第41話

 筥松光世が営むスナック「とりで」は震災前後も常連客に支えられていた。カウンター席の隅にはB六ノート大の写真が置かれ、筥松の息子が学ラン姿で微笑んでいた。

「息子は高校卒業後、飲食店勤務のかたわら店を手伝ってくれてね。よく笑う子で、店の女の子たちより人気があったよ」

 その息子は自宅の瓦礫の下敷きになった。勤務先が休日だったため、体を休めていたのだ。筥松は当時飲み過ぎたため、閉店後、ホールのソファで休んでいた。

「迎えに来いだの何だのと言っていれば、あの子は今でもここでお客さんを和ませていただろうに」

 今では、ママである筥松を慰める者、遺影への献杯のために通う者がいるという。

「うちは酒を扱う娯楽性の業界だからね。焼酎割り用の水でよければ、いくらでもやるさ。でも、それをしたところで一人息子は帰って来ない」

 焼酎で焼かれた声がいっそう悲観的だった。私の身に何かあれば、母もこのように崩れてしまうのだろうか。兄弟のいない私も、筥松家は他人事で終わらせられるものではなかった。

「筥松さんのおっしゃるとおり、一度失った命は二度と帰ってきません」

 筥松の焼酎グラスに入った氷が鉄琴のような音を立てた。従業員である女の子が減った理由もなんとなく察した。酒浸りのオーナーが給料を計算してくれるという安心感が欠けている状況では、カネの顔をした客に愛想をふりまくことなどできない。

「だからこそ、あなたが息子さんの代行者になることは考えられませんか?」

「どういうことかい?」

 筥松が顔を上げた。目尻の皺がファンデーションで際立っていた。

「例えば、誰かが大切な人を失ったとき、息子さんならその人にどう接しますか? お店の女の子に悩みがあれば、息子さんならどう話を聞きますか? 手塩にかけて育ててきた母親あなたならわかるでしょう。その答えを、あなたが代行するのです。あなたの代行によって、息子さんの心を生かすのです」

「そんな簡単には」

「私には結婚も出産も経験がありません。ましてや人を育てるという偉大なことなど、まだ成したことがありません。だけど私も母の背中を見てきました。その背中を見て感じたことを誰かと共有することならできます。あなたは活きて、私はここが彼の生まれ育った国だと言い張れるように国の仕組みを変える。役割分担をしましょう。それでも納得されないのならお尋ねします。今のあなたを見て、空の上にいる息子さんは喜びますか? そんなわけないでしょう」

「……水商売で生きてきた私でも、何が何でも生きろと言うの?」

 内心、その言葉に立腹した。しかし箱宮に悟られてはいけない。

「だからこそです。人が好き好んで聞きたい話題ならともかく、なるべく耳を塞ぎたい話題に耳を傾け、ひとときでもお客さんの励ましになるお仕事をされているではありませんか。私の母もね、若いころは水商売で生きた時期もあったんです。色んな苦労のたびに立ち上がり、私を育て上げてくれた母を、どうして責められますか。それと同じです。誰だって懸命に生きているんです。それが人の道に外れない限り、誰かが避難する筋合いなんてありませんよ」

 そこで突然、筥松が泣き崩れた。昼間から焼酎なんて飲むからだ。これだから酔っぱらいは苦手だ。私も酒はたしなむ方ではあるが。

「総理、あなたは会ったこともない息子と同じことを言うんですね。あの子が中学生のころ、母親の私が水商売の人間だからってバカにされた時期があったんです。そういうのって大抵、苦労も知らない富裕層の子どもなんですけどね。あの子はその子たちと大喧嘩をして学校に呼び出されたんです。それで、私とその子たちの母親の前で叫んだんです。『母さんは人の道を外していない。苦労も何も知らないやつにとやかく言われる理由なんてない』って。私なんて息子のことがなければ、母親連中に下ネタ連発で口撃してやりたかったというのに。まぁ、彼女たちなりの苦労もあるんでしょうけどね」

「人なんて、相容れられない相手がいて当然です。だからといって人を取り巻く環境までまき込んでよい理由にはなりませんよ。そんなもんだ、じゃあどうするって考えればいいんです。勇敢な息子さんがあなたを思って同級生に喝を入れたのも、その一つでしょう」

 筥松が顔を上げた。アイライナーが涙で溶けて、パンダ目になっていた。メイクはシンプルにするべきだという教訓だ。とくに感情が豊かな人は。

「私なんて政界では異質すぎて嫌われていますよ。社会人になってから大学に入ったし、そもそも長年、経済的に弱者でしたし。口も悪く、ゴテゴテした品格なんてありゃしない。未婚で出産経験もない。そんな私を嫌うのがどのような人物像なのか、分かるでしょう?」

「確かに、華やかな経歴や血筋の方々には煙たがれるでしょうね」

「酒や水割り用の水にこだわる面倒くさい客にもね。口に入って酔えたら何でも一緒だろうに」

 筥松の唇の形が変わった。口元をおさえた左手の人差し指に口紅がほんのり移った。

「いえ、昔を思い出しましてね。私、若いころに上京してクラブで働いていたんですよ。そのときあなたのような女性が同僚にいたんです。男性客を敬う気なんてまったくなくて、むしろプライドを崩すようなことばかり言ってママたちをハラハラさせていたんです。それなのに彼女は指名客が絶えなくて……本当に、顔立ちこそ総理と系統が違うのに、眼差しや瞳の奥の根っこがそっくりなんです。彼女はたしか、あなたと同じ九州出身だと言っていましたね。今ごろどうしているんでしょうか」

「そうでしたか。母も、同僚に東北出身の女性がいたと言っていましたね。これは何かの縁でしょう。どうです、東北ではあなたを私の母のように思っても?」

「そこまで言われては、仕方がありませんね」

 筥松は呆れつつも笑顔を取り戻していた。


 その日の晩、筥松は店を閉めてまでオンライン国会に参加した。

 議題は、水商売を経験した男女を昼職に就かせるための支援案。具体的な案は一日でまとまらなかったものの、国会中継用YouTubeアカウントには過去最多のコメントが押し寄せられた。


 筥松光世は、愛息子を失った陰を抱えたまま光の中を進むことを選んだ。

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