第11話
「げ、各省の書類、あと一千件はあるぞ。二千件の不要な案件を弾いたってのに、今日は補佐探しどころじゃなかかも」
午前九時十分に書類選別を開始して、現在午後十七時三十分。そもそも書類選別から取りかかったのが間違いだった。
「こうしている間に、経済的にも精神的にも苦しんでいる国民が嘆いているのに、何ばしとっとか、私。政治家が生み出したこがん無駄ば省くなんて、バカばい」
何がアルソックだ、と執務室で叫びたくなった。
「待てよ、無駄といえば」
この日、国会を中止してよかった。私は残り一千件の書類をカードキー付きのロッカーにしまい込み、二千件の書類を後日不認可処分するための収納コーナーに移した。もちろん、両方のスペースにロックをかける。
(時間)に間に合うかは分からない。それでも私は普段から愛用している黒のリュックを開けずにはいられなかった。
ハンチング帽子と黒縁ダテ眼鏡と、芸能人でもないくせに素性を隠して永田町から離れた。徒歩なので、すべてを追うことはできなかった。それでも判明したことが複数あった。
東京では、地元長崎よりも、道行く人たちが仕事で時間と数字に追われてもいるが、同時に全力でプライベートの充実を図っている。私が在籍していた大学の卒業生があげているインスタグラム・ストーリーはあながち人造的な雰囲気ではないようだ。誰もがすべてにおいて、田舎にあるような「なぁなぁ感」を出していない。そんな曖昧感を出しているのは、この三カ月弱の間で多数の政治家ぐらいだった。ちなみに私は二月の学期末テストを終えた直後に引っ越しにとりかかった。車いすの母は一週間東京のデイサービスに世話になり、転居後の荷物解体が終わってから私が迎えに行った。すべての費用は犬走のポケットマネーから賄った。私は給与から少額ずつ返済すると譲らなかったので、彼はしぶしぶ承諾した。彼の自腹とはいえ、その収入源は血税だ。一家の私用に使ってよいわけがない。また、私はこれ以上犬走に借りを作りたくなかった。私はどの政党にも属しないと啖呵を切ったのだ。これくらい厳守しないと、私が掲げた政策を一つも達成できるわけがない。
午後九時、玄関に入ると同時に、母・深雪の怒号が築三十年のアパート一室に響いた。
「この……バカ娘が!」
「ちゃんと電話したし、帰宅時間もちゃんと守ったじゃん。そんなに怒らんでよ」
私は早々に洗濯機に向かい、着ていた衣服を脱いだ。それから洗面所兼台所のシンクにて手を洗うところだった。
「それもあるけど、あんたまさか、
「うん? なんで?」
「あんたの掲げた政策はぜひとも実現してほしいけど、だからってその……デニムとパーカーはないでしょ。どうせ靴もスニーカーでしょ」
私はリュックの中身を見せた。業務用ノートパソコンとACアダプター、空の水筒と弁当箱、さらに記者会見でも着用していたスーツ上下と汗臭いノーカラーシャツ。プチプラショップの無漂白紙袋には、仕事で履いていたローヒールパンプスが入っていた。このパンプスは長崎にいたころより、単発アルバイトで愛用していた黒のビジネス用だ。ところどころ、摩擦による擦り傷線が入っている。
「仕事ではちゃんとした恰好しているって」
「これからは税金が収入になるから、贅沢しろとは言わないけど。にしても、古着屋のスーツはないでしょ」
母は東京に越して以来、長崎弁を使わないよう心掛けていた。中学を卒業後長年関東地方に住んでいたことで、第二の故郷に戻ってきたと思っていた。比較的静かな住宅街ということもあり、長崎に骨を埋めるなとまで私に繰り返し言い聞かせている。
「そんなことを言わないでよ。今日は大きな成果が立て続けにあったんだから」
「どんな?」
「それは言えないよ。あとでテレビで驚かせたいからね。私からのサプライズだもん」
嘘ではないが、家族にさえ機密情報を漏らさないためには少々話を盛る必要がある。それにこの古いアパートの壁を介して、どのような住民に聞かれているか分からない。
「ま、いいけど。でもあんたの身体はたった一つ。車いすに乗っているオリが頼れるのもあんただけだからね。ムリだけはしないように」
私は頷き、水筒と弁当箱を洗った。それにしても首相専属SPの配属を辞して心からよかったと思っている。アパートの敷地内にSPが待機していたら他の住民が落ち着かない。とはいえ、母は我が家の中に他人が入ることを嫌う。それに私もこのような下着一枚で家の中を歩くこともできなければ、風呂上がりに下着も身に着けず麦茶を飲むこともできない。
ハンガーはどこだ、なんて母が言いながら私のリュックからスーツを取り出しているが、気にしている場合ではない。
明日に備えて、しっかり寝なくては。電気代ももったいない。
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