第55話
過去の記憶が、私を包み込んでいた。
かつての勤務先であるホテルの制服を着て、拳で左胸を押さえていた。私の就職先は人間関係が複雑だった。
『だいきらい』
これが夢だということを分かっていた。それでも私は、これが彼女の隠された本音だと思ってしまった。
琴美は、部署内での嫌がらせに悩む私の声を拾ってくれた。そのたびに、私を庇う琴美が可哀そうだと、男性社員が勝手に騒いでいたが。私は彼女の迷惑になりたくなくて、次第に彼女を避けるようになった。それでも私を案じてくれた。
私が精神崩壊し解雇になったあと、私からの連絡をひたすら待ってくれた。体調が比較的良い日と彼女の転職先の休日が合えば、車を出してくれた。そんな彼女が、嫌々ながら私につき合ってくれていたとは考えにくい。しかし錯覚だと思えるほど、現実世界での疲労が取れていなかった。
「ほよ? ここは」
白無地の天井と仕切りカーテンがあまりにも無機質だった。かつて何度も過労で倒れた後に見えた景色は久々だった。またしても気を失ったようだ。自分を取り巻く環境を変えるために、自分の言動を少しずつ変えてきた。自分の都合よく物事を進めるために暗愚を演じることさえ躊躇わなかった。それなのに、根本的な弱さは変わっていなかった。
「愚かにもほどがあるぞ、私」
嘲笑の吐息が漏れてしまった。自分を管理できなくて何が首相・アルソックだ。情けなくて涙が出てきた。
そんなとき、聴き慣れた声が二種類も聞こえた。亘理と石嶋だとすぐに分かった。
『あなたが側にいながら、総理を倒れさせるなんて信じられません』
『有給明けのあなたには言われたくありません』
『自分だって、有給に気が引けました。しかし自分たちが倒れたら、誰が総理をお支えするんです? 石嶋さんだって有給でしっかりリフレッシュなさったでしょう? 総理を定期的に休ませることだってできたはずです』
『私は、そういう他責が嫌いなんです。とくに、あなたにそんな愚行を許したくはありませんね。亘理静恵さん』
私はベッドから動けなかった。かといって、手元のナースコールを押すこともできなかった。単に、点滴が邪魔だったからではない。今、彼らの会話を絶てば、二人の理解とより強固な連携を取る機会が失われると思ったからだ。人は、本音を受け入れられて初めて、信頼することを試みる生き物だ。決して、盗み聞きしたいわけではない。
「なぜ、自分にいちいちつっかかるのです? 石嶋さん」
「私は、性的少数派の方々を非難しているのではありません。しかし、該当しなくてもまったく傷つかない保証があるわけでもないんですよ。例えば、高槻美佐」
亘理は石嶋の声を疑った。なぜ、彼が美佐を知っているのか。
「美佐は私の姪にあたります。彼女の父は、婿入りした実弟です」
アルソックには聞こえていなかった。
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