第56話
『美佐は、弟にとって自分の命以上に大切な娘でした。しかし美佐は進路変更を余儀なくされ、外出もできないほど気が沈みました。弟はそんな娘を案じるだけでなく、社会的にも経済的にも不自由になりました。世間の冷酷さも非難するべきですが、そもそもあなたという亘理家が関わらなければ、弟が自らの命を捨てることはなかったでしょう。美佐は幸い社会復帰を果たしましたが。そう、将来への希望と引き換えに。彼女は今、自分の生き方に何の希望も持っていません。惰性で結婚し、惰性で子どもを産みました。夫が望むまま、惰性で専業主婦にもなりました。なるようにしかならない、それが今の彼女の口癖です』
『つまり、亘理の人間である自分が憎いというわけですか』
石嶋は静かに目を閉じた。
『否定はできません。しかし、私が今の仕事で手一杯なのも変えがたい事実です』
『総理を倒れさせておいて?』
『あの方は……美佐とは違います。決して妥協などなさらない。それにときおり、こちらの心を見透かしていらっしゃる気がします。だからこそ、立ち止まることができないのでしょう。何もかもが複雑に絡まった、一塊の問題であるこの国のために。ときどき、あの方の腹底が見えなくて恐怖を抱きます。そんなわけで、今は弟を懐古する暇がありません。美佐を憂いるばかりで本人に何もできていませんし』
尿意が限界を訴えたところで、私はナースコールを握ったまま寝返りを装った。その拍子にナースコールのボタンを押してしまったようだ。床をはたくような足音が近づいてきた。
「言っておきますが、私はあなたを許した覚えがありません。総理の前ではあくまで、他人を装います。二度も倒れられてはかないませんからね」
「石嶋さんだけでなく、彼女に許しを乞うつもりは毛頭ありません。自分は人の人生を狂わせたのです。だからこそ、同じ罪を誰もが背負わないような社会にするため、開総理には適度に働いていただく必要があります。自分も、あなたとは本来無縁の人間であるように装わせていただきます。ただし、仕事では一切手加減しませんよ」
亘理と石嶋はわざとらしく、声を揃えて私を呼んだ。私が聞いていたかもしれないことなど、疑っているくせに。
「トイレぇー……」
「その前に総理、おっしゃることがありますよね? なぜ毎日毎日、無茶ばかりなさるのですか。働き過ぎたところで状況は急激に変わらないでしょうに。そのために自分たちを手足になさってくださいと、何度申し上げればご理解なさるのです?」
「そうですよ、総理。数字は裏切らないのです。ここは私に任せて、お休みください。マスコミ対応もお母さまのご心配対策も、考える必要などございません」
私は布団で顎を包み、両脚を抱えるように背を曲げた。看護師が点滴の針を抜いてくれたおかげで、笑いを堪えるのを隠すことができた。二人とも険悪な雰囲気だったくせに、無理して協力しているのだ。政界の人間観察も悪くない。
「ごめん」
笑いそうになっていて。心配してくれていることではなく。首相が倒れてまで働いても日本が回復する保証などないのに、駆けつけてくれて。不道徳な私とほんの少し道徳的な私が混在していた。
「だが、可能であればこの入院を非公開にしてほしい。私は芸能人ではない。この国の経済状況、不況が招く治安悪化を憂いてほしいからな」
「あなたの持論がどのような状況でも変わらないというわけですね」
「ああ、だからとりあえずトイレに行きたい」
私の腹部は真剣に限界を訴えていた。ついでにサイドテーブルに置かれていたスマホを石嶋から受け取った。病院の自販機もアプリ対応機種、万歩計機能で貯めたポイントで水を購入できればよいが。
私は、自分自身の身体の政治ができていなかった。今月三回目の生理がきていた。
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