第19話

……憎い。


……憎い……憎い。


 士どもめ、我らを出し抜き……この日ノ本之國を征服しおって……。


 この恨みは、必ず必ずや晴らしてくれよう。


 貴様どもがはしゃぎまわるお遊び、紋刀を殺す呪いの力を。


 呪う、呪う、呪う、呪う。


 我らは開国の犠牲により生まれし負の遺産。消された文化、刀の文化に取って変われたはずの崇高であり孤高、天上天下唯我独尊の技術。


 呪う……呪う……呪う……呪う……。


 我らは貴様どもを呪い、そしていつの日かその全ての刃を折りこの爪先よりも下に服従させてくれる。


 よって貴様どもがはしゃぎ散らす紋刀文化から最も重要な言葉を一句もらいこう名付けてやろう。



 【殺死紋句】と……。

彼は、夢から醒めた後も現実に戻って来れないでいた。頬に触れてみると濡れている。


――まさか僕は、泣いていたのか?


 寝ながら泣いているとは、武士の端くれとして情けないではないか。彼はそう思うと顔を洗おうと洗面台の前へと立った。そして鏡に映ったのは帝國男子らしからぬ金髪に、透き通るような碧い眼。見慣れているはずのそれを見て、彼は深く重いため息を吐いた。


「なぜ僕は、日本人じゃないんだ……」


 再び顔を上げた彼は、鏡の自分を睨んだ。当然鏡の自分もこちらを睨みつけるわけだから、睨み合いになりどのくらいかの時間が経つ。

 それは呪いの言葉には程遠いが、彼の憂いと悲しみに満ちた碧い瞳の奥にはどろどろとした憎しみが見え隠れしていて、言葉よりも彼自身が呪いの象徴なのではないかと誤らせる。


 彼の名は北川ハーレイ。


 生まれながらにして呪われた日本人。忌み嫌われ続けることを宿命づけられた、忌み子である――。

 劣等感と迫害にも近い差別。肌の色、目の色、髪の色が違う。


 確かに流れる日本人の血も、母がスウェーデン人だというだけでこの国の人間はさも汚れた血だとでも言いたげに、ハーレイを卑下する。だがハーレイの母は言った。


「ハーレイ……人を恨んではだめ。人を憎んでもだめ。大丈夫、辛いこともあるけれど我慢するのはほんの少しの間だけよ。だから強く、……強く生きて欲しい」


 母は日本で結婚し、日本で生活していたが帝国の厳しい鎖国条約により母は強制帰還させられた。……純粋な外国人である母は、祖国にいるハーレイの祖母や祖父に帰国することを強く勧められ、家庭を顧みない父親はそんな母の危機にも我関せずを貫いた。


 母が彼に言った先の言葉は、彼らの別れの時、母がハーレイにかけた言葉だったのだ。


「……連れていってって、言わないのね」


「僕は日本帝国の男……だから」


「強いのね。安心したわ……いつか、貴方が大人になったら必ず会いましょう」


「ママ……元気で」


 最後に母はハーレイを力いっぱいに抱き、声を出さずに別れの涙を流した。

 だがハーレイは、熱くなる目頭を必死で抑え、別れの悲しみに全力で耐える。その姿を見た母は、ゆっくりと微笑みハーレイの頭を撫でた。


「……私の自慢の子。誰よりも強い、私の息子」


 遠ざかる船はみるみるうちに小さくなり、手に乗りそうな大きさになってゆく船をおもちゃのようだと思ったことを、ハーレイはいつまでも覚えていた。

 歯を食いしばり、ハーレイはそれでも涙がこぼれるのを耐え、母との最後の時間も強くあろうと努めた。

ハーレイは母に心配をかけまいと、本当はついてゆきたい。だけども言葉の通じない半分日本人の息子を連れ帰ると、母の立場が悪くなってしまうことを恐れ、自ら残ることを決意したのだ。

 ハーレイは優しい子であった。誰よりも優しく、誰よりも思いやりのある子供。


 父親は、滅多に家に帰ってこない。自然とハーレイは有料施設に預けられることとなり、そこで青春のほとんどを過ごすこととなった。ハーレイは、父親が何者であるか知らない。

 何をしていて、どこにいるのか。なぜ母と結婚し、自分を作ったのか。


 母は「パパは人のためになる仕事を一生懸命しているのよ」というばかりで、その詳しい内容までは語らない。ただ、確かなのは……父は自分を一人にした。


 大好きな母が国に帰ってしまうのを止めなかった。恐らく対外的なものが理由だと想像はつく。だが、そんなものに家族を犠牲に出来る男をどうにも尊敬や親近感が湧かない。

 

……補足だが、家族と本人、両方に強い意志があれば強制帰還を免れる救済法もあった。当然、母は残ることを強く望んだが父は帰還に同意したのだ。そういった訳で、ハーレイの母は帰らざるを得なかった。

 これまでの物語でお察し頂けていると思うが、ハーレイがいた施設でも彼は差別の対象になり、常にいじめの的にされてきた。そういった有料施設といえば、訳アリの子供ばかりが預けられている。

 だがその中でもハーレイの存在は異端であった。それほどまでに帝国内に外国人は少ないのだ。教育の中で外国人を悪として教育されているわけでもないのに、鎖国社会が暗黙の中で、そういった悪しき常識を作り上げていた。

 なのにジョニーや一部のスター的位置にいる有名人、特に同盟に加盟している友好国の著名人などは雑誌やテレビなどを通じて国民の大きな人気がある。


 そんな自分と外での矛盾に苦しみながら、士道学苑に入るまで彼はずっと我慢を続けてきたのだ。施設の教員たちも、ハーフといえど外見的にはほぼ外国人の様相であるハーレイとあまり関わり合いを持ちたがらなかった。もしもなにかのトラブル時にハーレイを擁護し、他の生徒の家族からクレームが持ち上がった時、ハーレイの立場は非常に不利に働く。


 実に利己的でくだらない理由だ。生徒を預かる教員がそのような差別をしていいはずがない。だが、世の中というのは、外から眺めているよりも残酷なのだ。


 とにかく、ハーレイはそんな中で生きてきた。まだ18歳にしかならない少年がだ。誰も彼の優しさや思いやり、慈悲深さなどに目を向けなかった……エンジと千代を除いて。

 彼らだけがハーレイの暴走を食い止めていたのではないだろうか。いつ暴走してしまってもおかしくない中に、ハーレイはいたのだ。


 ……ハーレイが暴走したところで、彼を知る人間ならば誰もそれを恐れない。


 なぜならば士道に於いて彼のセンスは、凡人以下だったからだ。

 どれだけ努力を重ねても、どれだけ修練を積んでも、どれだけ体を酷使させても……目覚ましい上達や進歩は見られない。だがハーレイは続けた。


 他の方面であったならば、もっと人に……もっと色々な人間に認められたはずの身体能力を持っていたのに、彼はひたすら士道にこだわった。ハーレイはなぜこんなにも士道にこだわっているのか?

 

 帝国の人間に認めさせるため。これまで自分を蔑んできた連中を見返すため。帝国民としての誇りのため。


 そのどれもが正解に当てはまるが、それが全てでもない。


 実は、彼自身もなぜこんなにも士道に固執しているのか。その本質を自覚していなかった。 それは卒苑を間近に控えた現在だってそれに変わりはない。ただ……ハーレイの中でふたつ、自身に革命的な事象があった。


 ひとつは、思い込み。エンジのアドバイスで思わぬ能力の解放方法を得た。士道だと自身で認識出来ないほどに集中すれば、人よりも劣った士道センスをある程度抑え込むことが出来るようになったのだ。


 これによってハーレイの立ち振る舞いに幅が出来、乱れ太鼓以降……筆頭三年生になってからは次第に一目置かれる存在に成長していった。

 そしてもうひとつ。これこそがハーレイの人生を激変させるきっかけになる。


【他人の紋刀を紋句も詠わず、アラームも鳴らさずに抜刀できる】という余りにも異質な能力。そして、同時に目覚めた猛烈な悪意と殺意。何事もなく、普段通りの生活を過ごすハーレイからは想像できない闇を背負い、そして緋陀里を、刀狩の構成員を、その禍々しい能力を駆使し殺めた。


 誰もそれを知らない。知ることはない。誰も知らないところでハーレイは既に後戻りのできない場所に立っていた。エンジも、千代も、誰も彼を救うことのできないほどの闇。


 だが、エンジと千代のおかげでハーレイは、なんとか踏みとどまれていたのも事実だ。

 後戻りはできない。できないが、もしかしたらこれ以上闇に進まなくとも済むかもしれない。その可能性を持っていのが、エンジと千代。


 ……特に千代に対しては、自分でも不思議に思うほど惹かれ……特別な感情が生まれつつあった。

 



――卒苑。


 ハーレイにとって、士道学苑を卒業し紋刀資格を持つひとりの士になった時、どこへ向かってゆくのだろうか。


「ハーレイ……人を恨んではだめ。人を憎んでもだめ。大丈夫、つらいこともあるけど我慢するのはほんの少しの間だけよ。だから強く、……強く生きて欲しい」


 あの時の母の言葉が、彼を救う時は来るのだろうか。

「ハァアアアアアレィイイイイイせぇえええんぱぁああいっっっ!!」


 うわ、ハーレイママの言葉の次に聞くにはあまりにも下品なこの声の主は……。


「あ、赤目さん……」


 そう、赤目まことだ。ハーレイきゅんLOVEラブどっきゅん! 真っ最中の年中盛りのついたエロ妄想女子である。最近は彼女の赤い目は、妄想しすぎて充血したのでそうなったのではないかと疑うほどだ。


「ハーレイ先輩! まことのおっぱいをもらってください!」


 と叫びながらまことは制服の上着を脱ごうと捲った。ウサギのような真っ白なブラがまぶしい。


「わああああっっ!」


 ハーレイは慌ててまくり上げた制服を無理矢理下ろすと、「いきなりなにしてるんだよ!」とちょっとしたパニックになる。


「まことのやや小ぶりのおっぱいじゃだめですか……じゃあこっちはどうです!? まこと自慢、サーモンピンクの……」


「わかった! わかったからやめてくれないか!」


 スカートに手をかけたまことを必死で説得するハーレイの額は、脂汗でぐっしょりと濡れていた。


「いつもぶっ飛んでるけど、今日は一段とすごいね……」


 ハァハァと肩で呼吸をしながらハーレイは、登場からギアがマックスに入りっぱなしのまことに言った。

「だって……ハーレイ先輩……明日で卒苑なんて……。学苑から去ってしまう前にまことの【自主規制】を【自主規制】【自主規制】【自主規制】……」


「頼むから伏字しなくていいようなこと喋ってくれないかな……」


「しゃぶってくれないかな? しゃぶりましょうか!」


「わーわーわー!」


 動揺しまくるハーレイは、すっかりまことに翻弄されているようだ。これではさっきまでハーレイの闇がどうこうと言っていた私の立つ瀬がない……。ハーレイはクールで頭脳派の少年である。本当である。信じて欲しいのである。ぐぐ、赤目まことめ……。


 さて、それはさておき只今まことがハーレイに言った通り、今日はエンジやハーレイたち三年生が卒苑を明日に控えた日なのである。入苑式と卒苑式は数少ない学年合同行事なので、まことの知るところでもあったというわけだ。


 エンジと千代以外に、ハーレイを一人の人と認めているのはまことも同様であり、一人の人というより一人の男性として慕っているのも、ハーレイにはありがたい出来事であったと言える。


 ハーレイが思っているよりも周りを取り巻く環境は次々と移り変わり、望まなかったとしても友人がちらほらと増えてきた。それは、なにもエンジ達だけではない。当初、彼を差別の対象として見てきた生徒達も、ハーレイが筆頭三年生として職務を立派にこなす姿に、彼を対等に……いや尊敬すらする生徒たちも出てきた。


 ハーレイは思う。これも一重にエンジ達やまことのおかげである……と。そう思うと、卒苑というひとつの区切りですら感慨深いものに思えてくる。

 ハーレイは確実に、変わりつつあった。変わりつつある彼を邪魔するのが、例の能力。人を殺めたことは許されない。それゆえに後戻りはできない。


 だが、エンジ達がそばにいる限り……ハーレイはそんな闇から抜け出せるのかもしれなかった。ハーレイは、本当に笑顔を取り戻すことが出来るかもしれない。そんな希望。希望が微かにでも見える……ハーレイの未来。


 その岐路にあるのがこの卒苑式であるのかもしれない……、ハーレイは思った。


「エンジ達のところには行ったのかい」


「エンジ先輩のところですか? 行ってないですし、行く気ないですけど、ハーレイ先輩が言うなら一緒に行きましょうよ!」


「行く気ないんだ……。じゃあ行こうか」


 千代はともかく、エンジに対してハーレイが抱いている感情はもちろん、友情である。

 それが絆ともなっているのは確かだ。だが、エンジに対して抱いているのはなにも友情だけではない。


「ぅおおらあああああ!」


「ゴラァァアアア!」


「わー! また帆村と佐々木が暴れてるぞーー!」


――憧れ。


 彼の持つ強さへの憧れだ。

「お前はマジでしつこいやつだなぁ小太郎! もうすぐ卒苑すんだから大人しくファミレスの経営学でも学びやがれ!」


 炎灯齊を大きく振りかぶり、その巨大な刀身からは想像も出来ない速さで小太郎への距離を詰め、大きく踏み込んだ右足の膝に体重を乗せ思い切り炎灯齊をフルスイングする。

 インパクトの寸前で小太郎は上半身を大きく背に反りそれを避けると、上半身を起こす反動を利用して燕尾閃の腹をエンジの肩に目がけ振るが、一方のエンジもフルスイングの遠心力でくるりと周り、小太郎の斬撃を防いだ。


「なァにがファミレスの経営学だゴラァアア! テメェのせいで京都から……いや、広島から東京まで歩かされた恨みは絶対ェに忘れねェからなァ!」


 おおう、結局広島まで行ったのか。広島まで行った時点でなぜ気付いたのか、その辺も是非知りたいものだ。


「はぁ~あ!? 俺のせいだって言うのかボンボンレストラン! ありゃ進んでる俺に知った顔で勝手に着いてきたてめぇのせいだろうがよ! なんだ? 一人で帰るのが寂しかったのか? お?」


 斬撃を防がれた小太郎は、たかがそれしきで攻撃を緩めたりはしなかった。斬撃を防がれた跳ね返りを速度に変換し、すぐそばの机に跳び乗ると高く飛ぶ。


「寂しくて金玉しぼませてたのはテメェの方だろ! 大体ボンボンレストランってなんだボンボンレストランってよォ! レストラン部門は俺の管轄じゃねェ!」


 なぜか飲食部門扱いされたことにちょっと怒っている小太郎は、空中で体勢を変え、エンジに背を向けた格好で燕尾閃を振りかぶる。炎灯齊を頭上に掲げると、小太郎から放たれるであろう頭上からの斬撃に備え、「うるっせ、どうせ全部冷凍食品あっためるだけだろ!」エンジは言った。

 小太郎はエンジの予測に反して、斬撃を行わずそのまま着地する。


「なっ……!」


 着地をした場所は、丁度エンジの背後だった。頭上に炎灯齊を構えたエンジは予想外の着地に一瞬判断が鈍り、小太郎はその隙を見逃さない。


「ラァアア!」


 後ろ足払いで、エンジの足元を払い頭上の炎灯齊の重さが重力に従い真っ直ぐ地に落ちる。エンジが炎灯齊を抱くような格好で地に背をつけるか否かという瞬間、小太郎はすでに追撃の体勢に入っていた。背に背負うように振りかぶった長い燕尾閃を振り抜いたのだ。


「……!?」


 完全に捉えたはずなのにも関わらず、小太郎の手に持った燕尾閃にはなんの手応えも無い。すぐに状況を理解する為に小太郎は、その場に目を凝らした。


「けっ……! サルが!」


 何事も無かったように目の前に立ちっているエンジを見て小太郎は察した。足払いを最初から想定に入れて、エンジは払われたふりをしつつ次の攻撃に備えて宙返りの体勢を取っていたのだ。結果、小太郎が燕尾閃を振り抜いたタイミングで、エンジは炎灯齊の落下する重さを逆手に取った低い宙返りでそれを避けて見せたのだった。


「俺がレストランだったら、お前は猿回しの猿が丁度いいなァ」


 内心抱いた驚きも無自覚に、いつもの挑発と悪態で小太郎は答えた。

「な……なんでこいつらはただの喧嘩なのに、ガチで潰し合いしてるんだ」


 二人の喧嘩を見守るギャラリーの一人が、全く持って理解の出来ない意地の張り合いにごくりと唾を呑む。そんな調子で今日も元気に喧嘩は続き、最終的にはまた決着がつかずに次回に引き伸ばし……。よくあるライバルの構図だが、彼らはそれを地で行っているのだ。


「……卒苑、か」


 睨み合いの中でエンジは呟いた。


「あン? 感慨に耽るつもりか? サルの分際で人間サマの真似事すんじゃねェぞ」


 そう言いながらも小太郎の口元は笑っていた。


 この二人は分かっている。いつか必ず決着をつける日が来るということを。そして、それは学苑を出てからやってくるのだと。幾度も、幾度も、衝突しそして、どちらが強いのかをはっきりとさせるのだ。


 それを二人は言葉に出しはしないが、暗示し予見していた。士道学苑での戦いが全てではないということを。……いや、むしろこれから始まるのだと。


「言っておくがよォ、俺は抜刀してねェんだ」


「なんだよ。また『抜刀すりゃ勝てる宣言』か?」


「ったりめェだろォが! だがな、俺が抜刀するときっていうのはお前と真剣死合をするときだってこと……。単純にてめェが抜いてなきゃ死合は成立もしねェが、それよりも……だ」


 小太郎の言いたいこと、謂おうとしていることはエンジにも分かっていた。小太郎が、なにを求め、なにに勝ちたいのか。

「本気の本気のテメェ、《炎灯齊》としてのテメェに勝たなきゃ意味がねェ。そうでなけりゃ、俺が士として士である価値なんざねェんだよ!」


 小太郎は、エンジの《その先にある未来》を見据えて言っていた。その先の未来……それはなにか分からない。だが、抜刀もしない、小太郎から見れば《士道を舐めたなんちゃって士》だったはずのエンジ。

 そのエンジが自分の殻を破り、その後一度も抜刀しないままジョニーとの一件で刀狩と渡り合い、ケツイという未知の領域まで辿り着いた。

 3年生になり、何度もぶつかり合ったが《抜刀しないなんちゃって士》は、確実に力を持ち、お互い鞘付きとはいえ神雷にまで匹敵する強者となった。

 気づけば小太郎の中でエンジは、《抜刀しないなんちゃって士》から《抜刀を必要としない士》となった。そして、生涯の敵だと決めたのだ。


「次に会う時……、次の次に会う時……、次の次の次に会う時! ダンチで強くなりやがれテメェ! その全部に俺が引導を渡してやんぜ!」


「へっ、なに言ってやがる。次の次なんてねーぜ、《次》で叩き潰してやんよ!」


 エンジもその想いは同じであったと言っていい。この3年間はエンジの心を最も変化させ、成長させた。その中でこの佐々木小太郎という男の存在はとてつもなく大きい。

 初めて抜刀した相手。初めて斬った相手。初めて斬った……のに、立ち上がりまた対峙した強敵。エンジもまた小太郎を生涯の敵であると認めるのだった。

 そんな二人を見ていたハーレイは、やはり思うのだ。たった3年間で士道の高みまで登りつめたエンジ。その3年よりも途方もない時間をエンジよりも士道に捧げてきたハーレイ。

 その差は縮まるどころか、余計に距離を離し、気付けば前を走っていたはずのエンジは見えないところまで先に行ってしまったのだ。


 どろり。


 強さの憧れ。あんな風に強くなりたい。それは段々と表情を変えてゆき、強さへの嫉妬、あんな風に強くなれない自分への強烈な劣等感へと変わっていった。


 友情と憧れが、エンジとハーレイを強く強く繋げた。それがどこかでおかしくなってしまったのか。


「えんとーさいさまぁ~! また苑内で暴れて、もうすぐ卒苑なさるというのになんと嘆かわしいことでございましょうか! 今日という今日は……」


 エンジの身になにかがあると必ず駆けつける千代。普段は主従関係に留まらない滑稽な関係だが、いざお互いのどちらかが窮地に立った時、平気で命を張る強い精神力。それは千代に限らずエンジもそうだ。


 それですらハーレイには羨望の的になっていた。心の底ではダメだ。そんな気持ちを持ってはいけないと思っているのに、本能がそれを嘲笑うように蹴散らしてゆく。


『欲しいものは奪え。力を行使して、無理矢理奪い。そして飽きたら捨てるのだ』と。


 ハーレイが苦しむもう一つの邪悪な自分自身。これまでの溜めてきた劣等感や憎悪が、皮肉にも親友のエンジへの強い想い。千代への禁じられた想いを呼び水にして、ふつふつと沸き起こる。


 卒苑を間近にし、『もうすぐこの時間が終わる』と追い詰められているからなのだろうか。

「ハーレイ! うるさいマユゲルゲ怪人から逃げるぞ!」


 エンジはギャラリーの中からいとも簡単にハーレイを見つけ出し、手を取ると炎灯齊を引き摺りながら走った。


「待(む)ぁてぇえい三代目炎灯齊めぇえ! こんな多数の目が集まる場所でこの千代のスカートを下すとは、一体どのような折檻が必要かぁああああ!」


 全ての時間がスローモーションのように流れ、ハーレイの目には何か自分に向けて話しているエンジの顔が映り、後ろを振り返ると怒った顔で追いかけてくる千代。その後ろでは子分たちを引き連れて自分の教室へ帰ってゆく小太郎たちが自分に背を向けていた。


 ハーレイはこのゆっくりと流れる時の中で、全ての音を失くし、不思議な気持ちでふわふわとした世界を漂う。


――この時間が永遠でありますように。


 無意識に望んだその願いの言葉が、ハーレイの脳裏の中で不意に過った。

 色々な思いが彼の中で交錯し、混ざり合い、時に色の濃淡を変えながら混在する。ハーレイにとって、士道学苑での時間が生涯でなによりも幸福な時間であったのだ。ハーレイは、無意識の中でそれを分かっていて、その無意識がハーレイの目を覚まさそうとしているように、ぽつりと彼の脳裏で呟いたに違いない。


 そうでなければ、この先の悲劇に説明がつかないからだ。




「ふむ……。もう卒苑か」


 新しい競技士道の防具ブランドから、プロモーションのキャラに選ばれた神雷は、いつのものコートにマフラー姿ではなく、モデルが着こなしそうな黒のスーツ姿であった。プロモーション先のイベントホール、ステージの袖でスケジュールを確認した時、明日がエンジ達三年生の卒苑式であることを思い出したのだ。


「小太郎に三代目炎灯齊、ついポリにやパリポリつらもパリパリ」


「うわあああ百虎ァ~! 黒のスーツ着てたこせん食べないでくださいよ出番前に! っぎゃー食べかすが雪のように~~!」


「そうかすまパリ」


 まんべんなく肩や胸、ズボンに降りかかったたこせんの食べかすを払おうとスタッフが近づこうとした時、神雷は瞬時にして間合いを離した。


「ちょ、な、なんですか!?」


「俺は伝承使い、いつ如何なる時に敵の奇襲に遭うか分からん。例えばスタッフに化けて……とかな」


 スタッフの目つきが鋭くなり、表情が変わった。


「ふ、やはりな」


「だったら本番前にたこせんなんか食うなああああ!」


 スタッフの男が咆哮した魂の叫びに、神雷は無言になった。(敵なはずがなかった)

――一方、エンジと千代の帰りを数日後に控えた、早朝の炎殲院で齢80は超えているかと思われる年配の男性が、青いジャージに杖をつき、境内の砂利を鳴らして寺の奥に呼びかけていた。


「和尚~今日の運勢ば占ってくれや」


 静かながら重い足音を摺らせ、爺がやってくるとその男性を見て「おはやいですな」と声をかける。


「というよりも、うちは寺ですからな。おみくじも無ければ賽銭箱もない。これだけ毎日来ていたらそろそろ覚えてくれてもいいと思うのですがのう」


 苦言を呈しているが、顔はというとそれほど不快でも不満でもなく、可愛げを持って言っているのだとわかる。実に爺の人柄が出ているではないか。


「しょうがねぇじゃろ。分かっててひやかしに来とるんじゃあ。お前さんとこの自慢のガキ共がいなくなって、寂しくてボケてんじゃなかろうかと思うて気を使ってやってるんじゃ。感謝せえ。感謝したら酒でも出さんか」


「生憎、その自慢のガキが明日には帰ってくるんでな。悪いがそんなわけで爺さんに酒を出す訳にはいかんのだ。勘弁頼む」


 年配の男性は、わざとらしく「ちっ」と舌打ちをした後、嬉しそうに話した爺を見上げると「じゃあ茶でいいわい。茶で許してやるわい」とカカカ、と入れ歯を震わせて笑った。


 爺が「一杯飲んだら帰るんですぞ」と奥へ茶を淹れに下がると、一歩踏むごとに軋む渡り廊下で「坊、千代……この三年、長いようで短く、短いようで長かったですな。……おっと、これは顔を合わせてから直接言うべきでしたな……」と誰も見ていない廊下で嬉しそうに笑うのだった。

 学苑寮の最後の夜は寒い。辺りに風を遮る障害物が一切ないグランドならば余計に寒さは身に堪える。少年は、その風を体に感じ、この3年間を思い返していた。


「寒ぃな」


 少年の背中に話しかけたのは、エンジだった。エンジは続けて少年の背中に「黄昏ちゃってたか? ハーレイ」と拳をぶつける。


「黄昏……うん、そうだね。っていうかエンジ、よくそんな哲学的な言葉知っていたね」


「なんだぁ? お前まで馬鹿にすんのか!? 俺はな、お前や千代が思っているよりもずっとずっと頭がい~んだ! ……ところで《哲学的》ってなんだ?」


 目を見合わせたままほんの数秒の沈黙。そして、


「ぷっ……ははっ……!」


「あっはっはっ!」


 楽し気に二人の笑い声がグラウンドの中央へ走り、それをコンドルのような寒風が奪い去ってゆく。笑いの足がよろけはじめた頃、エンジが静かに始まり言葉を口にした。


「終わるな」


「うん、……もう、終わりだ」


 この三年は、エンジとハーレイの始まりでもあった。二人の友情と絆の始まり。

『大丈夫? つかまって』


『あ、ああ、すまねぇ』


 最初に交わした言葉。


「あの時、僕と同じいじめられっ子だと思った」


「はぁ? 俺がか? 冗談じゃねぇ」


「そうだね。君がいじめられるような弱い子じゃなく、とびっきり強い男だということはそのすぐあとに分かった。だけど、初めてエンジを見た時すっころんでたじゃん?

 そりゃジュースの使い走りで、手にジュースをいっぱい持った僕としてはそう思うじゃないか。仲間だ! ……ってね」


 エンジとハーレイは当時を思い出し、おかしくて笑った。立っているのが馬鹿らしくなったエンジは、その場に尻を下ろし手を土につけると、空を見上げた。


「けど、俺は違ったぜ。直観的にお前は強い奴だって思った」


「なにをいまさら、お世辞を……。らしくないよ」


「なに言ってんだ、本気だぜ? この士道学苑に、どっからどう見ても外国人のお前がいたんだ。……確かにあんときゃお前、パシリにされてたのかもしんねーが、色んなハンデ押しのけて、士道学苑に金髪の男が入苑したってことだろ?

 とんでもねー強さを持ってなきゃ、そんな馬鹿げたことはできねえだろ。そうでなきゃ、ただのバカだ」


「……ただのバカの方かもしれないよ?」


「そんなわきゃねぇだろ。って今なら思うけど、……そうだな。もしもただのバカだったとしたら、それはそれで親近感が沸く」

 嬉しそうにハーレイは笑い、「それじゃあエンジ、自分が馬鹿だって自覚あるのと一緒じゃん」と腹を抱えて見せた。


「ん? ……。うああっ! 違うって! 俺は、その賢いからな! 馬鹿には優しく……」


「いいことを教えてあげるよ。エンジ、それはね『語るるに落ちる』って言うんだぜ」


「カタルル?」


 空が落ちてきそうな星の綺麗な夜。寒い日の空の方が星は綺麗だと言うが、それを丸々信用するのであれば、この日はそんな夜だった。もう四月も間近だというのに、肌寒い空。二人はお互いが代わる代わる学苑での思い出を語り合った。


「すごいよ、エンジは」


「なにが」


「本当に最後まで抜刀しなかった」


「……ん」


 ジョニー襲撃事件で危うく抜刀しそうにはなったが、エンジはこの三年間、たった一度を除いてついに抜刀せずにこの日まで過ごした。世の中に出れば、そういう卒苑生も沢山いるが、この学苑生活ではそうはいかない。

 特に三年生の一年間でみっちりと抜刀訓練を受ける士道生徒たちの中で、エンジの例は史上稀なケースだと言える。いくら特別な許可があったからと言っても、それは生半可なことではないのだ。


「抜刀することは、士の誇り……士道の魂だ」


「お前はどう思ってんだ。俺が抜刀しねぇこと」

 ハーレイは「う~ん……」と考える素振りを見せたが、すぐに座っているエンジを見下ろし、


「士道の士としては、甘いと思う。伝承使いとしても自覚が足らないとしか言えない」


「お前……」


 少し顔つきが変わったエンジを見ずにハーレイは構わず続けた。


「だけどそれは前例がないから。僕も、他のみんなも、世間も、誰もそんな士を見たことがない。誰も知らないから、馬鹿にする。

 僕も知らないから、自覚が足りないと言ってしまう。だけど、その気持ちも本音だけど、それよりも大きく持っているものがあるんだ」


「それよりも……?」


「誰も知らない士道を貫く君が、どう士道を変えるのか……ワクワクする」


 一瞬顔つきをこわばらせたエンジは、すぐに表情と肩の力を抜くとはっはっはっと一つトーンを高めに笑い、なにかを睨むようにグラウンドを見詰めた。


「ワクワクか……そうだなぁ、どう士道を変えてやっかなぁ……。けど」


 脇に横たわった炎灯齊を持ちあげ、立ち上がると誰もいないグラウンドに向かって構える。


「その前にぶっ潰さなきゃなんねぇ奴がいる!」


 この気持ち。ハーレイはエンジのこの感情に、随分と前から気づいていた。

 真っ直ぐな感情があるからこそ成り立つ想いの強さ。だが、それは『抜かない』という決意と覚悟があるからこそのもの。これが揺らぎ、エンジの中で正義の均衡が崩れた時……。それはとてつもなく禍々しい力になるのではないか。

 その危うさにハーレイは、かなり早い段階で気づいていた。そう、あの日小太郎に向けて抜刀した時から――。

「……まだ紋句、言いたくないの?」


「うっ」


 エンジは痛いところを突かれたらしく、はっきりしない発音の音を喉からこぼした。じろりとハーレイを見ると、うむむ……と眉間に皺を寄せて黙りこくった。


「抜刀しないのも立派な覚悟だけど、……その根本にあるのが『紋句を言いたくない』なんだもんなぁ……。なんていうか、子供っぽいっていうか……」


「うっせえな! いいだろなんだってよ! 俺は紋句なんて必要ねーの、これからだってこの鞘を被った炎灯齊と付き合っていくんだからよ! それに大体、中の刀身と納刀状態で形状が違い過ぎんだ。抜いたところで戦い方なんざわかんねーし」


「もっともと言えばもっともだけど、……言い訳くさいなあ」


 珍しくいじわるな物言いでからかい、エンジはハーレイのからかいに気持ちよく乗ると、お互いふざけあった。無言の校舎たちが彼らを見詰め、風が体温を掠め取り、夜がこの世の終わりを歌う。

 世界は今、間違いなくこの二人のために存在し、それが過ぎるのを名残惜し気に見詰めているだけだ。もうすぐ完成してしまう彼らの学苑生活に気づいてしまわぬようにもがいているようにも見えてしまう。


「終わりじゃないよね」


「ああ、始まりだ」


 だがこの夜にも終わりがある。明るくなってしまってから、訪れる終わりに後悔してしまう前に、二人は寮へ帰ることにした。刃通力をより使いこなすことが出来るように成長したエンジは、すっかり炎灯齊を引きずることが少なくなり、肩に担ぐことが多くなった。

 おかげで夜のグラウンドを歩いても、騒音にはならない。人間、成長するとは誠に素晴らしいことなのである。

 寮までの距離が徐々に近づいてゆく中、エンジはとあることをハーレイに聞きたかったのを思い出し、「そういえばさ」と言葉を探しながら宙を見詰めながら切り出した。


「なに?」


「仮紋組は明日、紋刀を授刀するんだろ? ってことは、紋句の登録はもうしたってことだよな?」


「そうだね。ひと月前くらいに紋句登録申請書は角田先生に提出したよ」


「……なんにしたんだよ。紋句」


 興味ありげにエンジが尋ねた。


「なんだよ……。どうせ明日の登壇紋句詠唱で聞くことになるだろ」


 少しはにかみながらハーレイは寮までの歩みを速め、エンジの質問から逃げようと試みる。


「聞かせろよー! 友達だろ?」


 負けじとエンジは駆け足でハーレイに追いつくが、ハーレイは更にスピードを速めた。


「友達だからいやなんだよ! 紋句を言いたくない君にだったら分かるだろ」


「え? なに? わかんなーい」


「……ぐっ! このペテン師!」


 単純な足の速さで、身体能力の秀でたハーレイにエンジが敵うはずもない。同じく駆け足で寮に向かったハーレイは、あっという間に距離を離した。


「おいハーレイ! ……ぐぅ、このケチがぁあ!」


 どこからか角田教師の「うるさいぞ! 誰だこんな夜中に叫んでるのは!」という声が聞こえた。



 

 ――卒苑式に相応しい快晴……だと良かったのだが、この日は空が灰色の絵の具がお好みの天気であった。


 今にも雨が降りそうな天気。卒苑式自体は、体育館でやるので雨が直接なにか影響することはない。だが、3年間を終えるその日が曇天だと言うのは、些か残念ではないか。


 1年生と2年生が卒苑式の準備をするのは毎年恒例である。もちろん、エンジ達も同じことを経験してはいるが、今日の主人公は自分たちだ。今までの《送る側》から《送られる側》にポジションが変わった。卒苑式が始まる前のやや慌ただしい館内の様子を見て、もうしばらく経てばこの壇上に卒苑生たちが登る。……そうすれば、エンジ達の学苑最後の儀式が始まるのだ。


 3年火組では、灰色の空に閃光と共に走る稲妻が窓の外に踊っていた。生憎の天気ではあるが、それぞれが思い思いの言葉と態度でもって、友人たちと最後の時を惜しみ、そして楽しんでいる。

 その中で昨夜、グラウンドでふざけ合い、語らいあったエンジとハーレイは、式が始まるまでの間、特別なにか意味があるわけでもなく、ただなんとなしに言葉を交わさないでいた。


「雷か……雨もきそうだな」


 窓の外を眺めるハーレイの背に「北川」と角田教師の声が肩を叩いた。


「はい」


「そろそろ最後の打合せだ。体育館に来い」


 筆頭三年生であるハーレイは、答辞を読んだりところどころで進行を務めたりと、卒苑式だというのにやることが山積ある。だがそれも士道学苑に於いての貴重な体験だと、ハーレイは不平不満など微塵も持たなかった。

「嵐でも来なければいいのですけれど……」


 風組では千代が不安げな表情で護煙丸を握り締め、こんなめでたい門出の日なのにも関わらず胸を過る、妙な不安に握りしめた護煙丸に力がこもった。

 千代から離れた席で、梶ヒロが友人に囲まれてうぉうぉうと男泣きをしているのが、耳障りで、千代は窓を開けると雨の降り出しそうな空と、湿った空気に胸を騒がせる不安をより一層に募らせた。



 ハーレイが体育館に着くと、檀上の端に置かれた音響装置の周りで役員の生徒と、教師たちが集まっていた。


「どうかしたんですか?」


 ハーレイが誰となしに群れに向かって話しかけると、何人かがこちらを振り返り「筆頭三年生の北川だ」とわざわざ彼を紹介するように囁く。


「おお、北川か……すまんな。ちょっと機材のトラブルがあってな。悪いが画像保管庫にあるツールボックスを取ってきてもらえないか」


「それは大変ですね。わかりました、すぐに取ってきます」


「ああ頼む。悪いなぁ、今日はお前たちが主役なのに」


「いえ、これも想い出ですよ」


 ハーレイはそう言うと体育館を出て本校舎へと向かった。


 教室や3年校舎はあんなにも騒がしかったのに、外から眺める学苑は静かなものであった。ハーレイの足音だけが砂利を含んだ音で校舎の壁に跳ね返り、そのリズムで植木の葉が揺れるように見えた。

 それらがこの短い道のりを長く長く感じさせる。こんなにも自分がセンチメンタルになるとは思っていなかった。学苑で自分は今まで味わってきたどの場所とも同じで、良い思い出になるとは思えなかったからだ。

 だが、事実としてハーレイは今、少し……いや少なからずの寂しさを感じているのだ。

 ハーレイのセンチメンタルな気分は思わぬところで打ち消された。画像記録保管庫のドアに手をかけたときに違和感を感じたのだ。


――開いている?


 誰かが鍵をかけ忘れただけなのかも知れない。だがハーレイはそんなに楽観主義者ではなかった。抵抗なく開くドアと、奥へと開ける視界。無骨な青みのかかったグレーの鉄棚に並んだ夥しい両の記録映像。

 棚に収まりきらないテープは、整理した人間からすれば片付いているつもりなのだろうが、ハーレイのように滅多に訪れない人間からすれば乱雑に置かれているとしか思えないようにあちらこちらに高く積まれている。


 それらの影になにかが隠れていまいか、ハーレイは構えながらなるべく足音を立てないように奥へと進んでゆく。


 ――やはり気のせいなのか。


 単純に考えて、もしかしたら他の生徒が先ほどの教師に頼まれて先に来ていただけかもしれない。いや、他の教師が別件でここを訪れただけなのかも。

 どちらもあり得ないシチュエーションではないし、それがあったところでなにも不審なことなどない。ではこの違和感と不審感は、ハーレイの士としての成長か、はたまただの神経質なだけか。そのどちらであっても、それほどに平和的なことはない。それ故ハーレイはそのどちらであってもいいので、どちらかであってほしいと願う。


 心でそう願ってはいても、半ば確信めいたものをハーレイは持っていた。或いは、2年も前のハーレイならばそうえあったかもしれない。

 だが、今のハーレイはご存知の通り、《昔とはあるゆる面で違う》のである。……だから、ハーレイの予感は的中してしまうのだ。

「気づいてるんだろ? 坊ちゃん」


「――ッ!」


 突然の呼びかけは彼の予想になかった。わざわざ自分から正体を現す必要などないはずだったからだ。ハーレイのシミュレーションでは、おそらくは自分が相手を見つけその際に仕合に発展するのか、それともしないのか。それは相手次第だとしても、少なくとも最初に敵を発見するのは自分だと思っていたからだ。

 その自分が見つけるはずだった敵が、見つかってもいないのにハーレイに話しかけてきた。このパターンをハーレイはよく知っている。


「随分、自分に自信があるようだね。まさかここで僕を殺す気かい?」


「おいおい、物騒なこと言うなよ、やべぇな。大体ここはお前の学校だろう? そんなところで会った奴に殺されると思うかい?」


「思うさ。ここは『人を殺すための武器で人を殺す術を学ぶ学校』だからね」


「……っへ~、物騒なのはお前の思想の方だったか。紋刀や士道のことを『人殺しの部隊』みたいに言う奴は初めてだぜ」


 修学旅行の時のように、ハーレイは話し声から相手の位置を探ろうと、出来るだけ喋らそうと試みていた。


――横か、後ろか……それとも


「上だよ」


「!」

 ハーレイが見上げると、棚の一番上、今にも崩れ落ちそうなテープの奥にハーレイを見詰める影があった。顔も身体もよくは見えないが、それが自分に対して善意を持っていないことだけは確実にハーレイは捉えていた。


「なんで《呼び出された》のか気になるだろ?」


「呼び出された? なにを言っているんだい。僕は先生に言われてたまたま……」


「その先生って、本当にお前が知っている先生かよ? やべぇな、え?」


 影にそう言われてハーレイはハッとなった。……確かにそう言われてみれば体育館で作業をしていた教師は自分が知らない教師だ。だからといって誰が疑うだろう。3年制のこの学苑で、教師が幾人もいて当然であり、その全ての顔を知っている必要もない。

 そこに知らない顔の教師がいたとしても、誰がそれを『教師ではない』と思うだろうか。


「あそこに生徒達もか……」


「違うよ。どんだけ疑い深ぇんだ、生徒の連中は本物さ。みんなお前と同じで『どの担当教師かわからないが従っている』だけで悪気も他意もない。ただの生徒だ」


 いつ飛び出してきても構わないように、ハーレイは体の力を緩めた。いつでも飛び退けるように、身体中の緊張を緩めたのだ。


「……聞いていたのと違うな。そんなに相手や戦局のシミュレーションを予測して、スムーズに構えられるとは。もしかしててこずっちまうか、俺」


 ハーレイは表情にこそ出さないが、影の言葉にわずかながら反応した。筋肉を緩め、初撃に備えているなどと、なぜそんなことがこの男に分かったのだろう。だが答えはすぐにでた。


――この男、強い……。

「はろぉう、おう弦介だ。今北川ハーレイと接触した。フェイズ2に移行すっからお前もこっちにこい」


 コトダマを使い男は仲間らしき人物を呼び出す。その会話の内容から、2対1になることは免れないと悟ったハーレイは、この状況を突破する手段をフル回転で考えた。


「そう怖い顔するなって、別に殺そうとか思ってねえからよ、大人しくしてりゃ怪我もしねぇって」


 ハーレイが手に持った仮紋を指先で操作し、敵に知られることなくコトダマに接続しようと「僕をどうするつもりだい。何故僕を知っている」と影に話しかけた。


「ッ!」


 だがその次の瞬間、影はハーレイの目の前に立ち紋刀を持つ腕を強引に捩じ上げた。


「やらせないよ? コトダマだろ、そりゃあ駄目だ」


「ぐっ」


「ガキにしちゃ良い判断力と行動力、それに度胸だと思うぜ。これで《士道に嫌われてる》だなんて可哀想だな」


「な……に……?」


 捩じ上げられた腕の痛みに顔を歪めながらハーレイは、男が言った言葉に反応した。男は、こんなにも至る所にテープが積まれている狭い室内で、なにかを落とすこともなく、音さえもさせずにハーレイの目の前に現れ腕の自由を奪ったのだ。

 刀を抜かせないことに長けたこの動き。自ずとハーレイはその男の正体の半分を知る。


「違うな。士道に嫌われているんじゃない。《士道を憎んでいる》のが正解だな」


「刀……狩り……」

 生徒から肩越しに「先生、どこへ?」と話しかけられ、男は「そういえば画像保管庫には鍵がしてあったことを思い出してな。北川の様子を見てくるよ」と答えた。

 教師を演じていた、今まさにハーレイが対峙している男の仲間と思われるこの男は、恐らくは今頃ハーレイが【なんらかの出来事】に見舞われているだろうことを思い、唇を歪ませた。



「うォオい、神雷はいるかァ?」


 男が体育館から出ようと出入り口に差し掛かった時、彼が行くのを阻むように小太郎が現れた。小太郎といえば、男の行先を阻む気は毛頭無かったが、突然眼下に現れた頭頂部に少し眉が動く。


「……誰だァ? お前」


「教師をからかうんじゃない。通してくれ」


 小太郎の言葉をさも教師のようにいなし、男は小太郎の脇を潜ろうとする。


「ちょい待ち」


「……なんだ」


 小太郎は怪訝な顔で、男を見下ろし無言で数秒見詰めた。


「急いでるんだがね」


「てめェ、うちの学苑の人間じゃねェな?」


「!」

 小太郎と男の双方の中で、明らかに空気が変わるのが分かった。


「くっ……!」


「!? オイ、待ちやがれェ!」


 小太郎の大きな声に体育館で作業をしていた生徒達が一斉にこちらを振り返った。


「さ、佐々木小太郎だ!」


「どうしたんですか?! 先生呼びますか!?」


 生徒達の呼びかけに小太郎は、他の教師を呼ぶように言おうと口を開けたが咄嗟に思いとどまった。


「いや、誰にもいうな! そのままお前らは準備続けとけ!」


 生徒達の返事を聞かず、小太郎は男の後ろを追った。


「ちィ……! どんな速さだァ!」


 教師を装った男は、凄まじい速さで小太郎を引き離してゆく。その身のこなしは、明らかに只者ではなく、士道を心得た者だとすぐにわかった。

 だが学苑の人間ではない。小太郎の御家である燕塾は、学苑の運営にも関わっている。教師の情報などは彼の手元に届くようになっているのだ。

 そのため、小太郎は把握しているほどでなくとも、学苑に在籍していない教師くらいは分かっている……というわけだ。しかし、それは同時に小太郎を内心焦らせた。

 何故ならばそれはつまり、学苑の関係者でない士道の士が侵入してきたということであり、【刀狩である可能性が高い】ということだった。


「全校生徒700名前後イコール紋刀の数……それに学苑に祀られている士道の象徴、苑刀【正宗】。刀狩が欲しがるものが山程ある宝島だからなァ、正直いつ来てもおかしくねェとは思っていたんだ」


 冷や汗に額を濡らしつつも小太郎は独り言を漏らした。少しでも目を離せば男を見失ってしまいそうだ。


「よりによって卒苑式においでなさるとは、空気読めねェゴミどもだな! ……クソッ!」


 小太郎は抜刀しようかと思ったが、思いとどまった。アラームが鳴ってしまっては大事になってしまう。刀狩の存在を広く知らせるという面ではメリットがあるが、そうなった場合、恐らくは卒苑式どころではなくなるであろう。

 それを見越した小太郎は、握った燕尾閃の鞘に力を込めるしかなかった。


「ぐっ! 今日ほど紋刀のアラームシステムが煩わしいと思ったことねェぜ……!」


――間合いさえ詰められたら叩きのめせるのに!


 小太郎の胸の奥で彼の闘争心と士魂が叫ぶ。だがそれは空しく無言で廊下を横切る風にしかならなかった。


「クソッタレ!」

「さて、お前らそろそろ準備しろ」


 角田教師の言葉で、エンジは教室内をキョロキョロと見渡した。


「あの角角先生~ハーレイがいないんスけど」


「誰が角角先生だ! お前3年間俺のクラスだったよな? なんで覚えてないの? ねぇなんで? わざとだとしてもそれはそれでショックだぞ先生」


「うるせえ角刈りですね」


「え? なにそれ? 敬語の意味あるの? 内容が暴力的過ぎるよね? ね?」


 エンジが無言で『いいからさっさと答えろよ』と炎灯齊でガツ、と床を叩く。


「……本当にお前のような乱暴な生徒と離れられて俺は幸せだよ。ある意味今日は俺の卒苑式でもあるな……」


 ぼそぼそと角田教師は呟きながら、エンジの質問に対して


「あいつは筆頭三年生だからなにか言われているんだろう。恐らく、俺達クラスとは別で登壇するはずだ」


 と答えた。


 エンジは「ふーん」とつまらなさそうに席に座り、卒苑式を間近にした教室内を見渡した。


「ともかく、だ。あと30分ほどで卒苑式が始まるぞー。お前らちゃんと整列していくぞ」


 ところどころから生徒達の返事が飛び、ぞろぞろと廊下へと出始めた。

「帆村~!」


 聞き慣れない声がエンジを呼び、その方向に向くといつも小太郎の周りを取り巻いている子分Aが居た。


「お前は確か小太郎の……」


「お前が小太郎さんを呼び捨てにするな!」


「ああ、悪かったよ。お前は確か小太郎の……」


「言い直してない!」


「うるせえな、炎灯齊で煎餅みたいにぺしゃんこにすんぞ」


「すいませんすいませんもう逆らいません子分にしてください」


 エンジが子分Aの周りを見てみるが、子分Aの言うように小太郎の姿がない。


「他の連中は?」


「BもCも小太郎さんを探しているでやんす」


 やんす、ってなんだ? と心の中で思ったがあえて突っ込まずエンジは「そうか」とだけ答えた。エンジが気づいていないようなので、私が突っ込まさせてもらうが……お前もB,Cって呼ぶんかい!! ……ふぅ、気が済んだので先に進もう。


「小太郎さん、もしかして卒苑記念に帆村を肉片にして自社チェーンのレストランメニューに『炎灯齊産肉の厚切りステーキ カレーバイキング付き』として出すんじゃないかと思って来てみたけど……違うみたいだな」


「見たら分かるだろ殺すぞ」


 子分Aはニッコリと笑って深いお辞儀をして去っていった。命乞いの代わりらしい。

――小太郎とハーレイ。


 これまでもなにかとハーレイのことを目の敵にし、毛嫌いしてきた小太郎だけにこの二人がこの場に於いて同時に不在だという事実。それはエンジを不安にさせた。

 今の小太郎がハーレイに対し、そのようなことをするとは思えない。だが、小太郎にその気が無かったとしても、ハーレイはどうだろうか……。


 確かに2年も前なら、ハーレイが自ら小太郎に刃向うことなど有り得なかっただろう。

 だが、今の彼ならばどうだろうか。

 エンジはハーレイの変化にうっすらとではあるが気づいていた。そのどろりとした重く黒いもの。だがそれはほんの一瞬垣間見せてはすぐに消えてゆく。気に掛けるほどのものではない。そう自分に言い聞かせてきた。だが、筆頭三年生になったあの乱れ太鼓から、ハーレイの目には自信が宿った。堂々とした自信の色だ。


 無論、そのこと自体は喜ばしい。だがその後から、ハーレイが一瞬だけ見せる闇がこれまでよりも、強くなっている気がしたからだ。


――今のハーレイならば、もしかすれば小太郎を恐れずに向き合うかもしれない。


 小太郎の性格ならば、もしもハーレイから敵意を露わにした場合、受けて立つだろう。小太郎と何度も戦ったエンジだからこそ知っている。いくらハーレイが強く自信を得、強くなったとしても、それでも小太郎には敵わない。

 それだけは動かせない事実なのだ。それをエンジは士として知っていた。


「そんなわけあるかよ!」


 自分に言い聞かせるようにエンジは言い捨て、生徒達が向く体育館の方向に向き直った。

「よし、じゃあ会場に向かうぞ~! 全員、前の林組に続いて体育館へ迎え」


「はーい」


 生徒達の間延びした返事が、角田教師への親しみを表している。どうせこの男も式が始まれば、目を当てられないほどに号泣するに違いない。(なんなら今も少し涙目である)


 各教師の号令で、生徒達の列が廊下を溶岩のようにゆっくりと流れ進む。生徒達の緑とほうじ茶のような茶色がぞろぞろと蠢き、校舎を顔に見立てた口から吐き出されるように外へ出てゆく。


「先に一年生と二年生が会場に入ってるからな。みんな胸にちゃんと牡丹を付けてるな?」


「あ、やべ」


「ん、いま「あ、やべ」とか聞こえた気がするなぁ~? 帆村くん」


「すぐ取ってきまーす!」


 エンジが今来た道を他の生徒たちの流れを逆流しながら進んでゆく。生徒達の胸には卒苑生の証である牡丹が飾られてあり、よりにもよってそんなおめでたいものを忘れるとは、最後までエンジはエンジらしい……と言おうか。


「ったく、あいつは……。入苑式の時も確か遅刻してたよな……」


 呆れ顔ながら口元を少し緩め、角田教師は急いで教室へ戻ってゆくエンジを見て言った。




「すまん。振り切れなかった」


 弦介の元にやってきた男は、開口一番そう報告し、なんのことかわからない弦介の視界に、男を追ってやってきた小太郎が入ってきた。


「……ったく、そんなガキに追いつかれてんじゃねぇよ」


「すまん。足には自信が無くてな」


「仕方ない」


 弦介が持っていた紋刀でコトダマを開き、「こっちに五人ほどよこせ。邪魔されると困るんでな」と話した。


「これでどうにか時間稼ぎになるだろ」


「すまん」


 再度謝る男に掌で応えると、なにもなかったかのように二人は奥の画像保管庫へ消えようとした。


「待てよゥオイ! 俺サマを無視するとはいい度胸だなァ、エエオイ!」


 小太郎の眼の前で去っていこうとする二人と間を詰めようと駆け出しながら小太郎は叫んだ。弦介と距離を詰めた時、弦介が誰かを肩に担いでいるのが目に入り、小太郎はその状況が理解出来ないながらもほんの一瞬固まった。


「北……川……?」

「ほら、見てみろ。北川ハーレイのご学友さんじゃねえかよ。これで生かせておけなくなったじゃねえか」


「すまんって言ってるだろ。もう謝るのも3度目だ」


――まずい。


 小太郎は直感的に悟った。これは抜刀して戦うしかない……、いや、抜刀して戦わざるを得ない状況が確実に来る。思わぬ真剣死合の予感に、小太郎は全身が緊張で強張った。


『全てが……』


「いやいやそうはさせないぜ」


 小太郎が紋句を詠おうとした瞬間、男が小太郎の間合いに土足で踏み入った。


「なっ!?」


「足には自信はないけどよぉ、それはマラソン的な持久走が苦手って訳でね。仕合の中の間合いとなると話は違うわけよ」


「なんだ? そりゃ俺に対する言い訳か」


 男が改造戯刀で小太郎に斬りかかり、紋句を唱えようとした小太郎は咄嗟に詠うのを中断して、納刀状態の燕尾閃で受け止めた。しかし、緊張感の無い様子で男は弦介に、「このままじゃ絶対にお前、俺のこと馬鹿にするだろ? 汚名返上しとかねえとよ」と談笑するように笑った。


「ぐっ……舐めやがっ……って」


「悪いね、援軍が来るまでお前にはこのままプルプルしててもらうぜ」


 男がほくそ笑みながら小太郎に笑いかける。小太郎は力一杯に抗おうと燕尾閃に力を入れているというのに、男はまだまだ余裕……といった様子だった。


――ここからこんな奴らがまだ増えるのか……? やべぇ……、せめて神雷でも呼べりゃ……


 小太郎の思いも空しく、窓ガラスの上部から何人かの爪先が現れ、刀狩の仲間であると確信させた。


「起きろ北川ぁ!」





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