第23話

「皆さん、お出迎えありがとうございます。準備やら出勤調整やら大変だったでしょう。私は観光に来たわけではありませんので、どうか普段通り仕事をしてください」

 笑顔で何か言われたが、方言がいまいち聞き取れなかった。それだけでなく、人は笑顔の仮面の下に複雑な感情を隠している。それでも首相としての私にとって、彼らは宝だ。機会を与えることを放棄してはならない。

「支払いはしています。ところで経営者の方々に誓約書をお預けしていたのですが?」

 そこで、各店の経営者の態度が二極化した。一方は思い出したように慌てて書類を差し出したが、もう一方は書類の存在すら否定した。

「私らはそのお約束として、出発前に支払いをしました。その方が仕入れもしやすいと思ったからです。これは被災地の方々の支援だけでなく、地域の活性化、ひいては従業員の方々の利益還元を図ったものです。あなた方にとって、従業員の方々は経営の宝でしょう?」

 従業員の多くが、左手で右手首を抑えていた。拍手したいならすればいいのに。誰だって生活のために、金のために働いているのだから。そのついでに社会が成り立っているなど、きれいごとが嫌いな人間でなければ思わないことなのだろうか。

「まぁ、いいです。こちらが先に支払いをしたのですから。その代わり、私と補佐の亘理、どちらかがこちらに滞在している間に、従業員の方々への利益還元をしっかり見届けさせていただきますからね。それでいいでしょうか、手熊てぐま店主ご夫妻?」

「分かりました」

「ただ、うちの従業員にはあまりお金を出さなくてもねぇ。すぅぐパチンコに使っちまうから、本人のためにならないんですよ」

 住夫すみおの次に千里ちさとが言った。これが本当に女性従業員の賃金の一部を管理してくれていたらよいが。そのエネルギーを、ムリして標準語に合わせようとすることに消耗しなくていいのに。

「心配しなくていいですよ。その対策もしっかりありますから」

 パチンコ依存症の当人・浅川あさかわ吉絵よしえは小首をかしげた。依存症を自覚していればよいが。

「実は心療内科医を複数名派遣していましてね。健全な消費に戻れるよう、しっかりフォローさせていただきます。他にも対策はありますが、それは物資を配った後にお知らせします」

 夫妻は腑に落ちない相槌をした。それよりも生業である布団と衣料品の卸売業の現場に戻ればいいのに。浅川の制服であるエプロンに衣料埃が付着しているのも気にしていない様子だった。

つよしくん、今のうちに配達しておいで。今日はそのまま退勤して、ゆっくり家で休みなさい。明日また忙しくなるから」

 食料品店を営む岸川きしかわ宮子みやこが柔らかい声で言い、谷内たにうち幹の背中を軽く押した。

「店番はわしがしとくし、母さんがボーナスの明細書を作っとくから。明日はいつも通りの時間で出勤、よろしくな」

 宮子の夫・和政が自分の顎を撫でていた。経理も事務係も雇っていないため、運営は夫婦のみ。谷内が店番と配達を担当している。

「うちは若い男手が一人いるだけでも大助かりなんですよ。ほら、食料品って水分を含んだものが多いでしょう? 古希を過ぎたワシらにはそれが重荷なんです」

「総理はご存じだと思いますが、被災地全体が完全に復興前に回復しているわけではありません。あくまで現状維持です。そんな地域はおろか、首都圏でさえ不景気なんて言われているでしょう? 首都圏から離れたこの地で私たちにできることなんてなおさら限られてますよ。あの子、幹くんは高校を辞めてからずっとうちで働いてくれているんで、報いるようにしたいんですが。子どものいない私たちにとって、彼は息子同然ですもの」

 岸川夫妻はため息をついた。食料品という生活に不可欠なものを扱っているだけあり、人情に富んでいるようだ。自分が損してでも他人に尽くしかねないタイプだ。しかし夫妻は経営者らしく理性を保ち、経営が破綻しない程度に尽力を留めている。

「正直、私にもできることなんて限られています。首相ったって、国会であぐらをかいている政治家連中に豪快なことを言っているだけですからね。それに比べて、皆さんは地域の経済を回そうと日々懸命に働いていらっしゃる。なまくらの私とは大違いです。そんな私にできる数少ないことと、あなた方の経験と視点をかけ合わせませんか? これはあくまで私の意見ですが、補佐の亘理たちの助けでは到底足りません。復興以上の回復のために、皆さんのが必要です。どうか私たちに力添えを」

「そんなご自分を卑下しないでくださいよ。こちらとしてはどう反応したらいいか困りますから」

 私が首を垂れると、宮子夫人も千里夫人も慌てて私の肩に両手を伸ばしてきた。選挙期間でもない政治家もどきの対応に困惑するのは無理もないか。

「では、早々と書類確認を済ませてくれますかね? その分、早く仮住宅者のもとに必要な物資を届けに行けますから。配達を従業員の方々に任せるのは心もとなくて、こうしてマイ自転車まで持ってきちゃったんですよ」

 これで、手熊夫妻も浅川への待遇を改善するしかないだろう。こちらは地方住民の思考も読み取って生きてきたのだ。過去の経験を私の類無き武器にしなくてどうする。給料をもらうだけが社会人としての経験ではないのだ。


 この地方での経験は、亘理にとってもよい経験になるはずだ。男女間の夫婦ばかりに囲まれて、彼女は立っていられるだろうか。

 私は、彼女にもこの地域での舞台を用意している。

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