第37話「義兄の思惑」

 まだいいでしょうと言って私を引き留める母と二週間を過ごした。

 こんなふうに何気ない日常を母と過ごしたのは子供の頃以来だった。早くフレデリック様のところへ帰りたいと思うのに二週間待ったのは、今後こうして母と過ごす時間はそうないだろうと思えたからだ。


 母は、父を忘れたわけではない。今でも父のことは特別に想っている。

 それがわかっただけ、私は母のことを前ほど嫌だとは思わなくなった。むしろ、それほど愛しく思っていた夫と死に別れたのだから、さぞつらかっただろう。


「また手紙を書くわ」


 別れる前に私は母と抱擁し合った。


「ええ、ちゃんと顔を見せに来てね」


 うなずいたけれど、母には私の心が伝わっただろう。しつこくはしなかった。

 ここでジョセフが私たちに割って入るように口を挟んだ。


「ヨークシャーのお屋敷まで送っていくよ。妹が世話になっているんだから、兄として挨拶くらいしないとな」


 これには私もとっさに言葉が出てこなかった。

 そんなことは頼んでいないし、聞いていない。ジョセフが勝手に私についてくると決めたのだ。よく見ると、トランクが入り口に置かれている。


 ――要らない。来てほしくない。

 それなのに、母は喜んだ。


「ええ、お願い。女性が一人旅なんてするものではないから。あなたが一緒なら安心だわ」

「一人で来たのだから、一人で帰れます」


 私がやんわり断っても、ジョセフはへらへらと笑うだけだった。


「兄妹なんだから、遠慮は要らないさ。行こう」


 と、私のトランクを奪い取った。


「あ、あの……っ」


 本気でついてくる気だろうか。なんとかして追い払わないと。

 ジョセフはフレデリック様に迷惑をかけるか、失礼なことを平気で言いそうなのだ。


 駅の前で乗合馬車から降りると、一人の男性が私たちに目を向けていた。まるで私たちを待っていたかのように。


「やあ、ジョー。彼女が妹さん?」


 黒髪の癖毛に茶色の中折れ帽を被った細身の男性だ。ジャケットも帽子と同じ駱駝色で、身なりからしてジョセフたちと同じ中流階級だろう。

 ただ、初対面の相手にここまでの嫌悪感を抱いたのは初めてだった。何故だか皮膚がヒリヒリする。この人に警戒しろと全身が訴えかけてくるようだった。


「そうだよ。義妹のロビンだ」


 そう言って、ジョセフは私の肩を押した。その手もまた不快以外の何物でもない。

 その男性は私を値踏みするように見る。


「ふぅん。まあまあ美人だけど、思っていたのとはちょっと違うかな」


 不躾な発言に私が驚いていても、ジョセフは笑うだけだった。


「男を誑かすには向かない妹だよ、オスカー」


 私はこの二人から離れたくて、ジョセフが持っている私のトランクを引き取ろうとした。


「私は一人で戻りますから。挨拶も不要です」


 私が焦っても、ジョセフはトランクを渡してくれなかった。それどころか、私を振り払うような素振りを見せた。


「そう言うなって。実は俺たち、お前に頼みがあるんだ」


 ――母が体調を崩して私に会いたがっていると。

 そんな手紙を寄越した本当の理由は、私に何か用があったためらしい。それを正直に書かなかったのは、手紙だと私が断るような内容だからだ。

 この時、私の心臓はうるさく警鐘を鳴らしていたが、それでは遅かった。


 トランクの中に所持金がすべて入っている。あれがないと私は何もできない。ジョセフに預けたのは軽率だった。


 ジョセフとオスカーという男は、二人で私を広場に連れていった。人目のあるところだから、手荒な真似をするつもりはないようで、そこがせめてもの救いだった。ベンチに座らされ、私の隣にジョセフが座る。オスカーは立ったままだ。


「私に頼みがあると仰いますけれど、それならこれはあまりいいやり方だとは思いませんが」


 はっきり返すと、オスカーが噴き出した。


「気の強い妹だな」

「そうなんだよ。昔から可愛げがなくって」

「でも、この妹があのイングリス准男爵のお気に入りなんだろ?」


 その名前が出た時の私の動揺が顔に表れていなかったと思いたい。

 オスカーはニヤニヤと笑いながら続けた。


「サー・フレデリック・イングリスは社交嫌いと評判の方だ。それに、ジェントリとしてはあり得ないくらいの狩猟嫌いらしい」


 私は何も答えなかった。答えたいと思わない。

 そうしたら、オスカーは勝手に語った。


「けれど、イングリス家は州の旧家カウンティ・ファミリーだ。所持する領地は広大で、屋敷だっていくつも持っている。先代の准男爵は狩猟好きでシーズンには大々的に狩猟パーティーを開いていた。それが今の准男爵になってぱたりと狩猟は行われなくなったわけだ」


 それがなんだというのだ。

 私は表情を一切変えずにただ座って話を聞いた。


「狩猟のために用意されていた領地の〈カバート・グレインジ〉は、今も売り渡すでもなく、一応猟地番人ゲームキーパーを置いて管理しているそうだが、近年で狩猟が行われたことはないらしい。つまり、獲物が有り余っているんだ」


 そこでジョセフが口を挟んだ。


「上流階級の人たちも、イングリス准男爵が所有するカバート・グレインジは素晴らしい狩猟の場だったと仰っていた。もうすぐ、〈栄光の十二日グロリアス・トゥエルフス〉――ライチョウ狩の解禁だ。狐狩りだってすぐだし、このシーズンを楽しみにされている方々は多いんだ。つまり、何が言いたいかというと、わかるだろう?」


 そののために狐と同じほど早く走れる猟犬を育て、馬を慣らし、真っ赤な狩猟服を仕立てる。フレデリック様が嫌がっていることが異常だとでも言いたげに語っているけれど、必要以上の殺戮を楽しんでいる人々は異常ではないのか。


「狩猟の場を設けてくださるようにイングリス様を説得しろと、まさか私にそう仰っているのでしょうか? ただのガヴァネスの私に?」


 〈ただのガヴァネス〉を強調した。そうしたら、二人は一瞬怯んだ。

 実際に、私が物を申せる立場にないことくらい、この二人もわかっているはずなのだ。それなのにこんなことを言い出したのは、欲に目がくらんでいるからだろう。


「……もしイングリス准男爵に話をつけることができたら、うちの会社の信用だって上がるんだ。お前はうちに寄りつきもしなくて、母親のことでさえ僕たちに任せきりじゃないか。たまの頼み事くらい聞いてくれてもいいだろう」


 フレデリック様の領地に招かれることができたら、仲介をしたジョセフの株が上がるということだ。このオスカーは、手伝ったら上流階級の人たちに紹介するとでも言われたのだろうか。


「できません。私にそんな発言力はありませんから」


 私は、フレデリック様の迷惑になるようなことだけは絶対にしたくない。それくらいなら、ジョセフと縁を切った方がましだ。


 多分、ジョセフは私が簡単にはうなずかないことくらいはわかっていた。私が断っても動じた様子はない。


「本当に可愛くないなぁ」


 可愛くなくて結構だ。

 トランクを盾に取られているが、そんなことをして恥ずかしいと思えないらしい。その感覚では上流階級の人たちの中に混ざったところで渡り合っていけるわけがない。それがわからないのだ。


 ただ、私が考えていた以上にこの二人は救いようがなかった。


「なあ、ロビン。そんな聞き分けがないことを言うものじゃない。でも、お前がどうしても嫌だっていうなら、何もしなくていいよ」


 何もしなくていいと。

 けれど、これを言った時のジョセフに私はゾッとした。目には諦めとは無縁の輝きがあったから。


「何もしなくていい。ただついてくるだけだ。お前が通行証代わりになるだろう?」

「無断で侵入するつもりですかっ?」


 思わず声が高くなってしまい、私はハッとした。こんな話は誰にも聞かれたくない。


「別に密猟しようとか考えているわけじゃない。ちょっと見てくるだけだ」


 なあ、とオスカーに声をかける。彼もまた笑いを張りつけてうなずいただけだった。


「私は協力致しかねます。どうしてもと仰るのならご勝手にどうぞ」


 私が従わなければ、この二人だけでそんな大それたことはしないはずだ。ここで脅しに屈してはいけない。

 頑なな私に、ジョセフは顔を歪めてみせた。


「なあ、狩猟で獣が死ぬから嫌だってのか?」


 私は答えなかった。


「でも、死ぬのは獣であって、人間じゃない。鳥や兎は無駄なく食べるし、狐なんて害獣だ。ある程度駆除しないと家畜に悪さをする。いいじゃないか、少しくらい」

「今の時期なら仔狐が生まれたくらいかな。来月には仔狐狩りカブ・ハンティングくらいはできるさ」


 二人が私を説得しようとするけれど、そんなものは逆効果だ。フレデリック様が嫌がることを私がしたいはずがない。


「勝手になさってください。私はもう行きますから」


 すると、ジョセフが私の手首をがっちりとつかんだ。手首が千切れそうな痛みを伴ったけれど、顔に出すのも嫌で耐えた。


「駄目だ。お前が協力しないなら、母さんがどうなっても知らないからな」

「何を……っ」

「ここ数年、うちの経営は順調じゃない。もし父さんが死んだって、財産なんて僅かだ。母さんが不自由なく暮らしていけるほどの遺産を受け取れるかどうか。だから、僕だって会社を立て直したいんだ。そのためには人脈が必要だ」


 どこまで本当なのかはわからない。ジョセフが勝手にでっち上げているだけかもしれない。

 大体、他人の持ち物を当てにして人脈を広げようとするのは間違っている。


「こんなやり方ではいけません。それで――」


 言いかけた私の手首をまた締め上げる。痛みで言葉が続かなかった。


「黙れ。お前は何もしなくていいと言っただろう? ただ黙ってついてこい」


 この時、私を脅すジョセフのそばにいたオスカーと目が合った。オスカーは、笑っていた。

 底冷えする黒い目で私を見て笑っている。その瞬間に、私の抵抗は終わった。


 ジョセフは小心者だ。けれど、このオスカーは、いざとなればなんだってやる気がした。

 どんなに笑っていても、心から楽しんではいない。あの目は悪魔のようだ。

 秩序を乱すことが好きで、人の苦しみを理解できない人に何を訴えても無駄だった。


 私はこれ以上抵抗すれば殺されるのではないかという危機感を本気で抱いた。カタカタと震えが止まらなくなる。


 この人こそ、人間の皮を被った獣だ。ジョセフはこんな人を友人だと思っているらしい。その危うさに気づけないのだ。


 私の心が屈服してしまったことを二人は察した。それでいいとばかりに私の手を引いて連れ出す。


 ――ヒースが咲く頃には帰ってくるように。

 その約束を私は果たせるだろうか。

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