逢魔時

暁野スミレ

逢魔時

「なんだ。いたのかよ真昼まひる


 校門前に立っていた彼女は、僕を見るなり頬っぺたを膨らませた。

 真っ黒な長い髪が流れて、白い首筋が夕焼けの色に染まっていて、僕の心臓がどきりとする。


「いたのかよ、って何。待ってたのに」

「だから待ってなくて良いってのに」


 減らず口を叩き合いながら、帰り道を2人並んで歩く。

 小学校を卒業したから、てっきりもう一緒に帰ることはないと思ってたのに。真昼は未だに僕と一緒に帰りたがる。


「暗いし寒いね。もうすぐ冬だもんね」

「なんだよ。寄るなって」

「なんでよぉ」


 真昼が肩を寄せようとしてくるので、距離をとって先を歩く。

 背中から、不満そうな声が聞こえた。


「いいから。真昼、婆ちゃんに早く帰れって言われてんだろ」

「……うん。『逢魔時おうまがときにふらふらすんな。「夜」の子に連れてかれっちまうぞ』って口すっぱくして」

「なら早く帰るぞ。にしても婆ちゃん、本当にオカルト信者だよな」

「オカルトじゃないもん。お婆ちゃん、昔「夜」の子に連れてかれそうになったって言ってたもん」


 僕が早足で進むのを、真昼が後からついてくる。

 辺りはもう暗くなりかけていた。けど、午後6時のチャイムが鳴っていないから、まだ真昼の門限は過ぎてないはずだ。

 早く帰らないと。また真昼の婆ちゃんに『逢魔時にふらふらしおって』ってどやされる。


「ねえ。あそこに立ってる子知り合い? こっち見てる」


 そうやって急ぐ僕の上着を引っ張って、真昼が遠くを指さした。

 薄暗い中で目を凝らすと、十字路で、女の子がぽつんと立っていた。

 真昼と同じ黒くて長い髪。背格好も同じくらい。制服だって、僕たちが通う中学のもの。でもあんな子、この辺で見かけたことない。


 女の子のビー玉みたいにぐりぐりした目が、こっちを見ていた。

 たまたま出くわした野良猫に、じっと見られているような感覚だ。

 こっちに来ることもなければ、どっかに行く様子もない。


「真昼はここに居ろよ。僕が話してみる」

「やだ、やめようよ」

「あの道を左行かないと帰れないだろ。大丈夫だから」


 止める真昼を振り切って、女の子に駆け寄る。

 ボクが近づいても女の子は黙っているので、思い切って話しかけた。


「僕たちに何か用?」


 女の子は何も言わずにこちらを見ている。僕は続けて尋ねた。


「お前、誰なんだよ」

「ヨル」


 女の子はそれだけ答えた。ヨル。それがこの子の名前なのか?


「ヨルなんてやつ知らないし、お前も見かけたことない。

 この辺に住んでるやつじゃないだろ」

「ううん。昔からずっといるわ」


 ヨルは、きっぱりと答えた。

 でも、こんな子本当に見たことがない。


「暗くなったから、誰かと一緒に居たかったの。もうすぐ逢魔時だから」


 ヨルはくすくすと笑う。


「ねえ、一緒に行きましょ? だってもう暗いもの」

「行くってどこに」

「あっちの方よ」


 ヨルは十字路の右を指さした。その先に続く道は灯りが少なくて、もっと暗くなっている。

 母さんが、十字路の右は危ないからあんまり行かないようにって言ってた気がする。実際、遊び場所もないし、その辺に住んでる友達もいないしで、ほとんど行ったことがなかった。


「あっちに住んでるのか?」

「うん。あっちに行かなくちゃいけないの。ねえ、一緒に行きましょ」

「どうして。1人で帰りなよ」

「だって、暗いもの」


 くすくす。ヨルは笑う。

 笑って、僕の手を優しく引いた。


「ねえ、どうしたの!」


 その時だった。真昼が僕の反対の手を、力いっぱい引っ張っていた。


「もういいよ。もう帰ろうよ」

「真昼」

「お友達かしら。ねえ、みんな一緒に行きましょうよ」


 ヨルは目を三日月のように細めた。

 反対に、真昼の目がぐわっと見開くのが分かった。


「行かない」

「どうして」

「行かないったら行かない! 私たちは帰るから!」

「そう。2人は帰っちゃうのね」


 僕は見てしまった。ヨルが寂しそうな顔をしてしまうのを。

 まるで、こっちが悪いことをしてるみたいだった。

 いや、実際そうなのかも。このまま帰ったら、ヨルは1人でこの暗い道を歩かないといけないんだから。

 左の道を見た。僕たちの家まで、あと5分もかからないはずだ。


「真昼はこっから1人で帰れよ。僕はこの子を送ってく」

「えっ、なんで」

「もう暗いし。こっちは灯りなくて危ないだろ」

「一緒に来てくれるの」


 ヨルは笑っている。

 その割に、喜ぶとかホッとするとか、そんな感じは全然なくて。悪いけど不気味なやつだなって思う。

 それに比べて真昼は分かりやすい。しばらくぽかんと口を開けていたと思うと、眉を吊り上げ「ばかっ」と吐き捨てた。


「「夜」の子に連れてかれても、知らないから!」


 それだけ言って、真昼は走り去ってしまった。

 ヨルは、僕の横で小首をかしげて、真昼の言葉を繰り返した。


「「夜」の子」

「気にすんなよ。あいつの婆ちゃんがオカルト好きなんだ。

 逢魔時に「夜」の子に連れてかれるぞ、って」

「ふうん」


 ヨルは気のない返事をすると、また僕の手を優しく引いた。さっきは気づかなかったけど、ヨルの手は白く、とてもひんやりしている。

 こんな時間に右の道を歩くのは初めてだった。

 夕日は、もうほとんど見えなくなっていた。紫っぽいような、青っぽいような、黒っぽいような。不思議な色の空が、ブラックホールのようだ。


「いつも、こんな時間に帰ってるのか」

「ううん。この辺にいるのは、もっと別の時間」

「へえ」


 ヨルとは、なんか話が合わない気がする。でも、わざわざそれを突っ込む程仲が良いわけじゃないし。

 だから、なんとなく無言のまま、一本道を歩いていた。そのうち、古い建物がごみごみとし出してくる。

 窓ガラスの割れたパチンコ屋から、タバコが匂った。派手なピンクに光るお店が立ち並んだ隙間から、工場の煙が昇っている。


「この辺の大人、みんな夜のお仕事してるの」

「お前の親も?」

「お母さんは水商売してる人だったわ」

「そっか」


 ピンとこなくて、適当に相槌を打つ

 でもこんな街があるなんて、全然知らなかったな。

 点滅する店看板をぼうっと眺めていると、ヨルが囁いた。


「そういう人たちの子ども、何て呼ばれてるか知ってる?」

「知らないけど」

「「夜」の子」


 思わずヨルを見る。

 くすくす。ヨルはいたずらっぽく笑っていた。

 背中に鳥肌が立ったのが分かった。ヨルは「夜」の子なのか?

 だとしたら――それはつまり、どういうことなんだろう。


「こっちに行くの。一緒に行きましょう」


 ヨルは、変わらず笑って僕の手を引く。その先の空気があまりにも暗くて、吸い込まれそうな気がして、僕はとっさに足を止めた。


「どうしたの。一緒に来てくれるんでしょ」

「行くって、どこに」


 とても曖昧な疑問に、ヨルはくすくすと笑った。


「――こっち」


 指さしたのは、また十字路の右。

 その先に続く道には、今度はわずかの灯りもなかった。あるのは、暗くて暗くて、ただ呑み込まれそうに暗い真っ暗闇だけ。


「ねえ、行きましょ。先はとても暗いもの」

「いや、僕は」

「誰かと一緒に居たかったの。だって、こっちはとても暗ァいから」


 笑ったヨルの口から、真っ赤な舌がちろりとのぞいた。

 真っ黒な長い髪が流れて、白い首筋が暗闇に溶けかかっていて、僕の心臓がぞくりとする。


「ねえ、こっちに行きましょう――」


 くすくす。くすくす。

 くすくすくす。


「いや、いやだ……」


 優しく手を引かれて、声が震えてしまったその時だった。

 誰かの手が、思い切り反対の手を引っ張っていた。


「行かないっ!」

「……真昼?」


 はっとして振り返る。真昼がそこに居た。

 真昼は、目をぐわっと見開いていた。そこに溜まっていた涙が、ぼろぼろこぼれ落ちている。


「どうして」


 ヨルは、もう笑っていない。つまらなそうに、僕の手をそっと離した。

 ヨルに優しく繋がれていた手は、氷のように冷え切っていた。


「行かないったら行かない! 私たちは帰るんだから!」

「そう。2人は帰っちゃうのね」


 ヨルはやっぱり、寂しそうな顔をしていた。

 でも、僕にはもう親切を起こせるような気力は残っていない。何より、真昼が僕の手を掴んでいて、決して離さなかった。

 それが分かったんだろうか。ヨルは、くるりと背を向けた。


「さようなら」


 それだけ言って、さっと暗闇の中に消えていった。

 その途端、真昼は僕の肩にしがみついて、わんわん泣いた。

 ちょうど午後6時のチャイムが鳴っているのを、僕は呆然としながら聞いていた。


 帰りは真昼の母さんの車に乗せてもらった。話を聞くと、僕を心配した真昼が、家族に相談してくれたらしい。

 後ろの座席に真昼の婆ちゃんが座っていて、「こんな時間までふらふらしとるから「夜」の子に目ぇ付けられる」とか、くどくど言っていた。

 僕は思い切って聞いた。


「婆ちゃん。「夜」の子って何」


 けれど、婆ちゃんは何も話してくれなかった。

 ただ呪文を唱えるように、「逢魔時にふらふらするな。「夜」の子に連れてかれっちまうぞ」と繰り返しぼやくばかりだった。

 車の中で、婆ちゃんのぼやきと、泣き疲れた真昼の寝息だけが聞こえていた。


 あれから十字路の右には行ってない。だから、少し離れたあの夜の街がどうなっているか、僕には知る由もない。

 なのに僕は、未だに逢魔時の十字路が苦手でいる。

 そこを右に曲がってしまうと、「夜」の子の居る場所に連れていかれそうな気がして仕方ないから。


 ――あれから、ヨルは一度も姿を見せていない。

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逢魔時 暁野スミレ @sumi-re

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