まだ顔も見たことのない隣人

かんざし

未だに見たことがない

  いつも通りの駅でいつも通りの時間、午後十時くらいで十分陽が沈んだ頃合いに電車を降りた私はホームの端。殆どの人間が改札へ向かうのを見届け、その列の最後尾を少し遅れて追う。


 


 階段を降りている私は踊り場に到達し、そしてゆっくりと向きを変えてさらに下ろうとした。その時、私の左隣に何故か人の気配がある。そちらに目をやる訳でもなく、黒尽くめのフードを被った男がこちらの瞳を覗き込んでいるのを、私は後ろから一瞬だけ確認する。


 


 そして彼は腕を私の背を這うようにして移動させ、私の右肩にそっと乗せた。とても軽いもので、人の腕とは思えないものであったが、私は何故か驚かなかった。異常な軽さではなく、乗せてきたことについて驚いたのである。




 私は彼が一体誰なのか知っていた。彼は隣人。顔も名前も知らないが、最近私の家の隣に引っ越して来た男だと確信した。




 彼は何か呟いた。




 私はそれに納得した。いや、少し感謝した。しかし、少し恐怖した。何を言っていたのかは分からなかったが、いや何も声に出していなかっただけかもしれないが、私に覚悟を決めさせた。




 すると私はベッドで横になっていた。普段は西枕で寝ている私は、今回に限っては北枕。だが不快感はない。時々そうする。




 何故か背中に人の気配を感じる。温もりを感じた。




 私は背を向けたまま彼に語りかけた。何を言ったかは分からない。すると彼も私の言葉に応じて言葉をくれた。




 私は無理に目を瞑ったまま笑顔を見繕い、二人を眺めた。




 私の背に冷たいものが触れる。きっとナイフであろうと、目を瞑ったままの私はこれから起こることを恐れ、そして何としてでも受け入れようとした。




 少し圧力を感じ、そして刺し込まれた。きっと肺に到達し、そのまま突き抜けて心臓に刺さっているのだろう。




 不思議と痛みは殆どない。しかしかなり息苦しい。喜ぶべきはずなのに、どこか寂しい。




 ナイフが下へ向かって私の肉を切り進んでいくのが分かる。




 怖い、本当に怖い。




 やがて刃は腰のあたりまで到達し、そして彼はナイフを抜いた。私の背には、背骨から左へ逸れたあたりに、縦長の大きな傷ができているのが見えた。




 死を確信し、もう一枚瞼を閉じた。




 今は朝九時、休日であるなら少しぐらい長く寝ても誰も怒らないだろう。自室を出て階段を降り、その先のドアを開けると妻がいた。




 朝の挨拶はなく、まだ見せていない背中の傷をいきなり質問された。私はその傷に手を回してそっと触れる。縦長の瘡蓋ができているのが指先の感覚で分かった。




 私は今自室にいる。時間は殆ど進んでいないが、詳しくは分からない。暖かい日差しが差し込む窓の近くに腰掛け、何も考えることなく黄昏ていた。




 ふと、音が聞こえた。それは外からのもので、隣人がベランダのドアを開けた音だ。そして目が合った。




 彼はこちらを見つけると、かなり驚いたような表情を浮かべ、家の中へと戻っていく。




 私は怖くなった。一階に降りて、妻に抱きつく。愛情というよりは恐怖心が強かった。情けないことに、守ってほしかった。




 私は今ベッドで横になっているようだ。時計は午前九時を指している。




 その日の帰り、私は少し身構えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

まだ顔も見たことのない隣人 かんざし @AL-Mavet

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ