第38話「カバート・グレインジ」

 カバート・グレインジは、ノース・ヨークシャーの森林にあるという。清らかな小川が流れ、獣たちにとっては住みやすいところだ。


 人の手があまり入らず自然をそのまま残すこの土地には、未だに青銅器などの過去の産物が出てくるのだとか。

 オスカーが得意げに語っていた。


 すっかり大人しくなった私と汽車に乗り込み、二人は意気揚々と語り合っていた。日が暮れて宿を取っても、私の荷物は取り上げられたままで、逃げ出したくともどうにもできない。私は生きた心地がしなかった。


 ヨークシャーに着くと、乗合馬車に途中まで乗った。目的地まで行くことはできず、道しるべに立てられた十字架クロスを頼りに歩いた。


 ジョセフが私の前を歩き、オスカーが私の後ろを歩いた。オスカーが視線の先にいないことに恐怖を感じる。足は止められなかった。


 私のたったひとつの希望は、カバート・グレインジにいるフレデリック様の使用人に助けを求めること。


 正直に話して味方になってもらうしかない。ことを荒立てると、それこそ義父の事業に差し障る。公にされたくなければ黙って引くようにとジョセフを脅す形に持っていきたい。

 ――私にできるだろうか。


 今後、私はあの家に足を踏み入れることはできないかもしれない。母に会えなくなる。

 それでも、どうしても、フレデリック様の信用を損ねるようなことだけはしたくない。


 日が暮れていく。

 私は、帰りたかった。

 フレデリック様のところへ――。


 屋敷が見えるよりも先に、森の手前に木造の小屋コテージがある。猟場番人のための小屋だろう。

 そこから誰かが出てきて咎めてくれればいいと思った。


 実際にそこから人が出てきた。藁のような髪色の青年だ。よく見ると、青年というよりも少年と言った方がいいようだった。


「あなたたち、この近くを通るのなら気をつけてくださいよ。密猟者対策で人罠マン・トラップを仕掛けてありますし、番犬だってウロウロしてますからね」


 面倒くさそうに少年は言った。ジョセフとオスカーは顔を見合わせ、少年に手招きする。


「君はここの番人かい?」

「ええ。親方の下で働き始めて日は浅いですけど」


 少年は答えながら私に目を向けていた。一番場違いなのは私なのだろう。

 ジョセフはにこやかに猫なで声を出した。


「そうか。僕はイングリス様のところでガヴァネスをしているロビン・クロムウェルの兄だ。こっちがそのロビン」


 少年は、ああ、とうなずいた。


「旦那様がこちらに来られることは稀です。でも、ちょっとだけお話は伺っています」


 それを聞き、ジョセフとオスカーは嬉しそうだった。私は二人が罠にかかって痛い目を見ればいいと思った。


「友人と一緒に妹を送り届けに来たんだ。せっかくだからこちらにも来てみたくてね。カバート・グレインジは素晴らしい猟場だったとよく聞くものだから」


 少年は何度か瞬きし、首を揺すった。


「親方はいつも昔の話ばっかりします。でも、今は狩猟もないし、もっぱら密猟者に備えるばかりです」

「それは勿体ないね」


 そうつぶやきながらオスカーは顎を摩った。


「ちょっとだけ見せてもらえないかな?」


 少年は困惑し、小屋の方を見遣った。


「親方に聞いてきますね」


 独断で許可できないのだろう。親方というのは番人頭ヘッド・キーパーだ。きっと、いいとは言わない。

 しかし、ここでジョセフはわざとらしいほど声を柔らかくした。


「そんなに大げさにしなくとも、ロビンがいるんだから、僕たちの身元は確かだろう? ちょっとでいいんだ」

「でも……。親方はすごく厳しい方なんです」


 戸惑う少年の手に、オスカーは硬貨を握らせた。そうして、悪戯っぽく目を眇めてみせる。


「すぐ戻ってくるから」

「暗くなると危ないですよ。急いでくださいね」


 少年が折れたのは、手の平に載った金額が思いのほか多かったからだろう。

 私は大声を出して厳しいという番人頭を呼ぼうかと思った。けれど、そうするとジョセフもただでは済まない。葛藤が生じてしまう。


 猟場へ入る手筈が整った以上、私に用はないらしく、ジョセフは私の足元にトランクを置いた。


「お前はここで待っていろ」


 むしろ、非協力的な私がついてきた方が都合が悪いのだろう。中を偵察し、場合によっては獲物を捕まえるようなことまでするつもりだろうか。


「行こうか」


 オスカーと二人、連れ立って猟場へ入った。罠があるせいか、少年もついていった。

 私はジョセフたちの姿が見えなくなった途端に足元からくずおれた。

 早くここから離れたいのに、足が震えている。どうしたらいいのかわからなかった。


 しばらく呆然としていると、猟場の奥から悲鳴が上がった。野太い男の悲鳴だ。ジョセフかオスカーか、どちらのものかはわからない。罠に引っかかったのだろうか。


 その悲鳴で、小屋から数人の男が飛び出してきた。近くでへたり込んでいる私を見つけ、そのうちの一人が駆け寄ってくる。一番年嵩で、この人が番人頭かもしれない。鷲鼻で、目つきが鋭かった。


「なんだ、あんたは? どうしてこんなところにいる?」


 事情を説明しなくては。

 でも、どう言えばいいのかまったく考えられなかった。


 大きな猟犬が、男性の背後で唸っていた。今にも私に飛びかかって喉笛を噛みきるように思えて声が出ない。


 慌ただしい足音が茂みを割って猟場の方から戻ってくる。あの少年だった。

 顔をぐちゃぐちゃに濡らして、半狂乱で駆けている。


「や、野犬が入り込んでいてっ! 狂犬病かもしれませんっ!」


 ざわ、と男たちが騒ぐ。


「ヘンリー! さっきの悲鳴はなんだっ?」


 少年は泣きながら答えた。


「そこの……ガヴァネスの、ミス・クロムウェルのお兄さんと、友人、です。猟場が見たいって……っ」

「どうして勝手に入れたっ?」


 その怒号に、少年は嗚咽を漏らすばかりだった。奥からは悲鳴と、逃げ惑う足音がする。

 番人たちは小屋に戻ると猟銃を持ち、森へと向かった。あの二人は助かるだろうか。

 助からなかったら、どうなるのだろうか。


「旦那様が雇ったガヴァネスが確かそんな名だった。あんたは何かよからぬ企みを持って旦那様に近づいたと、そういうことか」


 番人頭の鋭い目が私に突き刺さる。

 違うと答えたいのに、本当に声が出ない。


 私はあまりのことに気を失っていた。

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