第41話「ウォリック夫妻」
これで本当に独りだ。
どうしよう。これからどこへ行こう。
少しも考えられない。私は冷たい町角でうずくまって、わっと泣き出した。
もう、本当にすべてのことが嫌になった。
どんなに足掻いても、私には何もない。何も得られない。
それなら、なんのために足掻くのだろう?
フレデリック様も、叔父も――欲しかった愛情は私には与えられなかった。
ヨークシャーで私は色々なものを手に入れたような気になったけれど、それらのすべてはフレデリック様が私に与えてくれたものだった。
だからフレデリック様との信頼関係が崩れた途端、私の手元には何ひとつ残っていない。
自尊心さえ、フレデリック様が私を大切にしてくれたからこそ、かろうじて保てたものだった。今の私は誰からも必要とされないのだから、そんなものはもう持てっこなかった。
人の目が、みっともなく泣いている私に向く。こんなところで泣いて、誰かが救いの手を差し伸べてくれるのを待っていると、浅ましく見えただろうか。
そんなことは考えていない。
どうしても耐えきれなくなって泣いているだけだ。放っておいてほしい。
ここには知り合いなんて誰もいない。だからこそ、気持ちのままに泣くだけだ。
けれど、そんな私に声をかけた人がいた。
「あらあら、どうなさったの?」
何故かその声に聞き覚えがあった。私は顔を上げなかったけれど、その老婦人は私のそばに屈み込んで私の肩に触れた。
「あなた、汽車でご一緒した娘さんね? うちでお茶でも飲んでいきなさいな」
そうだ。汽車の中で声をかけてきた老婦人だ。行き先が同じだと言っていた。
私は溢れる涙を押し込め、立ち上がった。老婦人は私よりも背が低かった。
それなのに、包み込むようなあたたかさがある。
私がしゃくり上げて返事もできないでいると、肩を抱いて歩き出した。よく見ると、近くに連れ合いの男性もいた。
「この近くなのよ」
夫人が言うように、その家は通りの端にあった。中流階級でもやや下の家のようだが、小さくとも二人ならば丁度いいようだった。
子供たちを立派に育て上げ、今はゆったりとした暮らしをしているのだろう。通りに面した手入れの行き届いた花壇が、夫人の人柄を表しているようだ。控えめな花が咲いている。
家には年若いメイドが一人いて、夫妻を迎え入れると言いつけ通り台所に引っ込んだ。
夫人は私をソファーに座らせてくれた。お茶よりも先に、夫人は隣に座って私の肩を摩りながら問いかける。
「汽車で見かけた時から気になっていたのよ。あんまりにも思い詰めた顔をしているから、今にも壊れてしまいそうで」
見るからに様子がおかしかったらしい。自分でもそうだろうと思う。強く在りたいと願っていても、私はそれほど強くない。
「何がそんなに悲しいのか、話せるところだけでいいから話してみる?」
この夫人は私とはなんの関りもない人だ。それなのに、身内よりも優しく接してくれる。私は余計に涙が零れそうになって、それを押し込めながら呻いた。
「行く当てが、なくて……。仕事も、暇を、出されてしまって……」
声に出したら、あの時のフレデリック様の冷ややかな目を思い出して息が詰まりそうだった。
夫人は、私の名前も訊かずに言った。
「それは大変だったわね。ねえ、あなた、おなかが空いているでしょう? とにかくまずは食事をして、それから考えましょうね」
私は小さな子供のようにこくりとうなずいた。
夫人が言うように、私は空腹だった。それから、あまり眠っていなかった。
体と心が疲れ果てていてろくな思考力を持たなかった。落ち着いてみると、何故あんな往来でしゃがんで泣きじゃくるようなみっともない真似をしたのだろうと恥ずかしくなる。
この夫人はオリヴィア・ウォリック。夫のラザラス・ウォリックはもともと建築関係の仕事をしていたらしく、引退してこの小さな家に住んでいるそうだ。
トロトロになるまで煮込んだ玉ねぎと兎の肉が入ったあたたかいシチューにありつけて、私は生き返った心地だった。
けれど、すぐにまた気分が落ち込む。空腹を一時的に満たしてもなんの解決にもならない。私が負った傷は癒えないままだ。
それでも、食事を終えるなりウォリック氏が切り出した。
「あんたはガヴァネスだったそうだが、学校の教員に興味はあるかね?」
私が目を瞬かせると、夫人が補足してくれた。
「私たちの娘がダーリントンで学校を始めたの。人手が足りていないみたい。ただ、町の子供たちは裕福な家庭の子供とは違うわ。教え方も同じというわけにはいかないと思うの。それに、まずは娘に聞いてみないとはっきりしたことはわからないけれど」
「私で勤まるのなら、是非お願いしたいです」
「期待させて駄目だったなんてことになったらごめんなさいね」
「いえ、どうせ何も決まっていないのですから、それでも窺って頂けるなら助かります」
私のような中途半端な人材でもいいと言ってくれるのなら、学校の教員でもありがたい。給金は低いとしても、もうこんな状況になってまで淑女であることにこだわりたくない。ナンシーたちのように健やかな子供と接していられる方がいい。
夫人は気遣いながら微笑んでくれた。
「そう。それなら返事が来るまでうちに泊まってくれていいわ。ねえ、あなた、いいでしょう?」
「ああ、そうしなさい」
――私はいつも、絶望すると誰かに手を差し伸べてもらっている。
その手に縋りついて、そして私はその人の信頼を保てない。
怯える心がどこかにある。今度もまた、最後には嫌われて呆れられて別れるのではないかと。
「ありがとう、ございます」
声が震えたのを、二人はどう思っただろう。
ダーリントンはこの州都と同じダラム州にあるが、もっと南の方だ。夫妻と汽車で乗り合わせたのは娘さんに会いにいった帰りなのだろう。
ダーリントンはヨークシャーの手前ではあるけれど、ラッシュライト・ホールがあるムーアからは遠い。
このダーリントンが私の終の棲家になるのだろうか。
返事の手紙が届くまでの一週間。ウォリック夫妻は私を家族のように大事にしてくれた。私と同じ年頃の孫もいるという話で、そのために親身になってくれたようだ。本当にありがたい。
ダラムで過ごした間、二度と叔父のところには顔を出さなかった。歓迎されていないのはよくわかったから、もうやめておこうと思う。
それにしても、あの手紙のやり取りには一体なんの意味があったのだろう。これまでにクリスマスにプレゼントを贈ってくれたのも気まぐれだったのだろうか。
「娘のメリッサから、是非お願いしますって。ダーリントンまで私も一緒に行きましょうか?」
夫人はこう言ってくれたけれど、それも申し訳ない気がした。
「いえ、一人で行けます。本当に、何から何までお世話になってしまって。あなた方にお会いできなかったら、私はどうなっていたことか」
「いいのよ。困った時は助け合わないとね」
そう言ってくれるが、私が一方的に助けられただけのような気がする。
「私たちに恩を感じてくれるのなら、娘のところでしっかり働いてやってくれ」
ウォリック氏の言葉に、私は大きくうなずいた。
「はい、もちろんです。本当にありがとうございます」
そして、別れの日。
私を抱き締めて別れを惜しんでくれる夫人が、私の耳元でそっとささやいた。
「あなたにはとても悲しい別れがあったのでしょう?」
ギクリと私が体を強張らせたせいで夫人には何もかも伝わっただろう。
背中をポンポン、と優しく叩く。
「若い娘さんがあんなふうに泣くのだもの。でも、まだまだこれから良い出会いが待っているわ。あなたはとても素敵なお嬢さんですからね」
慰めてくれる気持ちは嬉しいけれど、私はもう恋をしたくない。
あんなにも優しく見つめていてくれた目が変わってしまったのだ。こんな痛みを何度も味わうことを思えば、二度と誰も好きになりたくない。恋心はいつでも私を救ってくれなかった。
私は夫妻の息災を願いながら別れを告げた。
新たなる土地へと旅立つ。
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