第47話
翌日の朝食は昨夜食べ損ねたスーパーカップ一つのみ。早朝五時のチェックアウトに間に合わせるためだ。
「総理、本当に戻られるのですか」
「当たり前だ、亘理。今ここを発たないと、今日チェックアウトするお客さんに迷惑がかかるだろう。それに、いつまでも石嶋に一人で頑張らせるわけにはいかん。扇にはメールで連絡してあるから、あとは連携を取ってくれ」
あまりにも短い睡眠時間のため支配人にも心配をかけた。この日の夜勤が支配人でよかった。他の従業員であればイレギュラーなことで余計な手間をかけさせるところだった。こういうイレギュラーに関しては、支配人に独断権がある。
「いいですか、周囲には気をつけてくださいよ。窓側の席に座らないこと、信号が青でも左右を確認しながら横断歩道を渡ることです」
「いやほんと、私いくつの子どもだよ」
「自転車に乗ったら、歩行者に気をつけることです。アタリ屋だっているんですからね」
「人の話聞いてないだろ」
「それくらい、今の総理は警戒すべき状況にいらっしゃるということです。どういうことかは言わなくてもお分かりですよね?」
昨晩の記者会見からオンライン国会に至るまでに、私は各企業主と富裕層の敵になったのだ。本当の意味で。
彼らには金で人を動かす武器があるということを、亘理は言いたいのだ。亘理は東京に戻るのに同行を申し出たが、私は拒んだ。亘理は私の政治的補佐であり、決して私用SPではない。本人の給料は純粋な政治的活動の報酬であるべきだ。
「あーあ、過去の政治がどれだけ汚染されていたのかがよぉく分かるわ。これじゃあ三十年以上も不景気が続くわな」
私が小指で耳をほじると、亘理が手首を掴んできた。耳くらいだれだって痒くなるだろうに。だから世の中に綿棒が流通しているのではないか。
「あなたはもう、一般国民の希望なんです。その希望を消す方法を何十通りも予想しなくてはなりません。あなたという希望がなくなれば、国民の方々はどうやって自立性を養えますか」
「そうだな。亘理が補佐の一人で助かったよ。だがな、私は希望ではない。国民の方々が国を立て直すための起爆剤ならば、私はきっかけをつくる小さな火に過ぎない。大きく祭り上げないでくれ」
「ならば言い方を変えます。その小さな火がなくなって悲しむ方が何人もいらっしゃることを忘れないでください。あなたが発熱されて心配してくださった方がいらっしゃるのと同じです」
私ではなく、亘理が総理になればよかったのでは、と思った。それほど、亘理の言葉は私のだらしない心に響いた。
私はもっと強くなりたいと願った。
そのころ、母・深雪は東京で一人留守番をしてくれていた。
「開さん、ちょっとお邪魔してもいいですか」
母の携帯電話に、大家からの着信があった。
「どうぞ、鍵を開けてください。マスターキーがあるでしょう?」
母は自分で車いすのペダルを外し、自身の両足で車いすを動かしていた。しかしわずかな段差と玄関の幅により、自力で鍵を解除することができなかった。
「娘さんがいらっしゃらないときにお邪魔して、申し訳ありません。実は驚くことがありましてね、ど偉い地主さんがこのアパートを買い取るとか言い出したんですよ。じゃあ入居されている方はどうなるとお尋ねしたところ、ここを改装するからどこかに転居させろと言うではありませんか。その責任は一切負わない、と。改装して今の入居されている方々が住みやすくなるならともかく、後は知らんということです。ですが、開さんご一家が退去されるなら買い取らない、このアパートに一切関わらないというんです。どうしましょう」
「そのど偉い地主さんって、どの政治家です?」
母は車いすに乗ったままふんぞり返っていた。あまりの冷静さに、大家が腰を抜かしてしまった。
「正直、このアパートは安いだけで何の魅力もありません。洗面所だって車いすの小回りが利くほどの幅ではないし、風呂に入りたくても浴室の段差がね。でも娘が懸命に働いているのにあーだこーだって文句なんて言えません。ただでさえ今までさんざん苦労をかけてきたんです。家が改善されたところで、車いすに乗っている私にできることなんて、転倒事故を起こさないよう静かにしていることだけですよ。もちろん、娘がより安くて夜に休めるようなところを見つけてくれれば、私は引っ越しに賛成します。で、ど偉い政治家って誰のことですか?」
「それは、その」
「どうせ花丘とかいう老害でしょ? 娘の敵なんて、国会中継を見ていれば分かりますよ。娘本人は絶対に公務内容を私に話してくれませんけどね。うちが引っ越しをするかどうかは娘が決めます。その上で断言しますよ。娘は間違ったことを一つもしていません。むしろ他の入居者を含めて、多くの経済的に厳しい国民を守ろうとしています。あなたも大家という、一つの主ならば、もっと入居者を守る態度を取ったらどうですか!」
母の唾と同時に、黄色がかった米粒が大家に向かった。この日の朝食兼昼食は卵かけごはんだった。これからパック総菜のきんぴらごぼうを食べようとしたところで、大家から着信があった。
「なんなら、花丘をここに招いてください。私を刺すなり撃つなり殺したいなら、亡霊になってでも地獄の果てまでまとわりついてあげます。今までさんざん贅沢をしてきたんだから、それくらい国民からの恩恵を受けてもいいでしょう?」
私が東北を巡っている間のことだった。
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