第44話「二通の手紙」
私が悩む時間はそれほど長くなかった。
逃げ出す間もないほどすぐに、会わないつもりだった人が来てしまったのだ。
「電報をもらって――」
ウィルソン副牧師は、手紙どころか即刻フレデリック様に電報を打ったらしい。
その姿をひと目見た瞬間に息が詰まった。
学校の門前まで馬車で乗りつけたフレデリック様に背を向け、私はひどい足音を立てて教室へと逃げ込む。床板を踏み抜くのではないかという勢いで、ほんの短い距離だというのに町を走り回ったくらいに呼吸が乱れた。
幸い、生徒たちは帰った後だ。メリッサは部外者を中に入れないと思いたかった。
けれど、止めきれなかったのか、フレデリック様の足音が近づいてくる。
どこかに隠れなくては。焦る気持ちとは裏腹に、教室にあるのは小さな机と椅子ばかりで私が隠れられる場所などなかった。逃げるつもりが袋小路に飛び込んでしまっただけだ。
「ロビン」
フレデリック様の声が背中にかかった。私は窓辺のカーテンに手を伸ばし、それに包まる。
足元まで隠せないのだから、なんの意味もない。それでも、私とフレデリック様とを隔てるものがほしかった。
「怖がらせてすまない。でも……無事でいてくれてよかった」
そう言ったフレデリック様の声には覇気がなかった。私が怯えながら震えているのがわかったからだろう。
声を聞く限りでは、私に見せてくれていた穏やかさが戻ってきたように思える。けれど、冷たく私を糾弾したあの時だって間違いなくフレデリック様当人だったのだから、少しも気をゆるめることはできなかった。
私はカーテンの裏で自分の存在を消し去ろうと必死だった。このまま消えてしまいたい。
顔を見た途端に逃げ出したのだから、私が会いたがっていなかったことをフレデリック様も察しただろう。声がさらにしょげ返ったように聞こえた。
「――あの時はカッとしてひどいことを言った。ロビンが傷ついたのもわかったのに止められなくて、本当に申し訳ないことをしてしまった」
言い過ぎたと悔いていてくれたらいいと願った。事実、フレデリック様はそう感じてくれていた。だとしても、あの時のことが消えてなくなるわけではない。私の心はもう、閉じたままだ。
それでも改めて謝罪しにきたのは、良心の呵責からなのだろうか。
「言い訳をさせてもらえるなら、僕はカバート・グレインジのことを責めたわけじゃない。あの時、僕は向こうで何が起こったのかをまだ知らなかった。もし先にその話を聞いていたら、ロビンが手引きするわけがないと答えたよ。僕が言いたかったのはそのことではなくて――でも、あなたはカバート・グレインジのことで僕が怒っていると受け取ったんだ」
カバート・グレインジで起きたことを知らなかったのなら、フレデリック様はどうして私にあれほどの怒りを見せたのだろう。
後ろでカサ、と紙の擦れる音がした。
「僕はただ、この手紙を読んで、あなたにどう接していいのかわからなくなったんだ」
私はカーテンの隙間から差し込まれた皺くちゃの便箋に恐る恐る目をやった。その手紙は、あの時フレデリック様が握っていたものだろうか。
それは――私の義父の手によるものだった。
「ロビンが家に戻っている間に届いた」
そこに書かれている内容に、私は愕然とした。
娘は結婚が決まったので、暇を出して頂きたい。本人も承知の上だと。
この件ははっきりと断ったはずだ。
義父は私が断ったから、フレデリック様に私を解雇してもらおうとしたのだろうか。
「どうしてこの手紙で僕があんな態度を取ったかといえば、あなたが誰かとの結婚を承知して仕事を辞めたがっているというのを信じたからだ」
ギクリ、と心臓が音を立てた。
フレデリック様が哀切に声を上げるたび、私の心音が乱れていく。
「それが虚しくて、腹立たしかった。ロビンにはロビンの感情があって、それが僕の望むものとは違ったとしても、それに対して僕が怒るのは勝手なことだ。わかっているけれど、僕があなたにしてきたことのすべてには意味があったから、裏切られたような気分になってしまった」
教室が静かすぎて、私は自分の鼓動とフレデリック様の立てる音とのどちらかしか感じられなかった。
「カバート・グレインジでのことをご両親が僕に詫びに来たよ。その時に、ロビンが結婚の話をはっきり断ったのだと聞いた。だからお義父さんはこの手紙を書いて僕の方から辞めさせてもらおうとしたと。……実害もなかったし、カバート・グレインジのことは公にするつもりはない。あの二人を噛んだ野犬は狂犬病ではなかったみたいだが、あれで懲りたようだから。いや、そんなことはどうだっていい。僕はただ、傷つけてしまったロビンの居場所が知りたくて教えてほしいと頼んだけれど、ご両親にもわからないと言われて――」
私は何も答えなかった。だから、フレデリック様が一方的に話すばかりだ。
「あれから僕はあなたを捜した。ロビンの叔父さんが、一度あなたが会いに来たと言った、それ以降のことは何もわからなかった。家にも戻らない、ロンドンでも見つからない。移民船の記録にもなかった。毎日新聞の広告を見て、ロビンに該当するガヴァネスがいないか調べた。それでも、僕はあなたを捜し出せなかった……」
ただ、とフレデリック様は言葉を切った。沈黙が痛い。
もう心が何も感じなくなればいいのに。
それでもフレデリック様は言葉を重ねていく。
「ロビンが見つからない間、自業自得だとしても僕は気が狂いそうだった。あの時、ロビンは僕に助けを求めていたはずなのに、僕はあなたにひどい仕打ちをしてしまったんだから。自分のことを責め続けてこの一年間を過ごしていた」
なんの後ろ盾もない女が一人で飛び出していったのだから、無事でいるとは限らない。私が野垂れ死んでいたら責任は自分にあると考えて、フレデリック様は自己嫌悪に陥っていたのか。
私自身はそんなふうに気に病んでほしかったわけではないのに。
ウィルソン副牧師はそれを知っていたから、無事に生きている私の居場所を伝えずにはいられなかったらしい。
けれど、果たして無事と言うのだろうか。
私は――あの屋敷で過ごしていた〈ロビン〉は、フレデリック様と決別した瞬間に死んだようなものだ。今の私は別のロビンだ。
フレデリック様に拾われたガヴァネスではない。ささやかながらにも自立しようとする学校の教員だ。
「あと、これを――」
また、カーテンの隙間に便箋が差し込まれ、私は肩を跳ね上げた。
恐る恐るその便箋を受け取ったけれど、目にしたものが信じられなかった。その手紙は私が書いたものだった。
寄宿学校から初めて叔父に書いた返事だ。
「あなたと手紙のやり取りをしていた〈叔父〉は僕なんだ。ごめん」
この時、私は驚きすぎてカーテンを振り払っていた。粗末なドレスを着た私でも、カーテンから出てきて姿を現した途端にフレデリック様はくしゃりと顔を歪めた。それが泣き出しそうに見えた。
「どうして、フレデリック様が……」
この人は誰なのだろう?
私は今、目の前にいる紳士の存在を改めて考えた。
どうして私に関わろうとするのだ。
「
あの日、叔父を訪ねた時の苦い思いが蘇る。
叔父は会ったこともない姪になんの愛情も持ち合わせていなかった。フレデリック様にもそう言いきったのだろう。
「だから僕は、それなら名前を貸してくれと頼んだんだ。あなたたち家族に恩があって、それと知られないように支援をしたいから。ロビンからの手紙は転送してもらって、僕が開封していた。返事が遅いのはそのせいだ。若かった僕の字では重みがないから、タウンゼントに代筆させていたんだが」
私が現れた時、叔父は話が違うと言った。その意味がようやくわかった。
叔父の手紙は私を気遣う言葉を並べてくれていたけれど、決して会おうとは書いてくれなかった。
それでも、フレデリック様が叔父と偽って出した手紙を私は信じた。私を想う気持ちは確かにその文面の中にあったから。
そちらは寒くないか? 体の調子はどうだろう? 仲のいい友達はできたかい?
いつでも、私を気遣う言葉ばかりが並んでいた。
「学校を出た後も手紙のやり取りでロビンの居場所は把握していた。実は、ロンドンのマクラウド邸にも伝手を使って招かれるように仕向けたことがある。……あなたは客の前に出てこなくてがっかりしたけれど」
返す言葉が見つからない私に、フレデリック様は苦笑した。
顔色が冴えない。そこに苦悩の翳が見えるけれど、それが私の勘違いでないとも言えなかった。
「マクラウド邸を辞めたという報告を聞いて、慌ててロンドンまで行った。そうしたら、町角でやっとあなたと話ができる機会に恵まれた。それなのに、あなたは移民船に乗ると言った。あの時、僕がどんなに焦っていたか……。うちにはあなたが教える子供もいないのに、どうにかしなければと思って、とっさに雇うと言ったんだ」
思い起こすと、フレデリック様は初対面の時、〈ロビン〉という私の名前について何も言わなかった。初めての人は大抵、この名前について何か言うのに。ブレア夫人もそうだった。私の名前には触れなかった。
あらかじめ私のことを知っていたのか。家族に恩があるとはどういうことなのだろう。
「あなたのお母さんは僕を覚えていたよ」
昨年会った母が、フレデリック様に関して不思議なことを口にしていたのを思い出した。
フレデリック様はそっと、語り始める。
「僕はあなたに自分から思い出してほしかった。だから、僕から仄めかすようなことは言わないでおこうと思っていたんだ」
その口ぶりだと、私は過去にフレデリック様と知り合っていたらしい。
けれど、私は何も覚えていない。本当に、何も知らない。
「何も覚えていないあなたに苛立ちを感じたこともある。でも、あなたのお母さんに会って、その理由も少しわかった」
「母はなんと言ったのですか?」
「僕と別れた後、あなたのお父さんが亡くなったからだと。あなたはその後、熱を出して寝込んでしまったそうだ。悲しいことのすべてを忘れたかったのだろうって」
――なるべく急いで帰るから。
――絶対。絶対によ?
――ああ、もちろんだよ。可愛いロビン。
――早く帰ってきてね、お父さん!
頭が痛くなる。目の前が暗く、急に夜が訪れたような気分になった。
今の私は、握り締めたカーテンに縋りついて立っている。
「僕は、あなたたちに救われた。だから、その恩を返すと決めて生きてきた。……それなのに、その僕自身があなたを突き放して、そのせいで消息がつかめなくなってしまった。今さら信じてほしいというのはおこがましいけれど、感情的になってしまったことを後悔して、頭が冷えたらロビンに謝りたくなった。それが、あれっきり会えないなんて――」
信じるな、と私の心が告げている。
この人とはもう関わり合いになるべきではない。
また傷つくだけなのだ。傷つきたくないのなら、他人でいた方がいい。
それなのに、フレデリック様の声は打ち沈んでいる。
「ロビンのこととなると、どうしてこう何もかも上手くいかないんだろう……。僕があなたを傷つけたなら、どうやって許しを乞えばいい? 僕はロビンと満開のヒースを見たかった。それは十二年前からの約束だった」
十二年。
父が亡くなって、そして?
私は何を忘れてしまったのだろう。
うつむくと、フレデリック様のため息が聞こえた。
「僕は〈
――あなたのお名前はなぁに?
――僕は人間じゃないんだよ。だから、名前なんてどうだっていいんだ。
――何よ、それ。困るわ。あなたのことを呼べないじゃない。
――棒切れでも石ころでも好きに呼べばいい。
とても冷たい、アイスブルーの瞳。
悲しみが凝縮したような色だと思った。
私は痛みをすべて同じ小箱に閉じ込めた。その中には一人の少年がいた。
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