一般の前に出ることは無い。その地位は世襲で継がれ、代々大陸中央のセントポスで神に祈りと感謝を捧げている。大陸全体の安寧が守れられるのは総帥がそうして人心を伝え続けるからだという。
「昔は色々な土地からセントポスに巡礼へ人が行ったのですけれどね。世の中が荒れてからはケントロクス教区くらいしか聖地への訪問はないものねぇ」
「動乱で大陸中心までの旅をする余裕もないでしょうし、間にある国々との関係によっては危険ですしね」
セレンもたびたびミネルヴァから聞いている話だ。ケントロクス教区のように大陸中央のセントポスと近く、直線距離で結ばれてでもなければ、治安悪く荒んだ国や暴動の最中を通らざるを得ないこともある。
「悲しいことね。教会自治区でさえ総帥様にお会いする人はどんどん減っていくのだもの」
ミネルヴァが生まれた時代にはもう、教会運営に関して総帥と直に対面する機会を得るのは、少なくともクルサートルの父親が引退するまではケントロクスの直属秘書官に限られていた。
その総帥も高齢のはずで、クルサートルが正式に秘書官に着任する前から病がちになったとの話が流れている。そのためか、今はケントロクスの神官が数人、しばしば通信使として聖地セントポスと往復しているらしい。
「あの子も総帥様がそんな状況では心労も増えるでしょうに……セレンに行ってもらって話す時間があるかしら」
慈しみ深いミネルヴァの表情が曇るのは、総帥に対してはもとより、身内同然のクルサートルを思ってのことでもあろう。
「ミネルヴァ先生の遣いと言えば、クルサートルも時間を取ってくれると思います。ついでに休めと叱っておきますよ。どのあたりを詳しく説明すればいいか教えてください」
「ありがとう、そうしてちょうだい。そうね、大事な変更点なら例えば……」
破顔すると、ミネルヴァは封筒から聖典を取り出して文机の上に広げる。指差しながら話される子供向けの聖書の内容は、ミネルヴァの声と一緒になると、セレンに懐かしさを覚えさせた。
***
秘書官邸はいつも通り静かだった。外では風がそよぎ鳥が戯れているのに、黙々と事務をこなすばかりのクルサートルの部屋はいつ来ても季節を感じさせない。本人は会議中だと、セレンはクルサートルの側近に秘書官室に案内されたが、無駄なものがおよそ見つからない室内は、不在の主人その人を表しているように見える。
昔、クルサートルの家でなら共に読書をして過ごす時間も長かったが、この部屋の書棚には教庁の書類しかない。ただ椅子に座っているのも手持ち無沙汰であるし、それならテッレで説明する内容を確認して、旅先での用を円滑に済ませられるようにしたほうがいいだろう。
そう踏んで椅子に腰を下ろし、出張の件を話すためにミネルヴァから預かってきた聖典を開くと、がちゃりと取っ手の回る音がした。
「悪い。会議が長引いて……かなり待たせたか」
部屋に踏み込むなりそう述べると、クルサートルは後ろについていた側近に辞するよう合図して扉を閉めた。
「相も変わらず仕事ばかりだな。ほどほどに休憩しないとクルサートルはいつか過労死しそうだ」
「教会幹部といっても信用できるやつばかりじゃない。どいつもこいつも隙あらば私利私欲に走るからな。他に任せられる人間がいないから仕方ない」
「セントポスにも?」
クルサートルは目を伏せた。沈黙はすなわち、否定を意味する。
「そうか……」
現在、セントポスは祈りの場としてのみ残され、実質的には行政機能を担うケントロクスが教会の中心になっている。長い歴史の中で大陸内の人口が増えて各地に教会自治区が点在するようになってのち、教会組織内に他の公国と同様の政治機能が必要になってきたのが理由だろう。だからといって聖地セントポスの尊厳は失われたわけではなく、いまなお信仰の絶対的中心であることに代わりはない。
だが、ケントロクスが教会の源とも言える聖地から離れているせいだろうか。教庁にいる聖職者が信仰を盾に教会権力を強化する政策を実施しようと意見し、クルサートルがその阻止を繰り返しているのはセレンも知っていた。
四神の珠集めとセレンの暗躍を秘密裡に行っている理由はここにもある。どの時代にも見られる問題だが、幼少時より次第に強まりつつある傾向にクルサートルが辟易しているのはセレンも知っていた。
セレンが俯きがちになって黙ってしまうと、察するところがあったのか、クルサートルは笑みを作った。
「セレンは信頼している。それで、今日はどうした」
クルサートルは立ち上がったセレンの脇を通り抜け、書見台に寄りかかる。
「新しい教材をテッレ教区に届けに行くから、一応報告しようと思って」
修道院長と交わした外出の必要をそのまま説明すると、クルサートルはあっさり許可を出した。
「この間の改訂は多かったからな。内容自体の大筋は変わらないが。中でも聖典の体裁がかなり良くなったとか」
「うん。子供が読みやすいよう絵も新しくして、綺麗になった」
書見台に置いた聖典をどちらからともなく開く。薄茶色の紙の上に落ち着いた鳶色で教会の教えが書かれ、文字の合間に柔らかな筆致の宗教画が描かれていた。
一つ一つの絵に魅入られるように丁寧に頁をめくっていたクルサートルは、四分の一ほどまで来て手を止めた。
「セレンは特に好きだったな、この四神が司る自然の話が」
指差されたページには、擬人化された四神が東西南北に配され、各々の手のひらの上に自然物を示す図像が記されている。無言のまま視線で促されて、セレンは何度も読んだ句を誦じた。
「『大神から四海を分け与えられた四神は、それぞれアンスル大陸全土の水、風、土、火を統べる存在であり、それらの力は大陸の営みを助ける』……ミネルヴァ先生から何度も聞いたし、自分でも繰り返し読んだな」
「その部分も文言が子供用に変わっているな。この辺り、原典との対応とかを説明するならセレン以上の適役はいないだろう」
厚い聖典を閉じると、重さでぱたんと音が立つ。クルサートルは改めて外表紙を眺めてから、布地の閉じ紐を結び直してセレンに聖典を渡した。
「テッレ教区に行くのは初めてだったか」
声音がやや緊張を孕む。テッレ教区はカタピエの近郊だ。
「メリーノは現在、公国を留守にしていると聞いているが」
「剣は持っていく。護衛は要らない」
短い答えにクルサートルの瞳が和らぐ。視線を交わせば、互いの胸の内は短い言葉で十二分に伝わる。
「ならば用事が済んだらすぐに戻れ」
セレンの場合、護衛は逆に足手纏いだ。
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