第20話
『全校生徒のみなさん。ただいま三年火組 担任 角田角男が抜刀しました。違反抜刀の為、抜刀した生徒の近くにいる生徒は、速やかに距離を取り近くの教師に報告してください。 抜刀した生徒は危険です。至急離れて、教師に報告してください。 抜刀した生徒は速やかに納刀すること。繰り返します、全校生徒のみなさん……』
『ブォオーーーーー』
やかましく苑内を駆けずり回るアナウンス。
その一つは、聞いての通り角田教師が抜刀した旨のアラーム。そして、もう一つのうるさいブザー音は、苑内の生徒なら誰でも知る音。
なぜならば誰もが授業で習うからだ。
これをあえて私ではなく、苑内の生徒の口を借りて答えるのならばこう呟くだろう。
「抜刀……サイレン……?!」
帆村エンジはこんな門出の日に似つかわしくないサイレンに表情が強張った。
卒苑生の目印であり証でもある牡丹の胸飾りを火組の教室に取りに戻った直後に鳴り響いたサイレン――。
【抜刀サイレン】とは、抜刀許可の下りていない紋刀を抜いた時に鳴り響く非常時のサイレンだ。誰かが死合をするときに聞く音だが、今は卒苑式直前……そんなアラームが鳴り響いていいはずがない。
――《なにか》が起きている。エンジの直感を胸騒ぎが増長させた。
「それに抜刀警戒アナウンス、抜刀したのは……角田先生!?」
なにが起こっているのかはわからないが、学苑の教師であり、エンジ達が属する火組の担任でもある。そんな角田教師の抜刀などエンジには到底信じられることではない。
――ざわっ。
「……なんだ、なにが……」
普段の彼ならば直感に従い、すぐにでも飛んでいくはずだったがこの時のエンジは違った。胸のざわつきが、エンジのかかとを床にへばりつかせ、踝は来た道の方向へ帰ることを拒んだ。
結果的に彼はそれを無理に従わせて体育館に向かうのだったが、彼にとってのたったこれだけの出来事が、重大な意味を持っていたのだ。
「……千代!」
体育館には自分を除く全生徒が集結しているはず。そうなれば当然、千代もそこにいる。確認はしていないが、ああ見えて真面目な千代の事だ。列を抜けて外にいるなど考えられない。
廊下の床を靴底のゴムがイルカの声のような音で鳴き、エンジはその場を目指した。
『全校生徒のみなさん。ただいま三年林組 副担任 真澄英孝が抜刀しました。違反抜刀の為、抜刀した生徒の近くにいる生徒は、速やかに距離を取り近くの教師に報告してください。 抜刀した生徒は危険です。至急離れて、教師に報告してください。 抜刀した生徒は速やかに納刀すること。繰り返します、全校生徒のみなさん……』
「二度目のアナウンス……!」
これはつまり、二人の教師が抜刀すると言う異常事態である。
余りの異常性にエンジは周りの音が消え、自分の足音と、背中でガチャガチャとうるさい音を立てる炎灯齊が歌った。
「くっそぉお!」
自らの胸に渦巻く不安感を払拭するかのようにエンジは叫んだ。誰の叫びよりエンジは怒りと震えを咆哮に込め、一刻も早く体育館に辿り着けるよう急いだ。
弾け散るガラスの音と共に、黒い影が窓から押し入ってきた。
降り立ったのは5つの人影。その誰もが背に紋刀を背負い小太郎にあからさまな敵意を向けた。
「一対一なら勝てるのに……そんな顔してるぜ、オマエ」
男が小太郎をからかい、隣にいた弦介もふふん、と鼻を鳴らして笑った。
複数の敵に囲まれ抜刀を警戒されている小太郎は、紋句を詠う余裕すらも無い。
「クソッタレが……っ!」
5人の刀狩に睨まれ身動きの出来ない小太郎を余所に、男は手に持っていた何かを弦介に渡すと「これでいいんだろ」と言ってネクタイを緩めた。
「う~む、これかぁ……。いい仕事するねぇ、ご褒美にあの少年を振り切れなかったことはギリギリ許してやろうかね、伊東」
伊東と呼ばれた男が、肩越しににやりと口を歪ませ、「後は……こいつか」と呟くとジャケットの胸ポケットから試験管のような薄いガラス製の瓶に入った黒い液体を、ハーレイの口へと流し込む。
「くっそォ! 舐められてたまっかよォオ!」
好き勝手にやってくれる二人の男に痺れを切らした小太郎が、立ちはだかる五人の敵に突進してゆく。なんとか戦いの中で紋句を詠い、抜刀する隙を作ろうというのだ。
小太郎は今思いつく最善の策を自ら実践しようと燕尾閃を納刀状態のままで間合いを詰め、一撃目を放つ。
だが小太郎の攻撃は、飛んできた虫を避けるかのようにひらりと軽々と避けられた。標的を失った小太郎の後ろに控えた二人目が影から攻撃し、衝撃で飛ばされたところを斜め後ろで構えていた男に、撃ち返されるようにして迎撃される。激痛が小太郎の背中に走り表情が歪む。
「ぐっうゥ~!」
痛みに耐えつつも空の左手で床を掴む小太郎は、即座に五人の男どもを睨んだ。
「やべぇよ、やべぇよ。完全に勝ち目のない対多勢なのに、あの闘争心丸出しでギンギンの目つき。あっぶねぇ奴もいたもんだな」
ケラケラと笑いながら弦介は担いでいたハーレイを床に下し、伊東と共に割れた窓の枠へと飛び移ると、「じゃあ後は頼むわ。上手く行きゃまた来る。失敗したら……ごめんね」そう言ったかと思うと馬鹿笑いしながら飛び降りた。
「ここ3階だぞちくしょォめが……!」
乾燥気味の寒風が通り過ぎる窓を恨めし気に睨み、小太郎は奥歯を噛みしめた。
エンジは体育館までの動線を駆け抜け、階段を全段飛びで駆け上がり急ぐ最中、体育館付近で教師たちが血相を変えて走る背中を見た。
エンジの目から見ても、教師たちは自分と同じ場所に向かっている。
いくつもの背中の中に、やしろの姿がちらりと視界に入りエンジは横に追いつくと緊迫で固まった彼女の横顔に並んだ。
「帆村くん!?」
「やしろ先生! 一体なんだ?! 一体なにが起きてる!」
「詳しくはわからないけど、卒苑式の会場が数人の士に襲われているらしいわ」
「士……!?」
「恐らく……刀狩り」
「刀狩だと!?」
エンジの胸の真ん中が、大きく一度打つ。全身に強烈な悪寒が走り、最悪の想像が脳裏を横切った。
「ハーレイ……千代!」
『全校生徒および教員に告ぐ。緊急警戒事態により、抜刀アラームを解除し抜刀を許可する! 繰り返す、緊急警戒事態により抜刀を許可する! 紋刀を持った不審人物と出会った紋刀所持者は、無条件で抜刀せよ!』
やしろとエンジの会話を裂くように緊急アナウンスが流れ、今起こっている異常事態を知らしめた。
「帆村くん、いい? 貴方は体育館に入館せずに外にいなさい! 相手が刀狩だとすれば真っ先に伝承が狙われるわ。だから貴方は……」
やしろが話している最中にエンジは刃通力を脚に集中させると、大きく前方へ跳躍し、辺りの壁や柱を蹴って誰よりも体育館へと加速した。
「ちょっと! 帆村くん!!」
一瞬にして小さく遠のくやしろが「待ちなさい!」と叫ぶ声すらも聞こえないエンジは、体育館にいるはずの千代とハーレイを想い、鼓動を速くさせた。
「くっそぉ! もっと早く蹴りやがれ俺のクソ脚ぃ!」
エンジが自らの脚に焦りをぶつけたその時、突然エンジの襟首が強く引っ張られた。
唐突な出来事に思わず隣を見ると、それは長い髪に赤いマフラー、十字に交差した二本の紋刀を背負ったよく知った姿の男。
「神雷!」
「急ぐぞ三代目炎灯齊。私の予感が正しければ、一刻の猶予も許さない事態になっているはずだ」
「予感……だと」
「今は余計なことを考えるな。俺が全力のスピードで引っ張ってやるから、お前は戦いに備えて体力を温存しろ」
「……」
エンジは返事をしなかった。したくなかったわけでも、出来なかったわけでもない。
神雷の言ったことが、何を意味するかということよりも、避けられない戦いが待っているということだけは理解したからだ。
体育館の扉は開いていた。
だが、不思議と中から生徒が逃げ出してくる気配はない。流石、士道学苑の生徒と言うべきか、闘争本能と士魂によって敵に立ち向かっているのだろうか。
……答えは、そのような希望的な予測の範疇に収まるものではなかった。
扉の前に立つ3人の見知らぬ男が抜刀状態で構えていたのである。
「……やべぇよ。まさかの百虎様のお出ましだぜ」
3人のうち、2人は弦介と伊東であとの1人は見知らぬ男であった。彼らの前には、そこかしこに飛び散る血の跡と、血だまりを作って倒れている数人の教師、そしてその3人の門番により外に出る事も出来ず阿鼻叫喚に陥っている生徒達が外からも見受けられた。
「ん、隣にいるチビは……もしかして……」
伊東が何かに気付いたようにエンジを顎で指し、弦介が目を細めてエンジを注視した。
「おー……これはこれは……確か、三代目のおぼっちゃんだねぇ。はろぉう、エンジぼっちゃま」
「なんで俺のことを!?」
全く見ず知らずの男に名指しされ動揺を隠せないエンジの前に神雷の背が覆った。
「耳を貸すな三代目炎灯齊」
エンジを庇うように前に出た神雷に、弦介と伊東は愉快そうに笑い合い、紋刀の切っ先を神雷に突きつけると、「通行料をもらっててね、一般の奴にはお命を頂戴してるんだが……お前には有名税として、その首も一緒にもらっておこうか」と目尻を鋭く尖らせた。
「野郎ォ!」
エンジが弦介の殺意の籠った挑発に炎灯齊の握りに力を込めた時、神雷が手を広げてエンジの応戦を制しする。
「力を温存しておけと言ったはずだ。お前は中で暴れろ」
「けどこの3人はどうすんだよ!」
「問題ない」
神雷は切っ先を突きつけられても眉ひとつ動かすことなく、「問題ない」と涼しげな顔で言い放った。それを受けて弦介は不快に満ちた様相に顔を歪める。
「『問題ない』だぁ? ……これはこれは中々自尊心を傷つけてくれるじゃねーの。スポーツマンシップに乗っ取って斬り合いごっこしてる奴に、俺ら本物の【人斬り】がやれるのかぁ? おぉ」
そう言って全身から湧き上がる殺気を刃全体に注いだ。
「何度も言わせるな。問題はない、行け炎灯齊」
「けど……」
「いいから真っ直ぐ走れ! 俺を疑うつもりか」
「お、おう!」
神雷の強い口調に従い、エンジは敵勢3人に向けて突進してゆく。
「馬鹿が! このガキ殺して伝承とその首、土産にしてやるぜ!」
伊東が禍々しい刃通力を足元から刃に向けて這わせ、エンジを捉えた。
伊東がまさに斬りかかろうと振り下ろした手首に、神雷のブーツの踵が骨を軋ませめり込んだ。
「なっ……!?」
『無』
辛うじて刀を落とさずに体勢を保たせた伊東が逆の手に握りを変えたのと同じくして、殺意に染まった形相で刃を地面に擦らせ、火花を上げながら弦介が神雷の背を狙う。
だが直後、ギンッという金属が衝突する音で弦介は目で確認するより早く、直観的に敵を斬れなかったことを察した。
「やべぇ……」
『双』
神雷は背に背負った紋刀の鞘ごと弦介の斬撃を受け止めたのだ。
そして、3人目の男が正面から雄叫びと共に突進してくるのを、ぐるんと地に立った左足を軸にて廻り、足払いで賊の平衡感覚を瞬間的に奪った。
「ぐぉ!?」
『風』
回転した反動で弦介と伊東が僅かながら衝撃で仰け反ったのと同時に二本の刀、雷迅・風迅の握りを両の手で握り、
『雷』
と『無双風雷』の紋句を完成させた。この間、わずか3秒――。
エンジは実になんの障害もなく、すんなりと体育館に突入することに成功した。あっさりと館内に入れたのだ。たった今目の前に立ちはだかっていた3人の男の姿は、神隠しにあったかのように消え、まるで最初からそこに誰もいなかったように。
「……!? ……!!」
「通行料だ。余分な分はチップでとっておけ」
ガチン、と刀を納める音と同時に3人の賊は血しぶきを上げその場に倒れると、動かなくなった。
その光景に呆気にとられている教師と生徒たちに神雷はつぶやくように言う。
「士道はスポーツではない? 知っているさ」
雪崩れるように外へと逃げ出す生徒達の波に逆らうように神雷はマフラーをなびかせて体育館へと入った。数十人が川の氾濫のごとく押し寄せるのに、神雷の走るその道は割ったように誰もが避けていく。
視聴覚教室では小太郎が5人の賊に苦戦を強いられていた。
あれからたったの数分程度しか経っていないが、立て続けに襲い掛かってくる攻撃を避けるのに精一杯で、紋句を詠って抜刀する余裕すらない状況は変わっていなかった。
――こいつら、俺をすぐに殺す気がねェな……! 舐めやがって
小太郎は胸のうちで呻く。士道とは本来、一対一を原則とした剣術である。そもそもが対多戦には向いていないのだ。
……と、それはあくまで帝国が推し進める士道論であり、小太郎はそれを是とはしなかった。
――天下無双。最強無頼。
それこそが理想である小太郎にとって、たかだか5人の賊に苦戦を強いられている自分が許せなかったのだ。
――その上、抜刀すら出来ねェとは……我ながら情けねェぜ……!
「くっそ!」
小太郎の思考を邪魔する猛撃は止むことがない。それもそのはず、こちらは一人で休みなく動き回り、あちらは5分の1で順番に襲ってくる。体力に限界があるのも無理はない。
「士が刀を抜けないとは情けないな! 拡声麒がないとは悲しいね、せめて武士らしく斬られて死にな!」
分散する敵意と殺意を相手に、敵をひとつに絞れない。対多戦の授業がなかったわけでも、訓練をしなかったわけでもない。ただ、誰がこんな状況に対応できるものか。
「ざけるなっ!」
苦し紛れに振った燕尾閃が敵を捉えることもなく、虚しく宙を斬る。
「紋句を詠わなけりゃ抜けない……。こりゃ確かにこの世で、無差別的な辻斬りを抑制する上ではバッチリなシステムだけどな、逆を言えば抜いちまえば斬り放題ってこった!」
賊の1人が刃を振るい小太郎の肩を斬った。幸い利き手ではない左手に負った傷だったが、苦し紛れに振ったあのひと振りが仇となったのだ。
斬られた痛みにも小太郎は声を上げずに、睨むまなざしを曇らせない。
「へぇ、そんな状態でもまだこの戦局を突破するつもりでいんのかよ。怖いね若いってのは! 世間にでりゃ嫌でも自分の身の丈を知ることになんぜ!」
賊が完璧なコンビネーションで斬りかかる中、そのセリフと共に大きく紋刀を振りかぶった瞬間を小太郎は見逃さなかった。
斬られた左肩でその男のみぞおち辺りに体当たりを見舞い、男は「ぐぉう!?」とうめき声を上げた。
「貴様ァっ!」
続いて小太郎の背後から襲い掛かる賊に対し、身体をくの字にして苦しむ男を担ぐ形で盾にし、相手の攻撃を一瞬躊躇させ、担ぎ投げる同時に二人の動きを封じた。
「身の丈を知れだァ!? 俺は充分自分の身の丈を弁えてるぜ! 俺は天下無双の大剣豪で、お前らが数で群れなきゃ命のやりとりができねェクズゴミだってなァ!!」
残った3人のうち中央にいた男に全力で突進し、高角度の飛び蹴りを見舞った。
「士の戦いにこだわらなけりゃ有利だってのはこっちも同じなんだよ! 墓穴堀りやがって!」
飛び蹴りを敵の顔にめり込ませ、それを踏み台に高く飛び上がり片方の相手に燕尾閃を投げつけると、もう片方の男に向かって飛びかかった。
「はぁ!?」
余りにも奇抜な戦法に動きが鈍る男の太刀筋を見極めると、空中で半身を逸らしつつ避けながら、慣性を活かしたラリアットを見舞った。
「知り合いに猿がいてなァ! ちょっとばかし真似させてもらったぜェ!」
強烈なラリアットに白目を剥き、男は紋刀を手放した。
宙に舞ったそれをキャッチすると、小太郎は残った一人に向けて切っ先を向ける。
「な……にぃ……」
「いいねェ、そのザコっぽいリアクション。俺がこの場をマンガで書くなら、お前ら5人には名前すら与えねェな」
小太郎に答えることが許されるのならこう言おう、小説でも同じである。
「こいつらすぐに起き上がるだろうけど、お前と死合う時間ぐれェあるぜ? どうする、死合(や)るか?」
「ぐぐ、調子に……」
残った男が、持っていた紋刀を捨て、小太郎が投げつけた燕尾閃の握りを握った。それを見て小太郎は「なっはっはっはっ」と高笑いをし、いつもの俺様スマイルに戻るのだった。
「なんだァ!? どうするつもりだよそれァ。もしかして抜く気かよ? 馬鹿か」
「五月蠅い! ……まぁ見とけ、そして自分の紋刀で斬られて死ね……!」
男が腰からなにやら小さなスピーカーのようなものを取り出し、広がった傘の部分を燕尾閃の紋に向け、小太郎を睨みわずかに笑う。
「……?」
それを見てなお小太郎はこの男が何をするつもりなのか分からないでいた。本当ならば、ここで死合いを初めても良かったが、その異様な行動に小太郎は釘づけになっていたのだ。
『スベテガ……』
電子音のような機械的な声がなにかを言いかけたその時だった。
「ああああああああああああああっっっっ!!」
突然の咆哮。小太郎と賊の男は何事かと一斉に咆哮の方角を向く。
向いたその先には、いつの間にか立ち上がっていたハーレイがいた。
「北川ァ!?」
ハーレイは「あああああああっ!」とひとしきり叫んだ後、ゆらりと小太郎たちを見詰め、ゆっくりと体をこちらに向ける。その様相は、よく知るハーレイのそれではなく、まるで別人のように、閂のように尖り吊り上がった瞳で目に映るものを睨みつけていた。
「な、なんだ……な……」
燕尾閃を構えていた賊の男はなにか言葉を発しようとしたようだが、言葉の途中で何故か怯えたように震えあがり、持っていた機械を落としてしまった。
「みんな……死……ね……僕を……ママを……馬鹿にする……みん……な……死……ネ!」
ハーレイを知る人間ならばその言葉は耳を疑うものだったが、ハーレイのこの形相と状況を目撃すれば、不思議に思わないのではないだろうか。
「ようやく化けの皮が剥がれやがったな。てめェはなんかでかいイチモツ抱えてると思ってたんだァ! ……けど」
ハーレイから形容しがたい黒い感情を乗せた波状が放出している。理解しがたいが、その黒い波状は体中から螺旋を描いて教室内に渦巻き、その場にいる者たちに容赦なく浴びせかけた。
「死ぃぃねぇえええええ……うああああっっ!!」
完全に正気を失っている様子のハーレイの目は焦点を失い、ただ動くものだけを反射的に追っているだけだった。時折痙攣する腕と、よろよろと立っていられないほどに危なっかしい足取りで、ゆっくりと小太郎たちに距離を詰めてくる。
「けど、他人のちょっかいでそれを放出したってんなら俺は認めねェ!」
賊の男が音を立てて燕尾閃を落とし、「あ、あ、ああ」と口をパクパクと開閉させ後ずさりする。
「あ、てめェ!」
燕尾閃を落としたことに小太郎が賊に怒号を放つが、男は意に介せずただ震えあがるのみだ。辺りに居る他の賊の男たちも次々と我を取り戻したが、そのきっかけになったのはハーレイのこの黒い負の波状であることに間違いない。
誰もがこの場から逃げようとする中、賊が落とした燕尾閃を拾った小太郎だけは真正面からハーレイの放出するそれに逆らうように立ち向かった。
小太郎は知っている。男たちが
《それ》は、全てを拒絶しているのだ。万物のあらゆるものを。全ての生きとし生けるものを。自分を取り巻くなにもかもを拒んでいる。
それは強烈な負の感情となって周りにいる者たちを巻き込み、ハーレイに対して絶対的な不快感・嫌悪感・圧迫感・緊張感が複雑に混ざり合った波動を生み出している。
「みん……な……居なく……な、れェェエエエエエエ!!」
その波動は止まるどころか無尽蔵に増幅し、周囲の人間に絶望と恐怖を湧き上がらせ続ける、それは小太郎にも言えることであった。
「えんとーさいさま!」
千代の呼び声が誰よりも高く、大きくエンジを呼んだ。
エンジの目の前に広がった景色は、異様であり異常であり、なによりも緊急事態であると本能が彼の頬を拳で殴る。
一人の男がエンジの視界の中央に立っており、それを囲むように倒れる生徒や教師たち。
男の頭上から見れば、その姿は人が花びらのように円を囲んで倒れているので、まるで大輪の花を咲かせているようにも見えた。周りに散る血糊がさらにそれを異様な美しさにし、中央の男を際立たせる。
男の両手、すぐそばには何本もの抜刀された紋刀が床に突き立てられており、無数の刀に祭られている神像のようでもある。
エンジはその男が誰なのかすぐに理解した。なぜならば、エンジはその男を《よく知っている》からだ。
「……ッ」
エンジの口は何かを発しようと開いたが、彼の意思とは別に声は出なかった。瞳孔は開き、脂汗すらもかき絶句する。先に入ったエンジから遅れて神雷が男の姿を確認すると、表情を普段より更に冷たくし、一人で納得したかのように一言発した。
「やはり、来たか……。【千人殺し】」
神雷が【千人殺し】と呼んだ男は、一瞬たりともエンジと神雷を見ず、ただ正面に距離を置いて紋刀を抱く千代を見ている。
千代の抱いている紋刀は、千代の所有する護煙丸ではなく見慣れない形状の紋刀であった。
「えんとーさいさま! ここからお逃げください!」
千代は顔色を真っ青に染め遠目から肉眼でも分かるほどガタガタと震えながら叫んだ。
「う……」
エンジは強く拳を握りしめ、小さな声で短く唸る。足に絡みつく見えない鎖のせいで前に進めない……とでも言いたげに。
「うああああああああっっ!」
だが前に進めないはずの足を大きく踏み出し、エンジは大声で叫びながら【千人殺し】に向かってゆく。
「三代目炎灯齊!」
神雷がたまらずエンジの背中に声を鳴らす。だが、エンジは無我夢中で【千人殺し】に突っ込んでゆく。先ほどはエンジに対し「暴れてこい」と言った神雷が、何故今になってエンジを呼び止めたのか。
それはエンジ自身が冷静さを欠いていたからである。
普段のエンジを知っている神雷としては、不敵な笑みを浮かべながら刀狩と言えども強者との戦いに心を躍らすのではないか――そう思った。
それは概ね正しいと言えた。ただし、相手が【千人殺し】ではないという前提の上である。計算高く、慎重である神雷だからこそ起きた致命的な誤算だったのだ。
「あああああああっっ!」
エンジの顔に余裕や自信などはなく、焦りや不安、恐怖と切迫が満ち満ちていた。それと千代がエンジに対して開口一番放った言葉。
『ここからお逃げください』
実にエンジらしくもなければ、千代らしくもなかった。
その全ての元凶があの中央の花の中心に居座る【千人殺し】であることだけは確かだった。
「まずい……奴は我を忘れている! あんな状態では千人殺しに立ち向かっては……!」
神雷がエンジを追いかけるも瞬時に追いつけるスピードではなかったため、千人殺しと激突するのを止められない。
千人殺しは向かってくるエンジを初めて横目で一瞬、見た。
エンジを見詰める眼光に、エンジに対する敵意はないものの会敵あらば容赦なしという気概がにじみ出ている。
「センエツーーーーっっ!!」
「……エンジか」
武器を持たず丸腰である【千人殺し】に対し、エンジは炎灯齊を力いっぱいに振りかぶり……
「やめろ炎灯齊! 奴に《刀で攻撃》するな!」
神雷の不可思議な助言を聞かず、余裕を失くしたエンジはそのまま炎灯齊を振り抜く ……が、手応えが無い。
「鞘ごと振り回す……か。ということはやはり紋句を知らないのだな」
無表情にも近い顔つきで千人殺しが蜃気楼のようにぼやけた残像だけを残しエンジの背後に立つ。背後の気配に気付いたエンジはすぐに後方に炎灯齊の軌道を走らせるが、これもまた暖簾に腕押し、手応えは皆無であった。
「しかし、どうであれ刀を取ることに決めたというわけか。エンジ」
「うるっせぇえええええ!」
気づけば充分に離れた距離から生徒達が戦いの様子を見守っていた。一方的に攻撃をし続けるエンジと、避ける気がないように見えるのに一撃も触れさせない千人殺しに館内は無言となった。
「だが刃を抜けない士など……」
ここで初めてエンジの前で千人殺しが動きを見せた。
フルスウィングで振り下ろされた炎灯齊を持つエンジの手首に目がけて、手を伸ばし目で追えないスピードでなにかをした。
次の瞬間、不可解にもエンジが一回転して床に叩きつけられたかと思えば、エンジがたった今振るったはずの炎灯齊が千人殺しの手にあり、光景を傍観していた生徒達は、何が起こったのか理解できずに沈黙した。
「士にあらずだ。わかるな、エンジ」
千人殺しがエンジよりも軽々と炎灯齊を片手で持ちあげ、体勢を立て直そうとするエンジに目がけ……。
「おやめください先代様!」
「止めるな千代よ」
エンジの目に炎灯齊を振り下ろさんとする千人殺しが映り、怯えた表情でそれを眺めるしかないエンジの表情は見たこともないほどに弱々しいそれであった。
「なにをしている三代目炎灯齊!」
そんなエンジを救ったのは、神雷である。彼は二本の紋刀をクロスさせて千人殺しの斬撃を受け止める。
「いつかは手合わせしたい……とは思っていたが、こちらの事情もあるのでね」
「百虎・風馬神雷か」
(なんて……力だ!)
神雷は千人殺しの斬撃を受け止めたが、弱まらない圧に角度を殺し飛び退いた。
エンジは、ジョニー来日に向けた合宿で克服したつもりでいた。
ケツイという境地にまで辿り着き、千人殺しを倒すはずであった。
だが現実はどうだろう。実際に《その男》と対峙したエンジは、今までの彼が嘘であったかのように弱々しく、頼りない《少年》になっていたのだ。
「えんとーさいさまぁっ!」
千代が目に涙をいっぱいに溜めて叫ぶが、その声はエンジには届かない。
距離の話ではない、精神的な話である。
「どうした? この学苑にいるということは、士として生きていく覚悟が出来ているということではないのか?」
千人殺しはこれまで千代に向けていた視線をエンジに変えると、ゆっくりと歩みを進め距離を縮める。
「さ、士……」
千人殺しが一歩進める度に一歩後ずさりをするエンジだったが、その距離は次第に詰められてゆく。
その様子を見守っている生徒達は、その様子に異様な空気を感じていた。それを決定づけたのが千代の「先代様」という発言。誰もがそれだけならば不審に思わなかったかもしれない。だが、目の前で千人殺しに対し異常に委縮しているエンジを見て疑問に思ったのだろう。
「せ、先代って……なんなんだ」
「帆村があんなにビビってんの初めてみた」
「伝承使いがなんでまだ戦ってもいない男にあんなにもおののいてんだよ」
特殊な状況下に、生徒達は思い思いの言葉を宙に浮かしている。しかし、エンジのすぐそばにいる神雷は知っている。
「千人殺し……またの名を【二代目 炎灯齊】」
「その名は捨てた」
神雷の言葉に対し、千人殺しが肩を払うように何事もなく言い捨てた。
「なにをしに来た」
後ずさりしてゆくエンジの前に立った神雷は雷迅風迅の持ち手を握り、神雷を睨む。
表情を変えずに迫ってくる千人殺しは、神雷が立ちはだかったことにも意を介すことなくゆっくりと距離を詰める。神雷も普段見せるよりもより研ぎ澄まされた鋭い眼光で千人殺しを見詰めた。
「いたぞ! ……たった一人だと!?」
その時、エンジ達の後を追うようにやってきたやしろや教師たちが体育館に押し入ってきた。入ってきた誰もが目の色を変えて、それぞれが紋句詠唱にて抜刀してゆく。
「よせ! 来るな!」
神雷が彼らを制止しようと叫ぶが、彼らは「百虎だけにお任せするわけには行きません! 賊はたった一人、全員でかかれば一瞬です!」と神雷に従わない。
「……抜刀したか、ならば《斬られる覚悟》が出来ているということだな?」
丸腰で刀を持たない千人殺しが身体の向きを群れに向け、それを見て神雷は叫ぶ。
「貴様の相手は俺のはずだ! 余計なものに気を取られるな!」
「残念だが、先に抜いたのは彼らだ。お前はまだ刃を抜いていない」
そう言い放った瞬間、千人殺しがその場から消えた。……正確に言えば、押し寄せてくる教師たちへと間合いを詰めた、というのが正しい。
「逃げ……」
神雷が最高速度で止めに入ろうと強く床を蹴った刹那の出来事だった。彼がその場に到達したのはわずか1秒も要しなかった。だが……
「ひっ……!」
短い悲鳴を上げたのはやしろだった。彼女の顔の数センチ先には刃が迫っており、まさに斬り捨てられる寸前で刃が止まった……いや、止められたのだった。
「……止めたか」
たった1秒。……たった1秒である。
それだけの時間で千人殺しに向けて迫った6名はいたかと思われる教師陣の内、実に5名が血だまりの中に沈んだ。
そして丸腰だったはずの千人殺しの手には、紋刀が握られていた。
「……」
千人殺しの刃を止めたのは神雷だった。抜刀する前だった神雷は、素手で千人殺しの斬撃を受け止め、深く刃をめり込ませながらも神雷は凶刃を止めたのだ。
「百虎……」
やしろがようやく状況を理解し、辛うじて神雷の通り名を言ったが、神雷は彼女を見ず「早く離れろ! そして刀を納めるんだ」と痛みに眉間を歪めながら言った。
「良かったな、女。百虎のおかげで命を拾った。すぐに離れるがいい」
千人殺しが握りから手を離し、再びエンジに身体を向け歩き始めた。
「待て、千人殺し! 貴様は……」
「お前は二刀流なのだろう? 片手では本来の半分の力しか発揮できないのではないか?それで本望ならば、止めはしないがな」
神雷の本音はこの事態を終息させることよりも、実は千人殺しと戦うことが本望としていた。誰にもそれを悟られまいとしていたが、千人殺しには見透かされていたのだった。
「さて、エンジ。久しぶりに親子水入らずで話そうじゃないか」
「炎灯……帆村! 戦うな!」
神雷の叫びは既に虚しく、骨で止まった掌の傷を抑えているのみであった。
数人の生徒が神雷の手を手当てし、神雷を動かさなかったというのが正しい。
「帆村……センエツ……」
「なんだ、お前も帆村だろう? そんなに父の名が珍しいか」
――帆村センエツ。二代目炎灯齊。初代を破り、士としての生命を奪った人物。父親。母親を泣かせた。
エンジの脳裏にすすり泣く母親と、利き手を傷つけられ苦しむ祖父(初代)、そしてただ震えるだけの自分がぐるぐると頭の中を駆けずり回る。
その全てがエンジのトラウマとなっていたのだ。その全てを、エンジは克服したつもりでいた。だが、目の前に現れた実に数年ぶりの父親を前に、それらは一切吹き飛んだのだ。
「その炎灯齊、抜けずによく卒苑まできたものだ。だがな」
エンジの持つ炎灯齊にセンエツは手を伸ばし、それを取ろうとした時だ。
「っえぇい!」
千代がセンエツの背中に体当たりをし、動きを止めた。センエツが振り向くと、千代が護煙丸を構え、真っ直ぐセンエツを睨む。
「なんのつもりだ、千代」
「先代様! この千代は三代目炎灯齊様の臣下でございます! 我が忠誠を捧げた主の身に危険が及ぶとあらば、例えそれが先代の炎灯齊様であっても……」
5人の賊たちは、誰もが恐怖におののきハーレイが一歩近づく度に「うわああ!」やら「近づくなぁああ」と叫びあからさまに取り乱していた。
「僕……はァァア、う、うぅ……ああーー!」
本当に助けを求めているのは、どう見てもハーレイだったが、恐怖に支配されているのはハーレイ以外の人間であった。
――一刻も早くこの場を離れたい。
それがハーレイを除く全員の総意であることには違いないのだ。
「も、もうダメだぁっ!」
「助けてくれぇ!」
得体の知れない恐怖は、嫌悪感に染まり逃げ出したい欲求にかられる。
5人の賊は遂に、ハーレイから放出するそれに耐えられなくなりその場から次々と逃げ出していった。
「うう……ああ、ぐ、……死ね死ね死ね死ねぇ……」
ハーレイは5人がいなくなった教室でも更に負の波動をまき散らし、全てを否定し続け、全てを拒み続けた。苦しみながら、憎悪に膨れ上がる波動。この場でまともに立っていられる人間など誰もいない。
……たった一人を除いては。
「うォるァァァアアアア!!」
「……!?」
小太郎だった。
誰よりハーレイを嫌い、敵視し、差別を、誰よりも率先して行ってきた小太郎だけが、その場を離れなかった。
いや、離れないどこか小太郎は、ハーレイに向けて一歩ずつ、ゆっくりではあるが確かに地面を踏みしめながら向かってゆく。
「舐めやがって、北川ァアア!」
「う、う・うう……佐々木ぃ……、僕を……血を……」
ハーレイと小太郎はお互いに一歩ずつ近寄っていく形で、それもまた異様な光景であるといえる。小太郎とハーレイの関係を知る……特にエンジ達や、小太郎の子分からすれば目を疑うほどのあり得ない光景であろう。
「ああ、そうだ! 俺は天下の大剣豪、燕塾八代目の佐々木小太郎だァ! それがどオした!」
負の波動に押し負けそうになりながらも、しっかりと足を踏ん張り苦悶の表情を浮かべながら、険しい顔でハーレイに向かってゆく。小太郎ですらそのようにゆっくりでないと進めないほど強力な波動なのだ。
「ごるァアア! 負けるかチクショォオオ!!」
――くそ! 立ってるのもやっとだ……。ちょっとでも気を抜けばあっという間に心が折られそうだぜ……!
小太郎の内心はそう叫ぶ。そう、決して平気な訳ではない。小太郎もまた賊たちと同じく不安や嫌悪感、恐怖と戦いながらハーレイに立ち向かっているのだ。
だが不思議ではないか。
あれほどまでに嫌っていたハーレイの為に、小太郎はなぜここまでするのだろう。
その答えは直接、この男の動向を見守って得よう。
「ふざけんなァ……俺がなんでお前みてェな負け犬野郎にあてられねェとなんねェんだ!」
小太郎とハーレイの距離は近づき、お互いが手を伸ばせば届くほど近くなった。
「気にいらねェんだ! ……あの猿は俺の敵だ、宿敵なんだよォ! だから俺の敵の仲間は、俺の敵なんだ! つまり、お前も俺の敵ってことだァ!」
一歩を踏み出すだけでも苦しいのに、小太郎は全身全霊でその一歩を踏み出す。
そしてハーレイに届く距離まで辿り着いた。
「俺のモットーはな、敵は一人残らずぶっ倒すことだ! 猿も! 神雷も! ジョニーも! ……お前も! 全部俺の手でぶっ倒す! だから北川ァ、てめェ俺に負ける前に負けてんじゃねェェェエエ!!」
ハーレイのブレザーを掴み引き寄せると、小太郎はハーレイを抱く形で燕尾閃を持った。
「いいか? よォく覚えてやがれ、俺は何人たりとも前に立たせはしねぇ。それが帆村だろうとお前だろうと、たとえ閻魔だろうが仏だろうが、邪魔する奴らはぶっ倒して……俺サマの後ろに」
「うあ、あ……死ぃ……」
『全てがひれ伏す!』
小太郎の想いが最高潮に達した状態での燕尾閃、抜刀。
それは小太郎が訓練や授業、そしてエンジと戦ったよりも、どの時よりも輝き、波動を吹き飛ばす衝撃で刀身を現せた。
「うう~……!?」
「目を覚ましやがれこのド金髪がァァアアアア!!」
千代に凶刃が振り下ろされたその瞬間、その場にいた誰もが目を伏せた。
肉を切り裂く音の代わりに刃を受け止める堅い音に、目を伏せた人間たちは再び視線を元に戻す。
「ぐっ……う!」
「……」
冷徹な瞳でエンジを見下ろすセンエツと、炎灯齊でセンエツを受け止めるエンジ。
片手で振り下ろしたはずの斬撃に、全力で堪えるエンジの姿にその力の差を感じさせた。
「女……それもよりによって千代を斬るつもりかあっ!」
「女……それもよりによって千代を……? 何故だ、何故この俺が斬る人間を選ばなければならない? 士道に身を置いた時点から何人たりとも敵だ。士道に女も男も子供もない」
「うるせえっ! 屁理屈言うんじゃねぇ!!」
「屁理屈言っているのはお前だ。俺は最初から同じことしか言っていない。【刃を抜いた奴だけが敵だ】と。だから今のお前は……」
振り下ろした刀の背に空の手を当てがい、センエツは力を込めた。
「!?」
「所詮俺の敵にはなり得ないということだ」
エンジは「ぐあぁ!」と叫びをあげ、炎灯齊と一緒に弾き飛ばされた。エンジという障害を飛ばしたセンエツの目には、護煙丸を抜刀した千代が映っていた。
「……つまり、今の私に対峙している千代のほうがよほど立派な敵だというわけだ」
「やめろぉお!!」
エンジが体勢を立て直し、センエツに向き直った時、千代はセンエツの間合いに入っていた。誰の目にもエンジが助けに間に合わないことだけは理解できる。
その後の最悪のイメージを脳裏から振り払いながら全力で向かってゆく。だが、それは空しい抵抗だった。間に合うはずわけがないからだ。
「うわああああっっ!」
なりふり構わず全力で駆けてゆくエンジは、最悪の結末を掻き消すためだけに存在している、そう全身で叫ぶようだった。
「えんとーさいさまをお護りするため! それだけにこの千代は在ります! どうかえんとーさいさま……いえ、三代目炎灯齊様。どうか末永くご寿命をまっとうください……」
千代の目に決意と悔いの涙が滲み、それを確認できるはずがないエンジにも千代の涙がはっきりと解った。
「千代ぉぉぉぉおおおおおおおお!」
センエツの眼光は鋭く千代を射抜くように差し、振り上げた刃を千代に……。
「さようならえんとーさいさま……」
千代がセンエツの斬撃に合わせ、護煙丸を振り抜こうと構え次の一撃でなにかが終わる。……それだけを絶対的な予感として見る者に強いた。
――しかし、誰もが予見した光景とは違ったものだった。
「……ふん」
センエツの左手は、鞘のままの紋刀を受け止め、右手で振り下ろした刀は、美しく長く先の割れた紋刀が受け止めていた。
それを見たエンジは、我が目を疑うより先に、目で見たそれを信じ、今目の前で起こった事実に震えるほどの喜びと感動を得た。
そのはずだ、それは最も信用する友と、最もその力を知る敵が居たのだから。
「ごめん、エンジ! 遅れちゃったよ!」
「ごるァ! 登場していきなりギブしてんじゃねェエ!」
「ハーレイ! 小太郎!」
そう、それは視聴覚室での一件から駆け付けたハーレイと小太郎だったのだ!
「ほぉ、友達というやつか。やはり、お前には炎灯齊は大層なおもちゃだったようだ」
センエツは今起こっていることにも表情を変えず、再び千代を見据えるとひと振りの元に二人を弾き飛ばした。
「うあっ!」
「ぐぉお!?」
センエツのたった一振りに、少年とはいえ士道学苑三年生である二人がいとも簡単に吹き飛ばされたのだ。
「千代、お前の背に背負うその【苑刀】を渡せ。素直に従えば、神楽とのよしみとして斬り捨てるのはやめてやる」
「苑刀……?!」
千代は、背に括り付けたやや大きな刀をちらりと横目で見やると、大きく後ずさりをする。
「これは渡すわけには参りません! ……帆村家の伝承使いにも関わらず、自ら進んで刀狩に身を置くなど……どうかその目をお覚ましくださいませ! 先代様!」
小太郎が後ろから燕尾閃を構えてセンエツに飛び掛かり、ハーレイが千代を背にセンエツの正面に構えセンエツの攻撃から千代を庇おうとする。
「無視してんじゃねェぞ腐れ刀狩ィ!」
「悪いけど、ここからは好きにさせないよ!」
「分かったらさっさと帰れえ!」
そして、脇からエンジが炎灯齊を振りかぶり突進した。
「……全く、お前たちは分かっていないようだな」
斬撃を刀で払い、もう一つの手で小太郎の手から燕尾閃を払い落す。
「なっ……!」
そして落ちる燕尾閃の握りの底を蹴り上げ、持っていた刀を手放しそれを空中でキャッチした。
「てめェ……っ! 燕尾閃を……!?」
センエツは奪った燕尾閃で、ハーレイの構えた紋刀を弾き、そのまま回転しながら小太郎に回し蹴りを見舞った。
そして、そのままエンジの喉元に切っ先を突きつける。この間、たったの1秒にも満たなかった。
「士道とは、一対一での死合いに特化したものをいう。だからこそ刀こそが命、士魂であると言える。だが私は刀狩であり、多勢と会いまみえることが予想された。
だから刀を捨てたのだ。決まった刀を持っていれば、それに固執してしまいそれなしでは戦えなくなる。それならば持たなければいい、そして武器は敵から奪えばいいのだ」
エンジは喉元の刃に動きを封じられたまま、その話を聞いた。
だがその表情からは、素直に納得している様子はなかった。
「俺が話したかったのは、こういうことだ」
「……は?」
「分からないようだな。お前はその【おもちゃ】を持つべきではない、そう言っている」
センエツの前蹴りがエンジの鳩尾(みぞおち)を捉え、踵のめり込んだ腹を抑えエンジはその場に蹲り、再び言葉を失った。
「御託言ってんじゃねェよこの刀狩風情がァ!」
「悪いけど、佐々木くんと同意見だね!」
ハーレイと小太郎の同時攻撃にもセンエツは動じず、ほんの微かな動きだけで二人の同時攻撃を避け、二人に眼光を浴びせる。
「勝敗を焦ったな。波状攻撃ならばまだ戦えたものを……」
血しぶきが宙に舞い、二人が斬られたことを空間全体に思い知らせる。
「ハーレイ! 小太郎ォオ!」
「心配するな、無闇に命を奪いはせんよ」
「てめェエ!」
センエツが構わず千代に距離を詰め、エンジは二人の間に割って入った。
「これ以上させるか!」
炎灯齊を両手に、センエツを正面に構えたエンジの瞳に恐怖や緊張は消え失せ、激しい敵意と怒りが染めていた。
「マシな目になったな」
「黙れこの化け物!」
「親に向かって化物とは結構な物言いだな」
千代を背にエンジはセンエツを睨みつけ、激情をぶつけんばかりに放出する。
「俺に紋刀を持つ資格がないだと? ああ、願ったりだ! 俺はお前みたいに家族を平気で斬ったりできるような狂った士にはならない!
こんなもん持ち歩いて、命の取り合いをするような時代錯誤なことなんざする気ねえんだよ!」
「ならばなぜ士道学苑にいる? 義務とはいえ伝承を帝國府に返すことも出来たはずだ」
「お前を倒すためだ!」
「言うじゃないか。しかし……」
センエツが目だけを動かし、エンジの姿を凝視すると不思議そうに呟いた。
「初代(おやじ)がお前に紋句を教えたとは思えんが……」
「なんだと……」
「あれだけ痛い目に会わせたんだ。わざわざかわいい孫に紋句を教えたりはしないと思ったが……所詮は耄碌した老害か」
「じいちゃんの悪口いうんじゃねえ!」
「えんとーさいさま!」
千代の声に振り返ると千代はハーレイの元に居た。ハーレイは痛みに顔を歪めてはいるが、深い傷ではなさそうだった。そしてハーレイがエンジを見て人差し指を左側に差すと、小太郎も肩で息をしながら起き上がっている。
「もう大丈夫です! 思いっきりやってください!!」
千代の言葉にエンジは力強く頷くと、再びセンエツを向いた。
「じいちゃんは最後まで俺に紋句を教えなかった! 俺に士道の道には行くなと言った! けど俺は決めたんだ! 帆村センエツに勝って、そして士道をやめるってな! そしたら伝承なんて……炎灯齊なんざどうでもいい! だけどな、今はその【帆村センエツに勝つこと】の方が俺にはどうでもいいことだ!」
「……? 分からないな、お前は何を言っている」
「分かる必要はねえ! 俺は、友達を……仲間を!」
エンジの眼差しに強い決意と覚悟が漲る。その眼差しにセンエツはこの日初めて反応らしい反応をした。
「エンジ……お前、まさか……」
炎灯齊を握る手に力が入り、エンジの足元から刃通力が目に見えるほどに迸った。
『絶対に守る!』
炎灯齊の紋がぐるりと回転(まわ)り、吸気口の穴からは蒸気が勢いよく噴き出した。そして炎灯齊の鞘が真ん中の裂け目に沿って大きくずれ、抜刀の準備が整ったことを知らせた。
「ぐっ……帆村ァ……」
「エンジ!」
「えんとーさいさま!」
小太郎戦以来、人生で2度目の抜刀。その細く長い刀身と、触れるものを焼き払う紅い刃からは絶え間なく炎が噴き出ていた。
「行くぜぇええ!」
驚いた表情を一瞬見せたセンエツの顔がすぐに無表情に戻る。そして、とてつもない速度で斬撃を放つエンジの攻撃を辛うじて避けてゆく。
「……す、すげぇ」
思わず見蕩れて出てしまった言葉に、小太郎は慌てて口を押さえた。それに気付かない振りをしつつハーレイもエンジのその姿に「完全に使いこなしてるじゃないか」と驚いていた。
「えんとーさいさま……」
――すげぇ……。これが真の炎灯齊……、こいつを今ここまで使いこなせてるのは、ハーレイ。お前のおかげだぜ。
エンジは斬撃を繰り返しながら乱れ太鼓の時、ハーレイと行った一般形状の紋刀での特訓を思い浮かべた。
「……圧しているではないか」
生徒や教師たちに看病をされたまま様子を見守っていた神雷が言った。神雷の言葉に周りの生徒達も思わず生唾を呑む。
「どうだオラァアア!」
防戦一辺倒のセンエツに対し、エンジは渾身の一撃を振り抜く。
『トッ』
瞬間、全ての時が止まった。……そう思えるほどの錯覚。
その音は余りにも静か過ぎて、仕合の渦中にいるエンジとセンエツにしか聞き取れなかっただろう。そしてその音の意味をちゃんと理解しているのが、センエツだけだということ。
「はっ……?」
思い切り振り抜いたと思っていたエンジの刃は、センエツの身体の直前で止まっていた。
しかもどれだけの力を込めてみても、エンジの両手に握られた炎灯齊はびくともしない。
「がっかりさせてくれる」
センエツの右手、人差し指と中指、そして親指で摘まむように炎灯齊の刃が止められていた。その映像を持ってしてもエンジの思考は追いつかない。
――俺、思い切り振ったよな? まさか、この3本の指だけで止められたってことか?
それが答えだと思えない。思いたくない。まさかそんな馬鹿げたことがあるはずがない。
センエツは摘まんだ刃を返し、エンジの身体ごと宙に回転させ、転ばせた。
「……!?!?」
エンジが倒れると遅れて炎灯齊も落ちた。だが、エンジとハーレイ、そして小太郎も状況を理解するのに追いつかない。間違いなくエンジが抜刀したことで形勢が逆転したと思った矢先のことだったからだ。
「えんとーさいさま!」
千代だけが迅速にエンジの元へ近寄り、落ちた炎灯齊を鞘へ戻した。
これは実に最善の行動であった。抜刀状態の炎灯齊をセンエツに奪われては、更に最悪の展開が想定されるからだ。
「まともに動けるのはお前だけか、千代」
「これで炎灯齊は抜けないはずです!」
炎灯齊を抱きかかえようとするも小さな千代が炎灯齊を持ち上げることすらできない。ほぼ同時にエンジが正気に戻り千代の元へ駆けるが、わずかな差で間に合わなかった。
「勉強不足だな、千代。伝承は家系の人間ならば抜刀できるのだよ」
センエツに奪われた炎灯齊。だが、鞘に納めているので紋句なしでは抜刀できない状態に戻っていた。
「だが、ただ普通に抜くのも芸がないな。ではお前達にはいいものを見せてやろう」
エンジが千代に辿り着き、庇うようにセンエツを見上げたその眼を前にセンエツは炎灯齊の握りに手をかけた。
「では、エンジ。お別れだ」
センエツの目つきが更に尖り、明らかに空気が変わる。そして、炎灯齊の紋がぐるりと回転(まわ)り……。
「……!?」
接続部が大きくずれ、炎灯齊が……。
「抜刀した……」
呟くようにハーレイが漏らし、小太郎も釘づけになった。
「紋句なしで抜刀……だと?!」
紅い刃から炎を噴き出す炎灯齊は、エンジが持っている時にはあんなにも希望的に見えたのに、センエツが持っているだけでわかりやすく絶望的な絵となった。
さらに追い打ちをかけるように、紋句なしでの抜刀を見せ完全に場の戦意は風に吹かれもしないのに消滅する。
「あ……」
振り上げられた炎灯齊が意味するそれに気付いた時、既に遅かった。
「えんとーさいさまぁあああああ! いやぁあーー!!」
耳を劈(つんざ)くような千代の断末魔がなぜか妙に遠く聞こえ、胸に激しい熱を感じながらエンジの意識は遠のいていった。真っ暗になる視界の中で、センエツの冷徹な声がやけに耳に残る。
「守ることも出来ぬお前が、その紋句を言う資格はない」
暗転してゆく意識の中、湖の底へと沈んでゆく感覚が複雑な気分にさせた。
「えんとーさいさまぁあああああ! いやあああああ!!」
千代がエンジを抱き抱えると、胸から斜めに裂かれた一文字の傷から出血した血が千代の両腕をべっとりと濡らす。
それを見て更に千代は動揺し、あわあわと泣きながら鼻声で狼狽えるばかりであった。
「死なないでください……えんとーさいさまぁ……えんとーさいさまぁあ!」
カシャリと炎灯齊を鞘に戻すとセンエツは、エンジの側に炎灯齊を放りその場を静かに横切り、エンジのことをちらりとも見ない。
「うええ……えんとーさいさま! 誰かぁ……助けてぇ……」
「……命まで奪ってはいない。すぐに医務室に連れていくがいい」
千代の狼狽に見兼ねたのか、センエツが千代に言葉をかけると千代は「誰かえんとーさいさまを医務室へ! 斬られたのです! 早く!!」と声の限り叫び、数人の教師や生徒がエンジを抱えて医務室へと運んだ。
「ハーレイ様……」
「解ってるよ、行ってあげて。千代」
ハーレイの言葉に安心した千代は、エンジについて医務室へと行った。
「まだ終わってねェだろォ!」
残った小太郎がセンエツに向かい丸腰なのに呼び止める。センエツは特に動じることもなくただ少しだけ立ち止まり、小太郎の動向を伺っていた。
「やめろ小太郎!」
叫んだのは神雷。
「これ以上奴に手を出すな。……わかっただろう、ここから手を出せばいたずらに怪我人を増やすだけだ。仮に私が万全であっても、正直奴に勝てるかわからん」
神雷の言葉はどんな手段よりも生徒や教師たちに響いた。特に『万全でも勝てない』といった趣旨の発言には、ここに居た全ての人間が戦意を喪失するのに充分であったからだ。
「冗談じゃねェぜ!」
それでも刃向ったのは、もはや小太郎のみ。彼の性格とプライドからすればそれも仕方がないようにも思える。だが、次に彼を制止したのは意外な人物であった。
「……彼には手を出させないよ」
「……!? てめェ、そこでなにしてやがる。北川ァ……」
北川ハーレイ。センエツの背を守るように小太郎の前に立ちはだかった。
「さっきは助けてくれてありがとう……。君には返しきれない恩を感じるよ。これまで僕にしてきた仕打ちを帳消しにしても有り余るくらいにね」
「……意識あったのかよ」
「制御は出来なかったけど、はっきりと覚醒はしていた。だから僕は君には感謝している。こんな僕を【宿敵】だと言ってくれたことにもね」
ハーレイの背後で、センエツは千代が置いていった苑刀を拾い上げる。
「んなこたァどうでもいいンだ! なんでてめェがその刀狩についてやがるっていってんだ! 頭おかしくなったのか?!」
「そうだね。もしかしたら僕はおかしいのかも知れない。だけど、僕をおかしくしたのはこの国さ」
「……」
センエツはハーレイを背中越しに見詰めると、静かに尋ねた。
「君は、エンジの友達……じゃなかったか」
「ええ、その通りです。帆村センエツ……いえ、【千人殺し】」
「ならばなぜだ」
「僕は、エンジの友人です。親友と言っていい数少ない友達……。僕は、彼の強さに憧れた。エンジの強さに自分を重ね、いつの間にか自分が強いのではないかって錯覚を抱いていました。だけど、現実は違った。
僕は彼の強さに憧れてばかりで、近付くことはおろか、眺めることしか出来なかった。
でもそれでよかったんです。彼の強さの側にいれば、いつか僕も近づけるかもしれない。
強くなれるのかもしれない。そう思ったから」
小太郎とセンエツは、黙ってハーレイの言葉を聴いていた。
「だけど、その最強のエンジが目の前でいとも簡単に斬り捨てられた。こんな衝撃、今まで味わったことがない」
センエツからすれば、後ろ姿しか見えないハーレイ。だがその声は高揚し、明らかに興奮しているように聞こえた。
小太郎は真正面に立ちはだかるハーレイの目の色が次第に変わってゆくのが分かった。
強さに対する羨望に輝く片目と、もう片方の闇にずぶずぶと濁った黒色。
どちらも本心であり、既にそこには小太郎も、エンジや千代ですらも付け入る隙も無い。
「本気かよ」
「エンジに伝えておいてほしい。ごめんって」
「なんで俺が言わなきゃなんねェんだ! 自分で言えこの金髪が!」
「……そう。じゃあ、いいよ。言わなくて」
ハーレイは、そう言って紋刀を構えた。
「その代り、エンジには僕の【紋句】を伝えておいてくれ。きっと、彼なら分かってくれる」
「なんだと?」
ハーレイは貰ったばかりの紋刀を手にかけ、大きく息を吸うとそれを詠った。
『皆殺し』
ハーレイの設定した紋句は、悲しさと狂気が織り交ざったものだった。
彼を知る誰もが耳を疑い、混乱し、悲しい瞳で見つめた。
この紋句は、センエツの登場に感化されたものではないからだ。仮紋を所持していた生徒は、卒苑の証として念願の紋刀を渡される。それに紋句を設定しなければならないので、卒苑のひと月前には紋句の申請を済ませているのだ。
だからこそ学苑の生徒達はわかる。その紋句は、ハーレイの深層にある最も純粋な言葉であるということを。それが【皆殺し】という言葉だという悲しさを。
「お前……」
センエツが抜刀したハーレイを見てなにかを感じた。それを意味する表情の変化があったのだ。
「千人殺し……僕を一緒に連れていってください。でなければ、目の前のこの男を殺します」
「はァ!? 殺すだァ?!」
「《君なら》分かるだろう? 僕にはそれが出来るって……」
小太郎は、これまでに感じたことのない感情が押し寄せてきた。それを言葉で言い表すのはとても不可能で、それを上手く表現する方法すらも小太郎は持っていない。
強いて言うのならば、怒りと悲しみ。それを最も鋭利にした先端の感情だと言える。
「……勝手にしろ」
センエツと彼についていくハーレイの二人を、生徒達は避けて道を作った。
苑刀を持ち去る男を黙って見送る屈辱に、涙ぐむ生徒もいた。
「これがなにより最善の策だ。ここにあの男だけが来たということは、あの男だけで全てが片付くと踏んでのことだろう。もしも、奴の予想以上のことが起こった場合、援軍が駆けつけた可能性が高い。だとすれば、どうだ?
……想像しやすいように言うならば、あの男がもう一人増えると考えれば早い」
ハーレイとセンエツが去った後の神雷の言葉が、いつまでも館内に居座るようだった。
エンジが斬られてから5時間後。
時刻は16時を回り、帝國警察が苑内で捜査や取り調べを行い、あらゆる場所で現場検証や聞き込みを行っていた。
当然、卒苑式どころではなかったがエンジ、千代、ハーレイ……それに怪我をした生徒達を除いて三年生たちはまだ苑に残っていた。
「小太郎さぁ~ん!」
子分たちが小太郎に集まり身を心配したが、無事を知り安堵する。
だが小太郎はそんな子分たちに対し、なにか言葉をかけるでもなく不機嫌そうな表情で空を見ていた。
……空は、橙色に変わる準備をしているような、蒼とも白とも言えない淡い色で彼らを見下ろす。
小太郎を不機嫌にさせる理由は、もちろんここまでにあった全ての事象によるものだったが、なによりもエンジが斬られた直後にあった出来事によるものだ。
「北川ァ……」
余韻を引き摺る体育館に、校長が颯爽と現れ登壇した。
余りに唐突な登場に、校長が喋りはじめるまで誰も気付かなかった。
「みなさん、今日は実に大変な一日でした! いやー大変でしたねー!」
マイクからスピーカーを通して話す大きな声に、館内の生徒や警察は心臓が止まるほどに驚いた。ざわざわと騒ぎ始める館内のざわつきにも一向に気を留めず、いつもと同じニコニコとした笑みで続けた。
「いやあ、私も大変だったんだよ~! 校長室に刀狩が5人も居座っちゃって。最後の方は話も盛り上がったからいいけどねー。例の一件があった時は身動きとれなくてね」
校長が笑いながら自身に起こった出来事を話し続けていると、現場検証をしていた警察の人間が近寄り、「すみませんが今は現場検証中でして、遠慮してもらいたいのですが」と伺いを立てた。
すると校長は表情を崩さずにこにことしながら「いやお勤めご苦労様でございます!」と話を続ける。
「ちょっと、あんたねぇ!」
そんな校長に向けて警察が食い下がろうとした時。
「うるさい!」
館内はその一言で静まり返った。校長は、真剣な表情だった。
「怪我をした教師、怪我をした生徒、幸い死人は出なかった。言っておくがこの事態において私が謝罪することなどただの一片ですらない。それよりも君らは貴重な体験をしたと感謝をすべきだ。
今日、この学苑の象徴であった苑刀が奪われた。
だがそれがなんだ!
明日も士道は生き、また士道学苑もこれからも士を育ててゆく。その中で苑刀というのは、ただの象徴だ。飾りと言ってもいい。
しかし今日、その象徴があろうことか刀狩に奪われたのだ。
諸君はこの先、今日のこの出来事を恥ずべきものだと心に焼き付けてほしい!
力のない自分を憎め! 技のない自分を恥じれ! そして、それを糧にこの先誰よりも強くなるのだ!
我が苑は士道学苑なり。唯一にして孤高の場所、ここから最強無敵を目指し、いつの日か苑刀を取り戻し、この場に突き立てて言うがよい!
『この程度の輩に刀を奪われるなど、なんとくだらなく詰まらない学苑か!』と。
卒苑式は延期しない。今ここで諸君らに宣言しよう。卒苑おめでとう!
これで諸君らは立派な士である! 幸あれ、帝國士道の礎たちよ!」
校長はそこまで言うと再び笑顔に戻り、頭を掻いた。
「じゃあ、そういうことであとは適当に帰宅してね。じゃあ私は始末書でも書くことにするから」
軽い口調でそう言いながら館内を去っていくのだった。
こうして、大帝國士道学苑史上、いつまでも語り継がれることとなる伝説の卒苑式が終わった。
帆村エンジ、神楽煙千代、佐々木小太郎、北川ハーレイ……
彼らにもそれぞれの卒業が訪れたのだろうか。
それはまた別のお話である。
「卒業したな!」
「卒業じゃなく卒苑だよ。通常の教育機関じゃないんだから」
「んだよ、こまけーなお前は!」
春が来て、無事に卒苑を終えたエンジとハーレイは、賞状の筒を持ち横並びに歩いた。
「あっという間だったね」
「そうだな。でも長かった」
「そうだね」
この日はお互い感慨深いものがある。
入苑式で初めて出会い、この三年間苦楽を共にしてきた。いわば戦友……。
だが、エンジはそんな名で呼ぶことよりもハーレイを『親友』と呼んだ。
エンジにとって、ハーレイと言う存在は自分が自分でいることのできる唯一の居場所であるとも言えたからだ。
だがエンジはストレートな言葉に出すことを嫌った。
ダサい、……そう思ったのだ。
彼もまだ10代である。そのような価値観は仕方がないといえるだろう。
だから、出来るだけ態度で表そうと努めてきたつもりだった。
「……ついに手に入れたな」
「ん、ああ……これね」
エンジはハーレイが腰から下げている紋刀を差した。
光沢のある黒い鞘に納められたそれは、新品でありまだ誰も抜刀したことのない、不可侵的な……いや、一種の神聖さすら感じる。
「夢、だったんだろ? 士になるのが」
「まぁね。でも、どうだろう……どうなのかな」
「なんだよ、悩んでるのか?」
「いや、迷いはない。迷いはないけど、ちょっとこれからを思うと……ね」
「お前らしいな」
「え?」
エンジはにへら、と笑うとハーレイの前に立つと彼の顔を人差し指で指した。
「そういうウジウジしたところがだよ!」
「なっ! ヒドイなエンジ!」
ケラケラと笑いながらエンジは楽しそうに走った。それをハーレイも怒った振りをしながらも口元を緩めて追いかけてゆく。
「ほらエンジ!」
追いかけていたはずのハーレイはすぐにエンジを追い抜いてしまった。
「自分で言うのもなんだけどさ。身体能力には自信があるんだよ、これでも」
ハーレイはエンジを追い抜いたままどんどん距離を離してゆく。
「うっわ! そういうとこズリィんだよ!」
先を走るハーレイを追いかけ、全力で走るエンジは追いつこうと更にギアを上げた。
「えんとーさいさま!」
千代の声。
普段ならば千代が呼んだくらいでエンジは立ち止らないが、その時の千代の呼びかけにだけは足を緩めた。
「なんだよ千代! 今いいところなのによ!」
「そこから先は行ってはなりません! ハーレイ様と同じ道を行っては……」
千代はエンジのすぐ後ろに立っていた。
ここは学苑だったはずだが、いつの間にか知らない地にいた。
「ハーレイと同じ道? っていうかなんだよここ……あ!!」
思わず立ち止まってしまったエンジはすぐに振り返る。
エンジの視線の中で、更にハーレイはエンジと距離が離れていった。
「やっべ! これじゃ追いつけなくなるじゃん!」
「いけません! えんとーさいさま! 行っては……行かないで!」
余りに鬼気迫る様子で叫ぶ千代にやや圧され、エンジは足を踏み出せないでいる。
「なんなんだ? なんだってそんなに……」
ハーレイは、光の差さない道へと突き進んでゆく。
「おい、千代! 後でハーレイに謝っとけよ!」
千代はエンジの元に駆け寄ると、ブレザーのジャケットを両手で掴み、揺さぶった。
「お、おい! 千代……」
「えんとーさいさまぁ……! えんとーさいさまぁ……!」
「なんで泣いて……」
「えんとーさいさまぁっ!」
エンジはベッドに横たわっていた。
卒苑式より3日も経ったというのに、一向に意識を取り戻さない。
エンジが横たわるこの部屋を見渡してみると、ここはどうやら病院のようだ。
眠るエンジの胸で、エンジの服を掴み千代が泣きながら名を呼ぶ。
周りには神楽の爺、まこと、小太郎と3子分、梶ヒロ、神雷がいた。
これだけ沢山の人間がエンジの危機に駆け付けたのに、一番ここにいなければならない人間の姿だけがない。
――北川ハーレイだ。
「笑えねェぞちくしょォ! 帆村ァ、起きやがれ!」
そう檄を飛ばす小太郎の姿も至る所に包帯が目立つ。後ろに立つ神雷も腕をギブスで吊っていた。
「命に別状はない。医師も言っていた……。後は本人の精神力次第だな」
神雷はいつもとあまり変わらない表情で言い放った。
その変わらなさが、周囲の人間に「エンジは必ず復活する」と自信を与えるようでもあった。
「坊……っ! 爺は酷く後悔しておりますぞ……初代炎灯齊はこのことを見越しておったのですな……我がかわいい孫が、息子に……くっ」
爺は目頭を押さえると、むせび泣いた。
「ちょっとみんな! お葬式じゃないんだよ! エンジ先輩は生きてるし、命に別状がないんでしょ!? 絶対にもうすぐ目を覚ますから! そんな暗いムード出さないでよ!」
気丈にまことは強く言った。その姿に千代は、自分を奮い立たせエンジを強く見つめる。
「そうです! えんとーさいさまは、必ず……必ず目を覚まし、もう一度炎灯齊を握るはずです。なぜならこの御方は、私の主であられる『三代目炎灯齊』ですもの……」
千代は、まことに感謝をした。そして、まことに対し尊敬の念をも抱いた。
……まことは、ハーレイに対し恋心があったのだ。そのハーレイが、エンジを斬ったセンエツの元へ、誰にも別れも告げずに去ってしまった。
エンジが起きた時、ハーレイがいないことを知ったら一体エンジはどうなるのだろうか。
少なくともまことは、ここにいる。ハーレイのことを知らないはずのない、まことが。
「おい、帰るぞお前ら」
「え、小太郎さん……帆村は」
「馬鹿言うな! ボンクラどもがァ! そいつが馬鹿面下げて眠ってる間に俺はもっと強くなってやんだよ! ……いいか帆村ァ、さぼってた方が悪ィんだぜ」
小太郎は病室を出た。
続いて、神雷が無言で立ち去り、梶ヒロが千代の肩を叩き「しっかりしろよ」と励ましの言葉をかけて出る。
「よしっ! 折角だから、おうち帰ってオナニーでもしようっと! 復活するって分かってるエンジ先輩をずっと眺めてても仕方ないし」
まことも病室を出ようとするが、なにか思い出したように戻ってきた。
「千代先輩。エンジ先輩をお願いしますね」
「……心得ております」
まことは片手を額にあてると、「じゃっ!」と病室を出た。
「……千代」
「お父様、千代は大丈夫です。大丈夫ですから、どうか……二人にさせていただけませんか」
爺も千代の頭を優しく撫でてやると、エンジの手を強く握り顔を見詰めた。
「坊、今はゆっくり体を休めなされ。再びその眼を開けた時、辛い現実が坊に突きつけられますがな……それを、千代と二人で乗り越えるのですぞ」
爺は、握った手を千代に渡すと「いや、みんなで……の間違いでしたな」と訂正し、場を去った。
二人だけになった病室で、壁に立てかけた炎灯齊がそれを見つめていた。
病室を出たまことは、何を思ったのか急に走り出し、自宅である【飛天院】へと急いだ。
家までの距離をずっと走り続け、まことは飛天院に着くと裏手にある自宅の玄関を勢いよく開けると、土間に立ち尽くした。
「おかえりまこと。今日は太くて固いドイツフランク……」
まことと同じように、ウサギの耳のように髪を結った母親が土間に立ち尽くす娘に気付くと今晩の夕食を卑猥げに話そうとすると、
「お母さん」
母親はまことの様子を見て、何か気付いたのか、ぽんぽんと頭を撫でた。
「しばらく部屋には行かないわ」
「……うん」
まことは階段を駆け上がり、自分の部屋に飛び込んだ。
電気もつけずに、カーテンから忍び寄る光だけの暗い部屋。まことはその部屋に立った。
「……ハーレイ、先輩」
どっ。
なんの音かと見れば、まことの膝が床に落ちた音だった。まことは、そのまま正座する形で上を向く。
「うわあああああああん」
――そう、平気なはずなど……なかったのだ。
「強くなりたい……そんな顔だな」
小太郎は無言で頷いた。
「だが俺は今この通りだ。どうする?」
神雷は自らのギプスをした腕を見せた。
「そんなもん、自分で考えてくれよ神雷先生ェ!」
「……ふん、そんな偉そうな弟子を取った覚えはないのだが。ここから先は特別料金だぞ? 払えるか」
「俺を誰だと思ってるんだァ!? 八代目燕塾塾長だぜェ!」
「あくまで……次期候補、のはずだが」
神雷はギプスではないほうの腕で雷迅の柄に触れた。
「お前は運が悪いな。俺が今使えるのは雷迅の方だ」
「運がいいンだよォ!」
燕尾閃を握り、小太郎は神雷に飛びかかった。
佐々木家に特設された認定抜刀訓練所。小太郎もまた心に開いた穴を埋めるため、強さを追うのだった。
――炎殲院の奥に祭られた神像の前で、爺は跪いていた。
じゃらじゃらと数珠をこすり合わせ、なにか念仏を唱えては必至で願う。
「紋護の神よ、どうか坊と……千代をお救いくだされ。始まってしまった運命ですがな、出来る限り……若いあの二人に幸ある方へ……どうか……どうか……」
しばらくそうして爺は顔を上げた。
流れる一筋の涙。爺は知っている、この後に起こる運命を。
だが、それがどのように働き、どのように廻るのか、それはきっと……彼ら次第なのであろう。
ずっと手を握っていた千代は、ずっと……ずっとエンジを見守り続けていた。
千代の脳裏には、これまでエンジと歩んできたあらゆることが巡る。
その膨大な量は、まるでエンジと一緒にいた時間よりももっと多いような気がするほど。
そのひとつひとつが、千代にはかけがえのない思い出となり、それを思い出で終わらせたないためには、エンジが復活するしかない。
約束されているはずの復活。
それなのに、千代は心の不安を拭いきれないでいた。
根拠はない。根拠はないが、エンジが目を覚ましたその時から、長い長い何かが始まるのではないか……。そんな風に感じてしまうのだ。
――だが、それらのことも今はどうでもよかった。そんなことよりも千代が望んでいるの……。
「えんとーさいさま……。改めてお誓い申し上げます。この千代、生涯をあなたにお仕えいたします。ですが、この千代はあなたに守られてばかりでした。
本来、あなたの身を守るのは私の仕事でもあるのに……。ですから、私はここにお約束いたしましょう。これからは、千代がえんとーさいさまを……」
込める力。伝わる体温。腕から心臓に昇りくる血。それは、エンジが生きていることを確かに知らしめた。
「絶対に、護ります」
「……いいんだな。北川ハーレイ」
「いいんです。もう決めましたから。」
「けけ、お前のような優等生がうちでなにをするつもりだぁ?」
「……」
「だっけどねん、いーじゃないのねん。偶然とはいえ、殺死紋句の才覚がある奴を拾えたんだからねん」
「……それがどういうものなのか分かりませんし、自覚もありませんが、僕はこの国を亡ぼすことが出来れば、それでいいんですよ」
To be 帝国刀紋伝えんぶれむっ!
学苑紋刀録えんぶれむっ! 巨海えるな @comi_L-7
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