第34話「ヒースが咲くまでに」
庭の花々も盛大に咲き、私は嬉しそうにはしゃぐナンシーと一緒に庭を見せてもらった。
プリムラやカンパニュラ、数種類の薔薇が咲き始めている。これからしばらくは美しい時季が続くのだろう。庭丁たちも誇らしげだ。
ナンシーと別れると、今度はブレア夫人が私の部屋に切り花を持ってきてくれた。大輪の、珊瑚に似た色をした薔薇だった。
「薔薇もジャムにするのですよ」
「よい香りがしそうですね」
ブレア夫人が薔薇をテーブルの上に飾る。あまりに華やかすぎて気後れしてしまうほどだった。
私が薔薇を眺めていると、ブレア夫人は音も立てずにソファーに座り、そこからぽつりと言った。
「あなたもいずれはご結婚されるつもりでしょう? その辺りはどうお考えですか?」
正直に言って、ブレア夫人が踏み込んだ質問をしてきたことに驚いた。そういうことは言わない人だと何故だか思っていた。
私の方がしどろもどろになってしまう。
「い、いえ、結婚はまだ身近に考えられなくて。それよりも来年のことを――」
「来年ですか?」
ブレア夫人が不思議そうに首をかしげる。
「何か予定していることがおありなのですね?」
「そうではなくて、来年以降の予定がないために今から考えておかないといけなくて」
「それはナンシーが秋になると学校に通い出すので、次の生徒のことでしょうか」
「ええ。次のことです」
私がなるべく動揺を押し隠して答えると、ブレア夫人は納得した様子だった。
「それでしたら、旦那様にお考えがあるようです。よくお話をされてみてください」
優しい声音と視線が私に向けられた。
それは、ナンシーが私のもとを巣立っても雇用を継続するつもりがあるということだろうか。
心音が戸惑いを正直に伝える。
私は、嬉しくないのだろうか?
結局、ブレア夫人にこう言われたのに、私はなかなかフレデリック様に今後の話を切り出せなかった。フレデリック様も私にそんな話はしなかった。
だからこの問題は私の中で解決しないままである。
雇用を続けてくれるのか、本当のところはわからない。雇い続けると言ってくれて、私がそれを受け入れるかも決めていない。
早くしなくては。もう季節は夏なのに。
もし別のところを探すのなら、もう動き始めるべきだ。
そう考えながらも踏ん切りがつかない。
ここを一度離れたら、フレデリック様と会うことは二度とないから。その覚悟をしなくてはならない。
残ったところで切なさが募るだけなのもわかっている。フレデリック様が結婚する時、私はガヴァネスとしてそれに耐えなくてはならなくなるのだから、それくらいなら去った方がいいとも思う。
――私はどうしたいのだろう。
日差しが強くなったこの頃、フレデリック様は庭で私に言った。
「ヒースの花が一面に咲くところを早くロビンに見せたい。きっと気に入ってくれるだろうから」
ナンシーからも話を聞いたことがある。
夏の終わりに向けて満開になると、それはまるで天国のような光景だそうだ。
本当に素晴らしい眺めなのだろう。けれど、それを見た時に私がこのヨークシャーでやり残したことが終わってしまう気がした。
「ええ、楽しみにしています」
そう答えながらも、まだ心は定まらなかった。
暑い夏の日が過ぎていく中、私は悩んでばかりいた。
そんな頃、実家から手紙が届いた。
母の体調がよくないという報せだった。私に会いたがっていると義兄の手による角ばった文字で綴られていた。
クリスマスにも家に戻らなかった私だから、疚しさは多少なりともある。危篤だとか、そこまで重篤な病状ではないようだが、寝込んで気が弱くなっているのかもしれない。少しくらい顔は見せるべきだろう。
ナンシーと過ごせる日は残り少なくて、この時に出かけたくはなかったけれど、仕方がない。私はフレデリック様にこの内容を伝えた。そして返ってきた言葉がこれである。
「僕も行こうか?」
私はそんなに取り乱して見えただろうか。それとも、女性の一人歩きは危ないということなのか。
フレデリック様が私を心配してくれているのはわかっているけれど、ではお願いしますとついてきてもらえる相手ではない。
「い、いえ、一人で行けます」
「本当に? じゃあ、せめて駅まではうちの馬車で送らせるから」
「お気遣い頂き、ありがとうございます」
心配してくれる気持ちだけでいい。
素直に甘えない私をどう思っただろうか。フレデリック様はとても残念そうに見えた。
「……ヒースが満開に咲くまでに戻ってきてくれ」
「はい」
駅まではということで、フレデリック様が馬車に同乗して送ってくれた。
その間、私は窓の外をなるべく見ないようにした。ヒースがチラホラと咲き始めていたからだ。
私は、満開になったところを見たかった。だから今はまだいいと。帰ってからの楽しみにしようと思った。
馬車の中でフレデリック様はじっと私を見ていた。息が詰まるほど。
「きっと、すぐによくなる」
気休めの言葉をかけてくれる。
私と母の関係も良好とは言えない。それでも、多分フレデリック様のところよりは少しくらいましなのだろう。
口数少なくうつむいている私を、フレデリック様は母が心配でそうなるのだと思っている。
本当は、フレデリック様の視線に耐えられないだけだ。こうして差し向かいでいると、心臓が激しく脈打ちすぎて壊れてしまいそうになる。
ヨークの駅に着いて別れる時も、フレデリック様は今生の別れのように私の手を握った。
「気をつけて」
「ありがとうございます。行って参ります」
手を解くのが気まずいくらい、ずっと握っていた。無表情のフィンリーからトランクを受け取り、私は駅のホームへ向かう。振り向けなかった。
フレデリック様が私の背中が見えなくなるまで見送ってくれているような気がしたから。
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