第5話

 私たちは犬走にちゃんぽんと刺身を勧めた。長崎県はあじさばなど蒼魚の水揚げ量で日本一を誇っている。ぶり河豚ふぐの養殖も盛んで、魚を扱わない飲食店が少数派である。

「ちゃんぽんの麺にコシがあり、スープも濃厚ですね。豚肉と魚介類がいっしょになっている、まさに『ちゃんぽん』だ! 刺身も弾力があって甘みもある。特に鰤がいいですね。それにしても開さんは長崎を深くご存じだ。さすがホテルで働かれていただけある」

 私の隣で、犬走は箸を進めていた。彼の向かいに座る伊吹が長崎県産酒を勧めたが、犬走は丁重に断った。伊吹の隣、私の向かいに座る弥生は緊張のあまり刺身を一切れしか食していない。それも、比較的肉が薄い鯵。

「私は、お客様が長崎を楽しまれるための情報提供をしたまでです。お客様にとって、私たち地元の情報の方がガイドブックよりも信頼感があり、よりリアルですから。それよりも犬走さんの方がお仕事に真摯でいらっしゃるようですね。お酒を召し上がらないのは、やはり私たちに真剣なお話をされたいからでしょう?」

 私は刺身を半分、定食のご飯と味噌汁を半分残していた。用件が済んでからの食事の方が、お腹を満たしやすいからだ。

 そこで、犬走が箸を置いた。

「あなたは率直な性格のようですから、今お話ししましょう。まず、私は若いあなた方に呆れと敬意の両方を抱いています」

「では、まずは呆れから。大体察していますが」

 私は犬走よりも先に箸を置いていた。さすがに伊吹も箸が止まり、掴んでいたグラスに入っていたウーロン茶を飲むか否かで迷っていた。

「不特定多数のユーザーが見ることのできるSNSで、あのような軽率な一言を添えた投稿をするのはいかがなものかと。しかも自分じゃなくて、年長者である開さんを被写体にして。監督できなかった開さんにも非がありますが、友人を売るような言動と捉えかねない事態を招いた松永さんと早坂さんにも非があります」

 伊吹と弥生は残っている刺身に目を移した。肩がすっかり縮こまっていた。

「ですが前触れどおり、あなた方への敬意も抱いています。若い方々が政治に関心を持つきっかけを作ってくださった。しかもどのコメントも、開さんを称賛している。あなたが人格者である証です。また、年長者であるあなたがこれほどまでに比較的若い方々に慕われていることも表しています。他の年長者であれば、冗談でも面と向かって『アルソック』なんて呼ばれませんよ」

 この場で誰もが酒を一滴も呑んでいない。それでも犬走が私を見る目には情熱が籠っていた。ただし、プライベートを求めるものではない。彼は未だに、政治家としての顔をしていた。

「アルソック……真波ちゃんって、なぜか壁を感じないんです。勉強も遊びも率先して一生懸命で、真面目なのに、楽しいことが大好きなんです。すごく自由だから、私たちもこうなりたいって思わせてくれるんです」

「確かに年長者として真波さんから学ぶ点はたくさんあるとですが、なぜか放っておけない無邪気さもあるとですよね」

 今度は私が刺身に目を落とす番だった。目の前で称賛されて嬉しい反面、気恥ずかしくなった。二人がそんな印象を私に抱いていたなんて、想像もしていなかった。

「素晴らしいことじゃないですか、開さん。日ごろの行いが良いのでしょう。それに賢くもあるようです。そのカジュアルな服装も、今回選ばれたお店の趣旨も意味があるのでしょう?」

「気づかれていましたか。さすが、国会で数多くの政治家を見ていらっしゃるだけありますね」

 私が温めていた意見を開放する機会だった。

「私たちは税金を払うことによって、自分の人生を歩む当然の権利を買っています。その権利の提供元である政治家に、なぜ私たちが着飾り、膳を据える必要があるのですか? あなたのように国会で戦っている方もいらっしゃるし、政治が楽な仕事ではないことも認知していますが、実際私たちの暮らしは楽になっていますか? バイトもせずに学業に専念できる学生はどれくらいいますか? それで日本に優秀な人材が生まれるとでも?」

 犬走は静かに耳を傾けていた。ときおり目尻が痙攣していて、耳が痛いと静かに訴えているようだった。

「私たちには職業を選ぶ自由の権利があるので、完全にあなたたちを責める気はありません。しかし、ここのように観光中心地から離れた地域で地元民の食と文化を支えている働き手が、職人が、生産者が、経営者が、どれほど苦労しているかご存じですか? チェーン店とは異なるおもむきを維持するのに何を犠牲にしているのか、考えたことがありますか? また、今回は話題が話題なので個室希望に応じましたが、本心では、居酒屋に来る社会人の話題を直接聞いていただきたかったです。スーツではなく、あなたもジーンズとトレーナーを着て、ね。ですが、立場上それが難しいことも理解しています。それでもご多忙な中お時間を作ってくださったんです。しかも政治の中心地から離れた長崎に来られるのに。だから感謝の意を込めて、この課題を考えるきっかけを私からのお土産にしたかったんです。というわけで、あえてこの服装とこの居酒屋にしました。ついでに、私の食事代は自分で出しますよ。ですが、友人たちの分はどうするか、彼らに決めさせてください」

 伊吹と弥生が目を見開いた。ポイ活に勤しむ私が自腹なしで予約サイトのポイントを獲得するチャンスを自ら放棄するとは思っていなかったようだ。私は自分が倹約好きだと自負していたが、彼らにそこまで思われていたのも予想外だった。

「やはり、長崎に来てよかった。SNSだけでは確信するのに不十分ですからね」

 犬走は、右手を差し出してきた。

「開真波さん、私に、あなたが首相になる手助けをさせてください」

「……は?」


 私は自分の日本語力への自信を失った。

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