第33話「ブルーベルの道」

 思うところあって、私はなるべく教会に通うようにした。

 これまでは新しい土地に馴染むので精一杯で、つい疎かにしがちになっていた。日曜日には教会で祈りを捧げ、教区牧師レクターのありがたい説教を聞いてから帰るのだ。


 教会のように清らかな場所に行くと、荒れがちな心を静めてくれる。

 この教区の教会はラッシュライト・ホールの隣にあり、使用人たちも通っている。私もアスターに乗らずに徒歩で通った。


 ふと目を留めると、教会のそばに可憐な花の咲く木がある。ほとんど白に近い淡いピンクの花だ。この花はなんというのだろう。

 私が木を見上げていると、背後から声がかかった。


「どうなさいました?」


 振り向くと、そこには一人の男性がいた。ウィルソンさんという副牧師ヴイカーだ。

 私の義兄くらいの年頃だろうか。背の高い人だった。茶色の髪と瞳、彫りは深すぎずゆるやかな凹凸の顔立ちに人好きのする微笑を浮かべている。優しげだから人気がありそうだ。


「この花はなんの花かと思って見ていました」


 すると、ウィルソン副牧師は、ああ、と言ってうなずいた。


「これは林檎の花ですよ」

「林檎、ですか?」


 これがあの赤い美味しい実のなる木だと。私は林檎の花がどんな形をしていていつ咲くものなのかを知らなかった。意識して考えたこともなかった。だから真剣に驚いた。


 教師としてそんなことも知らなかったのかと恥ずかしくなるが、ロンドンで林檎は店先に並んだものだけなのだ。寄宿学校でも気にしていなかった。


 私が林檎の花を食い入るように見ていると、ウィルソン副牧師がクスリと声を立てて笑っていた。


「あなたがミス・クロムウェルでしょう?」


 名乗りもしないのに言い当てられ、私はどう答えていいものか困った。


「いえ、〈駒鳥ロビン〉という名前がぴったりなレディだと窺っていたので、きっとそうだなと」

「はい、ガヴァネスのロビン・クロムウェルです。あなたはウィルソン副牧師ですね」

「ええ。まだここへ来て日の浅い若輩者ですが」

「私もこの教会まで礼拝に来たのは最近なので、よく存じ上げなくてすみません」

「自然と足を向けたくなったのなら、あなたがこの場を必要としているからでしょう。ぜひお役に立てたらと思います」

「ありがとうございます。また参ります」


 親切そうだけれど、副牧師に私の悩みの種は解決できない。

 こればかりは自分で決着をつけなくてはならないことだから。




 教会の帰り、手紙を二通出した。

 一通は母に。もう一通は叔父に。


 母からは一度返事が来た。

 文面では私を心配しているふうだった。いつでも帰ってきてと書かれていた。


 叔父への手紙は届いているのだと思う。ただ、返事が来ない。

 うっかり前の住所のマクラウド邸に届いていないといいのだけれど。


 道を歩いていると、時折強い風が吹いた。砂がスカートにまとわりつく。

 風が収まってからスカートを払うと、春の日向の匂いがした。



     ◆



 それから、しばらくの間はナンシーと一緒にイースターエッグを作ったり、楽しいこともあった。

 色とりどりの絵の具を思い思いに塗りつけていくと、ナンシーの卵はよくわからない柄になってしまったけれど、それがナンシーらしい気がした。本人は大喜びだったので、それでいい。


 復活祭当日には、フレデリック様が出かけようと声をかけてくれた。

 その頃になると綺麗に花が咲くと言っていた。だから、咲いたのだろう。それを見せてくれるのだ。

 フレデリック様は穏やかに笑っていた。


「行こうか」

「はい」




 道の途中からすでに花がチラホラと見受けられた。

 スミレや、私が名前を知らない黄色の花。クロウタドリが地上で翼を畳んで休んでいる。


 アスターに揺られながら春の息吹を思いきり吸い込み、私は雑念を追い出そうとした。

 妙に動揺している。こうして長い時間をフレデリック様と共有するのが久しぶりだからだろうか。


 多分そうだ。嬉しいのに切なくて、悲しい。

 フレデリック様の声が私の心を簡単に乱してしまう。


「ロビン、見えてきた。あそこだ」


 声が弾むように聞こえた。フレデリック様の馬の歩みが早くなる。

 私が目を向けると、その先には草の緑を塗り替える勢いで青紫が広がって見えた。そのひとつひとつが花だと、よく見てみればわかる。けれど、とっさに目に入ったのは、その鮮やかな色なのだ。


 ハッと息を呑むほど、その光景は強く私の目に焼きついた。ベルと名がつく通り、釣鐘によく似た形の花が、ひと株に茎をしならせるほどたくさんの花をつけている。群生する花は風に触れて音色を奏でるのではないかと思えた。

 そんな花がずっと、ずっと先まで続いている。


 とっさに声が出ない。それくらいに驚いた。

 こんな景色はロンドンにはない。ロンドンにいては出会えなかった。

 心が震えるというのはこういうことなのかと、身を持って知った。そうしたら、涙が次から次へと零れ落ちた。


 人はいろんな感情を抑え込み、内に秘めて生きている。

 それがこれほど美しい光景に出会うと、嘘もつけずにありのままの自分になってしまうような気がした。自分を覆っている殻が崩れていく。


 泣きたいわけではないのに、涙が止まらない。

 ――いや、多分私は泣きたかったのだ。


 そう遠くないうちにここを去り、フレデリック様たちと別れる。そのことに今から怯えている。ちょっと突いただけで不安が溢れ出してしまう。


 それを泣かずにずっと耐えていた。

 私の心が今だけは素直に訴えかけている。疲れたから、今だけは泣かせてほしいと。


 けれど、私が泣いている理由をフレデリック様が知るわけがない。むしろ、この素晴らしい景色を目にしたら、きっと私が笑うだろうと考えていたはずだ。

 とても戸惑わせてしまっている。それを申し訳なく思った。


「ロビン……?」


 そっと、恐る恐る声をかけられた。

 私は涙を指で押さえ、軽くうなずく。


「すみません、あんまりにも綺麗だから」


 笑おうと思った。それでも、難しい。

 フレデリック様はブルーベルの道で馬の轡を返し、私のそばに近づいた。


「泣いてもいいけれど」


 ささやく声は不思議な響きを持っていた。耳を塞いでも体の奥にまで届いてしまうような――。

 私はフレデリック様の方を向く勇気がなくて、涙を拭く素振りをしてうつむいた。

 そうしたら、言葉が続いた。


「僕がいる時だけにしてくれ。知らないところで泣かないでほしい」


 どうしてこんなことを言うのだろう。

 フレデリック様は常に私のことを気にかけてくれている。けれどそれが愛情からでないのはわかっている。

 最初からフレデリック様はこうだった。私のことをろくに知らない時からだ。


 だから、私に特別な愛情を持って接してくれているのとは違う。

 わからないからこそ、この優しさに惑う。


「ありがとう、ございます……」


 答える声もぎこちない。でも、仕方がない。

 私は、夢を見た挙句に傷つきたくはないのだから。


 今度は、マクラウド邸で受けた傷よりもずっと深いところに届いている。無残に砕けたら、体がバラバラになってしまいそうだ。


 フレデリック様がこの時どんな表情を浮かべていたのか、私は確かめずじまいだった。

 私はただ、目が覚めるようなブルーベルの花に逃げ込んだ。

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