第12話

 翌朝、私は残り一千件の書類を施錠式ロッカーにしまい込んだまま永田町を歩き回っていた。出勤時も母からジーンズとパーカー姿で咎められたが、小言を聞き流しながらスーツをハンガーから外して折り畳んだ。執務室に着いてからリュックから取り出し、スーツに着替えた。無論、更衣室なんていう別室は不要。執務室に施錠すれば、下着姿を晒すこともない。

 そんな私は、理由があってわざわざ執務室の外でもスーツを着ていた。

「失礼、石嶋いしじま拓未たくみさんいますか」

 ビル内の事務所に入るなり、受付の女性が着用していた不織布のマスクがズレた。礼儀正しく自己紹介までしたというのに、失礼な態度だった。

「ちなみにアポは取っていません。咄嗟の対応を見たかったので。私のなので、先約があれば待ちます」

「お待たせするなんてとんでもございません。直ちに石嶋をお呼びします」

「本当に? 先約がないなんてこと、ありませんよね? ずいぶんとお忙しい方ではないですか」

 女性が両手を振った。彼女にとって数多くの支援者や同等の政治家の訪問が日常的であっても、仮にも首相が直々に訪ねることは未曾有のことだった。しかも秘書やSPを連れずに。

「騒がしいですね、どうしました」

 女性が呼ばずとも、肩幅が広く上腕筋に恵まれた男性が奥から現れた。彼こそ石嶋拓未議員だ。

「総理、わざわざこんなところまでどうされたのですか。世間を騒がせたお方が、まさか単身で行動されているなんて」

「幸い、永田町は貴族の町と呼ばれているようなので。徒歩で移動する政治家やスマホを抱えた国民が見当たらなくてね、電車も乗らずに移動できましたよ」

「いや、そうではなくてですね。あれだけ宣戦布告されたのですから、今頃お一人で執務に追われているのではないですか」

 私はおかしくなって笑い出してしまった。この男性にはなぜか嫌味が感じられなかったのだ。

「そうです。私は昨日、無駄な書類を二千件も整理するのに夕方までかかりましたよ。あと一千件も書類が残っていますが、そんなものに一切手をつけず、朝一番にここに来たわけです」

「無駄だなんて」

「そう! 本来無駄どころか、必要な書類だって紛れ込んでいるんです。それを分別できないほど、どうしようもない法案で隠れている。だから、昨日夕方から調査したんです。あなた方政治家がプライベートではどのように生活しているのか、をね。そしたらあなた、ずいぶんと質素な生活をされているではありませんか。寄り道もせず、自宅に籠って。その自宅も高級住宅地ですが、外観はまるで国民が頑張って予算を上げた感じで、華美でもない。過去に所属していた政党の先輩との交流は続いているものの、あなたも無所属の身。誰にも媚びず仰がず、自分の意思を貫いている。こうして事務所も構えているではありませんか。そのあなたをスカウトしに来たんです。どうです、私の補佐になって、不要な書類を省きませんか」

 彼の秘書が奥から出てきて、緑茶の入った湯呑を持ってきた。しかし石嶋は彼女にその茶を出させなかった。私も辞意を声に出していた。

「私は国民の生活を向上させるために政治家をしています。国会でも戦っています。その私が、あなたの茶番に付き合うほどの時間まであるとでもお思いですか? 心外です。確かにあなたの掲げた政策は理想的ですが、政治の世界に踏み入れたばかりのあなたが首相になったところで、支持率が下がり政策どころではないのが私の予想です。今こうしているだけでも十分、つまり六百秒も無駄にしています。この間に、私に何ができたとお思いですか」

「石嶋さん、あなたが言いたいのは、あなた自身には私の支持率を上げることができないということでしょうか。それだけの手腕がないと理解してもいいのでしょうか」

「できないとは言っていません。それだけの時間がないだけです。その間にできることはたくさんあります」

「じゃあ、その結果国会はどうなっている。インスタグラムやテレビ中継で晒されて、特定の政治家が嘲笑されているだけじゃないか。国民が政治家への信頼を失っているだけじゃないか。私も最近までその一人だった。だから私が首相になり、就任式の面倒くさいプログラムを省いたじゃないか。私は、私にできることをやった。その結果が、あの記者会見じゃないか。だがアンタはどうだ。国会で戦っていると言ったが、その意見は実現できているか。いまだに自民党の壁を壊せていないじゃないか。支持率を大切にしているなら、それだけの期待に応えるような仕事をしろ」

「あなたのように理論に沿わず感情的な方に誰がついていきますか。前首相の秘書が一日で辞したのはもう、永田町のホットトピックですよ」

「だったら、アンタが上げてみろ、まさにホットトピックである私の支持率を」

 石嶋は数字に敏感な男性だった。眉尻が痙攣し、のろのろとソファーから立ち上がった。

「いいでしょう。ただし、私が導くにはそれ相応の覚悟が必要ですよ。いいですね」

「もちろん! ただし、収入アップもボーナスも期待するな。自分の部下の生活は別の収入源でまかなえ」

 私は石嶋を見上げた。彼は彼のプライドで政治家としての意地を保っていた。

 彼の秘書は小さめのトレーを両手で抱えながら気を失い倒れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る