第25話
「総理、体が資本ですからね。あなたは特に体力を要することばかりなさるので」
「だから、ちゃんと宿を取っているだろうが。亘理、石嶋の代わりに小言を言うよう指示でもされているのか?」
私は宿泊代の領収書を使い古しのクリアファイルに入れていた。亘理は私に続いて階段を登っていた。
「ではなぜゲストハウスですか。しかも私は個室なのにあなたは女性用ドミトリー。どう考えてもおかしいでしょう」
「何が? アンタへの配慮が足りないことか。ちゃんと言ってくれないと分からないぞ。私はいわゆるマジョリティだからな。それ以前に個の人間が他の個を完全に理解するのはIQ百八十でも厳しいはずだぞ」
「冗談も休み休みなさってください。なぜあなたがその他大勢と同じ部屋なのですか。ご自分の立場をご理解なさっていますか?」
亘理は三階への階段に登ろうとしなかった。ニ階にドミトリー部屋があるので、今階段を登れば私に小言を言えなくなるからだ。
私が小指で耳をかきながらドアを開くと、中からプラスチック容器の落花音が聞こえた。鈍い音からして、液体のスキンケアを入れているのだろう。
「え、マジ?」
「そっくりさんじゃなくて?」
亘理が自分の額を手で覆った。私は即座に耳をかくのを止めた。
「支配人に無理を通して、私もこちらで休ませてもらうことになりました。ご覧のとおり、私はもてはやされるような格好をしていません。あなた方もお疲れのはずですから、私には何の気兼ねなさらないでくださいね」
ジーンズとパーカー姿は説得力があったようだ。女性二人は興奮の声を上げなかった。
「総理、私たち応援しています」
「私たちにできることなんて選挙の投票に行くことしかありませんが」
「そんなことはありません。あなた方にぜひ手伝ってほしいことがあるんです。滞在中、他にご予定がなければですが。まずは滞在先についてSNSにあげないこと。もう一つは」
私の背後で、亘理がスマホを耳に当てていた。まもなく私のスマホが着信音で騒ぐ予兆だ。石嶋とは初対面でよい印象がなかったはずなのに、いつの間に仕事の呼吸が合うようになったのやら。さっさと三階の部屋にリュックサックを置いておけばよかったのに。効率の悪いやつだ。
滞在初日の午後六時、パソコンの画面に映る石嶋は小言を言いたくても言えないストレスで眼鏡がずれていた。
「彼女たちには参加と顔の公開を了承してもらっている。というか、ぜひとも参加したいとのことだった」
「だからって、これは国税でまかなっているんですよ」
石嶋の代わりに、自民党代表の花丘が声を荒げた。心なしか玉園の毛量が寂しくなっている気がした。
「だからこそだ。温室育ちの政治家連中だけで色々決めたところで、国民の皆さんが不満を抱くだけだ。そりゃそうだろ? 投票権だけ持ったところで、他の重要項目はぜんぶお偉いさんの都合のいいように勝手に決められるんだから」
いあいぎり隊代表の犬走が大きく頷いていた。虹の党代表二名と無所属二十名は興味深そうに画面を凝視していた。国民民主党代表の扇は背筋を伸ばして、玉園の進行を待っていた。その他党の代表は欠席。せっかくオンラインで遠隔参加したというのに、私も早々に見限られたものだ。
「というわけで、今回の国会前半ではお二人のご意見について。後半は我々が昨日まで残していた議題について進めてもらおう。玉園議長、よろしく」
玉園は秒読みで承知を告げた。私の古いノートパソコンでは画質に自信がないが、玉園の毛髪が現実世界から逃げたいと揺れていることだろう。
「それでは、まず
玉園にはあらかじめメールにて、ゲストハウスでのルームメイト二人のフルネームを伝えていた。ふりがなもメールに添えておいてよかった。今の時代、私が高校生の頃以上に、ふりがな無しで読みにくい名前が多いからだ。赤尾と
「私たちは、いくつか自由の実現を開総理に託したいです」
赤尾は声が震えていたが、長浜に手を握られて声を張ることができた。それで私の察しは当たっていたことが判明した。
「まずは結婚の自由です。私と羽衣はいわゆる同性カップルです。将来は異性カップルのように結婚して、将来の資産を共有して築きたいです。ですがこの国では同性婚が地域によっては認められていませんし、なにより制度の有無関係なく差別が今でも残っています。就職にも制限があるし、お互い独身扱いだと税金とか負担が大きいです。だから大学生のうちに、共通の趣味である旅行はホテルじゃなくてゲストハウスのドミトリー利用に慣れておく必要があります。女性が性愛の対象である私たちにとって、パートナー以外の同性の方と同室なんて緊張の原因でしかありません。私たちが求める経済的自由においても、やはり結婚の自由が必要です。差別とかは地域の文化が変わるしかありませんが、せめて土台である制度だけでも変えてほしいです」
二人の両手までも震えていた。私がドミトリールームを選んだことは正解だが、過ちでもあった。
私一人の一泊料金を二千円におさえることに成功した。しかしルームメイトが必ずしも異性愛者とは限らない。たとえ異性愛者だとしても、私に性的興味を抱くかもしれない。また立場だけ立派な私を利用して、世間にどうでもよい情報を晒すかもしれない。その私のどうでもよい情報に、投稿者やルームメイトのプライバシーまで危ぶまれてしまえば、首相としての盾もクソもない。
「ですが、開総理にはなぜか緊張しませんでした。私たちが今この場で自分たちがマイノリティであることを明かさなくても、察してくれていたと思います。総理は私たちのアイデンティティについて何も触れず、ただ一国民としての声を政治家に直接伝えてほしい、私たちが持つ言葉でないと意味がないとおっしゃいました。世間ではアルソックなんて騒がれていますが、亘理さんにしたように、細かい気遣いができる方です。だから、私たちは顔を公開されることを承知で、総理の力になることを承諾しました。このゲストハウスの支配人さんだって総理の力になりたいから宿泊を受け入れられたし、この共有スペースでのオンライン国会を許可されたと思いますよ」
長浜は両目に細長い滝を流していた。今の表情のように、彼女は長年微笑で悔しさをひた隠しにしていたのかもしれない。私の背後から、フロントに座っている支配人が鼻を啜っていた。
「しかし、他の宿泊者はどうです。共有スペースが使えなくて立腹しているんじゃないですか」
花丘には彼女たちの涙が響かなかった。むしろ顎の傾度が上がっていた。
「そう言うと思ってね。他の方は顔公開を辞した代わりに、意見を集めた書類を私が預かっている。代表で私が読み上げる。玉園議長、続けてもいいか」
彼の進行に従っている私が、彼の毛量が減少した原因であるはずがない。花丘の画面に唾らしき雫が付着しているようだが、私は見ないふりをした。
「なになに? 『開総理には、前総理時代までの横暴な政治を一掃していただくことを強く望みます。まず何ですか、苦しんでいる国民から増税で巻き上げて、自分たちは『率先して』年収アップ? 率先の意味わかってないでしょ。小学校の義務教育からやり直したほうがいいですよ。もちろん公立学校で。それでもって、学費は自分で払ってくださいね』だとさ。ま、もっともな意見だな。給料に見合った仕事をまったくしていないからな。むしろ毎日頑張っている国民の皆さんが年収三千万円以上であるべきだ。経営者でもない私には企業に一人当たりン千万円払え、なんて言う権限はないが、企業からの給料と併せてでもそれくらい得られるよう土台作りに励む。この国会が終わった後でもいいから、何かしらコメントしてほしい。絵文字や顔文字だけでは分からないからな」
私の隣で、亘理が赤尾と長浜に自前のペーパーハンカチを一枚ずつ渡していた。二人はそのハンカチで鼻をかむために、画面に背中を向けていた。
「その土台についても今日話し合うが、まずは先鋒の二人のご意見について議題を完結させたい。玉園議長、進行を続けてくれ」
彼はきちんと育毛に励んでいるのだろうか。どこか安価で良質なサロンを紹介できれば良いのだが、私は女性であり、毛量を気にする年代でもない。彼の力になれないのが惜しかった。
「これより、私は日本全国における同性婚を異性婚と同じ扱いにする。各市町役所の手続き窓口の準備に一週間設ける。財産や遺産の共有、制度の活用権限も異性婚と同等にする。私と亘理が今東京にいないので、石嶋を主軸とし、虹の党に協力を願う。異論はないか」
そこで、男性議員が挙手した。扇(哲也)、二十五歳。国民民主党代表・扇道子の長男だが、自民党に移ったばかりだ。
「同性婚を一般の結婚と同等と認められて、子育てに励む一般家庭はどうなりますか。仕事や家事をしながら苦労をしている人たちが納得するとでもお思いですか。彼らは実に生産性のある働きをしています。そんな彼らを無視するのですか」
花丘の目が細くなり、両口角が上がっていた。扇子息が花丘のお気に入りであることは政界で有名だった。
「その言い方、私には納得できないね。異性婚の方が政治家のために機能しているような言い方じゃないか。彼らは彼ら自身のために生きている。どんな経緯で結婚したとしても、な。それに多様性を認める方が、将来子どもの広い視野に繋がると思わないか? 実際、広い視野を得るチャンスを捨て続けてきた結果が自分に宿っているんだ。そんなのが政界にいたらどうなるか、自分自身が一番よく分かっているだろう」
私より若いご子息サマは感情のコントロールが苦手なようだ。拳を握り、画面越しに私を睨んでいた。私にもそういう時期があったので、一個人としては挑発されて反応するなとは言いにくい。
「私にも理解しにくいです。それは、子どもを産むことのできる女性への軽視とも受け止められかねませんよ」
扇母が挙手した。玉園の進行を待たなかったので、またしても彼の毛髪が一本旅立った気がした。画質のせいで確認できないのが実に惜しい。
「女性には自らの身体で子どもを産み、慈しむ能力があり、それが喜びの一つでもあります。決して、男性の都合や国の人口増加のために命を懸けて出産するのではありません」
彼女は女性の社会的自由を政策に掲げていた。彼女が痛みに耐えた結果の命・哲也子息と対面する気持ちは複雑に違いなかった。私には男性経験も出産経験もなく、それがどれほど耐えがたいのかを想像することすら完璧にはできない。
政界も、一般企業並みに人間関係が複雑だ。
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