第35話「ランカスター」
一人で汽車に揺られていると、久しぶりに日常が帰ってきたような気分になった。
あの屋敷での毎日は、私にとって非日常なのだと改めて思う。
じっと、手袋を嵌めた自分の手を見た。フレデリック様の手の感覚が残っている。
私はまだ、あそこへ帰ってもいいのだ。
カタンカタン。
汽車が走るごとに私はヨークシャーの大地から離れ、切なさを感じた。
まるであそこが我が家のように。
義父はランカスターで会計事務所を構えており、義兄もそれを手伝っている。
中流階級の人々は、いずれ自分たちも上流階級の仲間入りをするのだと、身分の高い人々と知り合う機会に貪欲だ。今の自分たちに満足すればいいのに、いつもよりよいものを求めている。
義父と義兄のそうしたところも私は合わない。
私の父は、失礼がない程度の人づき合いはしたけれど、自分を売り込むようなことはしなかった。いつでも自然体で、それに満足していた。
フレデリック様も爵位がほしいとか、より高貴な知り合いをもっと増やしたいとか、そういう野心は一切ない。むしろ、ボーフォート夫人のような、所有する財産に興味を持つ者が近づいてくるだけで手厳しくなる。
フレデリック様が珍しいのであって、義父や義兄が普通なのかもしれないが。
私は駅から町へ降り立ち、二年ぶりのランカスターを眺めた。
これといって思い入れがないのは、私がほとんどの時を寄宿学校で過ごしたせいだ。
ヨークシャーの自然に慣れた後だから、建物がびっしりと立ち並ぶ街並みがどこかせせこましく感じる。
ロンドンはもっと煩雑だった。私はもう、ロンドンには馴染めないかもしれない。
乗合馬車を使い、後は歩いた。
家が見えると、いつもとは少し違うことを思った。
フレデリック様のマナー・ハウスのように、門から屋敷までの距離があるわけでもない。以前は立派だと思っていた家が小さく感じられて苦笑した。
私の帰還に、見覚えのないメイドが困惑していた。
「母の具合が悪いという報せが届いたので、お暇を頂いて参りました」
それを聞くと、メイドは慌てて奥へ引っ込み、代わりに義兄のジョセフが顔を出した。
「ああ、ロビン。やっと来たな」
重たそうな茶色の髪と一重まぶたの緑の目。それほど背は高くないが、がっしりとした体格をしている。血の繋がりはないので、私たちはまったく似ていない。
ジョセフの浮かべた表情はどこか嬉しそうに見えた。けれどそれは、私に会えて嬉しかったというよりも、客が持参した手土産を喜ぶ子供のようだった。
「ご無沙汰しております。お母様の具合はいかがですか?」
私は微笑むでもなく訊ねた。ジョセフは人を食ったような笑みを浮かべる。
「手紙を送ってもお前がなかなか帰ってこないから、そのうちにすっかり回復したさ」
「それは何よりです」
多分、軽い風邪を大げさに書いたのだ。それくらいしないと私が帰ってこないと思ったからか。
たった一人の母親なのだから、たまには顔を見せるくらいはしなくてはならない。咎められるのは私の方だろうか。
「なあ、イングリス准男爵ってどんな方なんだ?」
ジョセフが唐突に、興味本位で訊いてきた。私はやはり、にこりともせずに答える。
「とてもご立派で、お優しい方です」
するとジョセフは、へぇ、とつぶやいた。その口元が不快に歪んでいた。
この時、母が階段を下りてくる。おっとりとした母が珍しく急いでいた。
「まあ、ロビン! せっかく帰ってきたのだから、そんなところに立っていないで早く中にお入りなさい」
ジョセフが肩をすくめた。私は母の変わりない様子にほっとしたような、腹が立つような、複雑な心境だった。
「おかえりなさい、ロビン」
母がそう言ってトランクを持つ私の手に手を添えた。
「体調が優れないと聞いてきたけど、すっかりよくなったみたいでよかったわ」
〈ただいま〉という台詞を私が意図的に避けたことに母は気づいただろうか。
ここは私の家ではないから、ただいまとは言えない。
母は苦笑していた。年は重ねても、まだどこか少女のような無邪気さを残している母は、不意に嬉しそうに笑った。
「ジョーね? でも、許してあげて。私がロビンに会いたいと思っていたから、そのせいよ」
そうだろうか。継母を気遣うような優しさがジョセフにあるのだろうか。私がそれほど彼をよく知らないだけとも言えた。
「でも、元気な顔が見られて安心したわ」
「ねえ、少しくらいゆっくりできるんでしょう?」
と、母は私の腕に自分の腕を絡める。
何不自由のない暮らしがあればこそ、母はこうして微笑んでいられるのだ。その点で私はもっと義父に感謝しなくてはならないのだけれど。
「そうでもないの。なるべく早く戻るように言われているし」
ヒースが咲く頃には。
私が帰りたいだけだ。
私はフレデリック様には〈ただいま〉と言えるのかもしれない。
「残念ね。少しでも長くいてほしいのに」
母は私に何を求めているのだろう。
少しもわからなかった。これが離れて暮らす親子というものだろうか。
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