第43話「神の導き」

 ――と、そんなことがあったのを私はすぐに忘れた。


 思い出したのは、そのクララの兄である〈ジェフ〉が学校へ顔を出した時である。

 夏に差しかかり、私がここへ来てもうすぐ一年経とうかという頃のこと。


「兄さん!」


 クララは喜びを前面に出して兄に飛びつく。

 ジェフはクララと同じ茶色の髪をした長身の男性だった。年齢は二十代半ばから後半くらいだろうか。


 そのジェフと私の目が合った時、私以上にジェフの方が驚いていた。私もその顔をゆっくりと思い出した。


 ジェフは妹を横に押しのけ、私に向かって呼びかける。


「ミス・クロムウェル……ですね?」


 私の名前を呼ぶということは、他人の空似ではない。

 クララの兄は、ヨークシャーで私が通った教会の副牧師だ。〈ウィルソン〉なんてファミリーネームは珍しくもないので気にしていなかった。


 けれど――だからなんだというのだ。落ち着け、と私は自分に言い聞かせる。

 この人はあの教区の副牧師であって、フレデリック様と直接繋がりがあるわけではない。


「ええ、こんなところでお会いするとは思いませんでした」


 私が作り笑顔を浮かべていると、クララが兄と私とを見比べながら声を上げた。


「何? 二人とも知り合いだったのっ?」


 クララの好奇心が再び首をもたげる。私はすっかり辟易してしまった。

 ウィルソン副牧師は私に何か言いたげな視線を寄越すが、私はそれを受け取らなかった。


「まさかここにいるなんて、神のお導きとしか言いようがありません」


 十字を切って意味深長なことを言う。

 クララは興味津々で食いつきそうになったが、それをメリッサが止めた。


「ちょっと私たちは外にいましょうか」

「でもぉ……」


 名残惜しそうなクララを引きずり、メリッサも教室を出ていった。私も二人に続いて出ていきたかった。

 ウィルソン副牧師は小さくため息をつく。


「いえ、私から何か話があるということではないのです。ただ、イングリス様のことで――」


 聞きたくない。

 私が怯えた目をしたせいか、ウィルソン副牧師も躊躇って見えた。困ったように帽子の鍔に触れている。


「その、イングリス様があなたを捜しておられたので」

「私を……?」


 捜される理由を考えたくない。

 最後の給金を受け取らずに飛び出したから、後腐れがないようにそれを受け取らせたいのか。そうでなければジョセフたちと一緒に訴えたいかのどちらかだ。

 私は身震いした。


「あ、あの、私と会ったことは誰にも話さないで頂きたいのですが」


 思わずそう口走っていた。


「ですが……」


 ウィルソン副牧師が戸惑うのも仕方のないことだ。何も知らないのだからと思ったけれど、どうなのだろう。フレデリック様が告解に訪れて何かを話したなんてことがあるだろうか。

 もちろん、その内容はウィルソン副牧師が他言できるものではないけれど。


 ――いや、そんなはずはない。

 フレデリック様には罪の意識を感じるようなところはなかった。告白によって神の許しを必要とするとは考えにくい。

 フレデリック様が言い過ぎたと悔いてくれていたらいいというのは私の願望に過ぎない。


「お願いします」


 私が祈るように懇願しても、ウィルソン副牧師はわかったと答えてくれなかった。


「あなたはお会いしたくないと考えておいでなのですね?」

「はい」


 はっきりと言いきると、ウィルソン副牧師は悲しそうな表情を浮かべた。


「一度だけでも機会を設けて頂くことはできませんか?」


 どうしてそんなに食い下がるのだろう。

 私は目が回りそうなほど強くかぶりを振った。


「いいえ。できません」


 私の心を完全に砕くには、そのたった一度があれば十分だ。だから、それはできない。

 頭上から、ため息の音が聞こえた。


「あなたがそこまで頑なに会えないと仰るのなら、余程のことなのでしょう。それでも、イングリス様があなたを捜されているのは本当です。それも、とても必死に」


 必死になって私を捜していると。

 わからない。もう、考えたくない。


 私は泣き出したい気持ちを押し込めながら言う。


「私があの方を失望させてしまったのです。もう合わせる顔はございません」

「そうでしょうか? イングリス様はあなたにどうしても謝らなくてはならないと仰られました。何か行き違いがあるのではありませんか?」


 行き違いなどあるだろうか。

 どういう行き違いがあれば、フレデリック様が私をあれほど冷ややかに見るのだ。


「見ていて悲痛なほど、イングリス様は気に病まれていて……」

「ごめんなさい、私にはわかりません」


 私は頭を下げて教室から飛び出した。

 やっと静かに暮らしていける場所を見つけたのに。


 あのラッシュライト・ホールは、私には不相応な場所だった。けれど、ここは違う。私にはこの落ち着いた慎ましい生活が似合っている。

 それでも、ウィルソン副牧師はフレデリック様に私のことを話すだろうか。


 ここはあの優しいウォリック夫妻が世話をしてくれた職場だ。メリッサもクララのことも好きで、素朴な生徒たちも可愛いと思っている。ナンシーの時のように投げ出すことはしたくない。


 フレデリック様に頼り、与えられるもので私は一度立ち直った。けれどそれは本当の意味での自立ではなかったのだから、また以前の私に戻ってどうする?


 また同じことが起こらないとも限らないのに、再び信じることができるだろうか。

 私は誰に寄りかかることもなく、自分の足で立っていたい。


 ――私はどうしたらいいのだろう。

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