第32話「絶縁状」

 ボーフォート夫人は、ちゃんとフレデリック様からの手紙を受け取った。


 そして、受け取った上でやってきたのだから驚く。来ないようにと釘を刺された手紙を受け取りながらも、甥のことだから強く言えば受け入れると思ったのだろうか。


 ボーフォート夫人とダナ嬢が馬車で乗りつけた時、私は丁度庭を散歩していた。春の日差しの中をぼうっと、考え事をしながら歩いていたのだ。

 そこに馬車の走る音、止まる音、そして甲高い声が飛び込んできた。何が起きたのかと、私は驚いて音がする方に足を向けていた。


「まったく、あなたたちがフレッドを諫めるべきでしょうっ? つき合いのある親族も他にいないのにそれさえ満足に歓迎できないなんて、そんなことで准男爵が務まりますかっ」


 背の高い後ろ姿だった。ドレスも流行を追ったデザインのように見える。ただし、その感情的な声がすべてを台なしにしているような気がした。


「仰る通りでございます。私共が至らぬばかりに申し訳ございません」


 タウンゼントさんがやんわりと対応している。ブレア夫人もだ。

 ふと、馬車のそばに立っていたダナ嬢が振り返る。その可憐な目が私に向けられた。


 本当にお人形のような少女だ。美しくて、ガラス玉のような目をしていて、表情に乏しい。着飾っているけれど、何にも興味がないような無気力さだった。


 そんなダナ嬢が私をじっと見たせいか、ボーフォート夫人までもが私に目を向けた。


 ――早くこの場を去るべきだった。

 ブレア夫人からも会わない方がいいと言われたのだった。それなのに気になってしまったのは、フレデリック様に繋がる人たちを知りたいと思ってしまったからかもしれない。


「あなたは――?」


 値踏みするような視線だった。

 令嬢には見えないだろうし、使用人にも見えない。かといって、この屋敷にはガヴァネスを必要とする子供もいない。


 それならば、この女は誰なのだと。もっともな疑問だ。

 私自身、どう説明していいものやらわからない。多分、どう答えてもボーフォート夫人は気に入らない。どの道、正直に答えるしかないのだ。


「……ガヴァネスのロビン・クロムウェルと申します」


 私が礼をすると、ボーフォート夫人は眉を顰めた。ダナ嬢はなんの反応も見せない。


「ガヴァネス?」

「はい」


 この時、ブレア夫人がいつもよりも少し慌てた様子で私の前にやってきた。こっそり、耳元でささやく。


「ここはわたくしがどうにかします。ミス・クロムウェルは中へ――」


 しかし、ボーフォート夫人は私から目を逸らさなかった。


「ガヴァネスがこの屋敷で何をしているのかしら? ここには子供なんていないでしょう?」

「それは――」


 答えかけたブレア夫人に、ボーフォート夫人は厳しい目を向ける。

 美しい人ではあるけれど、そんなふうに顔をしかめていては誰の目にも魅力的には映らないのに。


「お黙りなさい。あなたには訊いていないのよ」


 病床のマクラウド夫人を思い出す。今の私もまた、あの頃の気分だった。


 ――いや、違う。

 今の私は、ブレア夫人のように庇おうとしてくれる味方がいる。

 それだけで私は以前よりも強くなれた。


「私はイングリス様に雇われております」


 はっきりと聞こえるように答えた。背筋を伸ばし、相手の目を見て。

 疚しいことは何もないとは言えない。胸の奥に秘めた恋心だけは重苦しい。


「フレッドに?」


 ボーフォート夫人はさらに表情を険しくしたが、ダナ嬢は一切表情を変えない。カッとなりやすい母親に慣れきっていて、自分は鈍感になっているような具合だった。まるですべてが他人事だ。


 この時、屋敷の中からフレデリック様がやってきた。

 その途端にボーフォート夫人の関心は私からフレデリック様に移った。ただし、とても苦情を言えないほどにフレデリック様は怒って見えた。


「――こちらには来られませんようにとお伝えしたはずですが?」


 氷で頬を撫でられたくらいにゾクリとする響きのある声だった。ボーフォート夫人もこれには怯んだ。


「だ、だって、あなたからこちらを訪ねるなんて、本当に来るかわかったものではないでしょう? 来たってすぐに帰るでしょうし。それではダナもがっかりだわ」

「ダナが? そうでしょうか。僕たちはそれほど口を利いたこともありませんから、そうがっかりすることもないでしょう」

「ダ、ダナは口下手なのよ。本心ではあなたに会いたくって――」

「勝手に代弁するのはやめてあげた方がいいですよ。これではいつまで経ってもダナはあなたの操り人形だ」


 フレデリック様に対しては下手したてに出ようと思っていたのかもしれないが、怒りっぽい性質というのは自制が利かないものだ。


「あなた、そんな口まで利くようになったのね! 使用人たちとばかり接しているから、下賤な者に毒されるんだわ! そこのガヴァネスだってなんなのっ? ここにガヴァネスなんて必要ないくせに、なんでこんな女を置いているのよ? こんな女、あなたに取り入るために近づいたに決まっているじゃないの!」


 この時、フレデリック様の我慢の限界の音がプツリ、と私のところまで聞こえたような気がした。


 私はいい。侮辱には慣れている。これくらい受け流せる。

 けれど、フレデリック様は低い声でささやいた。


「あなたがそうやってなんでも決めつけて喚き散らすことのどこに真実があると言うんです? もし自分こそが正しいと本気でお思いなら、それもいいでしょう。ただし、僕がそれにつき合わされるのは御免です。どうぞご勝手になさってください。さようなら、叔母さん。金輪際お会いすることもないかと存じますが」


 甥からの絶縁状に、ボーフォート夫人は青ざめた。

 急に態度を軟化させ、声音を変える。その変貌ぶりには唖然とするしかなかった。


「ご、ごめんなさい。でも、あなたを心配するあまり口を出してしまっただけのことなの。決して悪気があってのことでは――」

「そうですか。ではその心配も今後は無用に願います。さあ、お引き取りください」


 フレデリック様が冷ややかに言っても、ダナ嬢はやはり関心がない様子だった。フレデリック様に恋をしているということもなかったのだろう。それがせめてもの救いなのか。


「フレッド、あなた、いい加減にしなさいっ」


 オロオロと狼狽えたボーフォート夫人が涙ぐんで喚いても、フレデリック様は失笑しただけだった。


「いい加減にするのはどちらですか? あなたが侮辱していい人間なんてここにはいませんよ。ここにいるのは、僕にとって大事な人ばかりですから」


 この屋敷はフレデリック様にとって大事なホームで、使用人たちも家族なのだ。大事な聖域を土足で踏み荒らされると、フレデリック様はいつもの笑顔からは想像もできないほど怒る。


 その大事な場所、大事な人の中に私も含んでもらえている。

 そう思ったら、ボーフォート夫人には申し訳ないけれど嬉しかった。


「とにかく、お引き取りください。僕はダナとは違います。あなたが僕の何もかもを決めることはできません。ことに、僕の伴侶ならば僕が選びます」


 ぴしゃりと、フレデリック様は有無を言わさずに言い放った。

 この時のフレデリック様の表情は私のところからは見えなかったけれど、ボーフォート夫人が黙ったことを思うと、相当にわかりやすかったのだろう。


 それ以上何も言わずに、青ざめて馬車に乗り込んだ。ボーフォート夫人とダナ嬢を乗せた馬車が去ると、誰もがほっと胸を撫で下ろしたくなったようだ。その場の雰囲気がふわりと軽くなった。


 フレデリック様は私とブレア夫人のそばに歩み寄る。


「これくらいはっきり言わないと駄目だったみたいだ。僕の詰めが甘かったんだな。二人とも、嫌な思いをさせてすまなかった」


 私は何と答えていいのかわからず、ゆるくかぶりを振った。ブレア夫人はため息を吐く。


「そうは申しましても、旦那様のご親族ですから。後々面倒なことにならないといいのですが」

「ならないよ。こちらはいつ絶縁してもいいんだ。したくないのはあちらの方でしかないんだから」


 にこり、とまた穏やかなフレデリック様に戻って微笑んでいる。

 私の戸惑いが伝わったのか、フレデリック様は困惑気味に首をかしげた。


「恥ずかしいところを見せてしまったね」

「い、いえ」


 そこでフレデリック様は、去っていった馬車の方に遠い目を向けてつぶやく。


「叔母がこのヨークシャーを田舎だといって嫌っているのは知っている。好きなのはうちの財産だけだ。それでも僕が独身の間はいつまでも介入しようとするんだろう。普段は相手にしないんだが、今回ばかりは――」


 切った言葉の先はため息と共に春の日差しの中へと消えた。それでも、静かな怒りが感じられる。

 華やかで賑やかなロンドンがボーフォート夫人の世界のすべてなのだろうか。

 そこでよい生活を保つために財力は必要だけれど、このヨークシャーに住みたいわけではないのだ。


 私も最初はそうだった。ここに価値を見出せなかった。

 ただ、今は違う。ここには素晴らしいものがたくさんある。ボーフォート夫人がそのことに気づく日は来ないのだろうか。


 気分を切り替えるようにしてフレデリック様は顔を上げた。


「ロビン、これから遠乗りをしないか?」


 笑顔で問いかける。嫌な思いをさせたから、気晴らしにつき合ってくれるつもりだろうか。


「はい、喜んで」


 本当は、そんなふうに一緒に出かけるべきではない。

 時間を共有するほどに私はこの人に惹かれていく。


 楽しい時を過ごした後、泣くことになるのはわかっているのに、今を優先してしまう私は愚かだ。




 乗馬服に着替え、裾をつまんで馬小屋の方へ向かうと、すでにフレデリック様とフィンリーが待っていた。

 そして、私はフレデリック様と、離れてついてくるフィンリーとムーアに出た。


 春の柔らかい緑が目の前いっぱいに広がっている。

 空もシルクのベールのような雲が微かにあるだけで、遮られることのない明るさだった。


 途中、フレデリック様は口数が少なかった。どこかを目指しているのか、ただひたすらに馬を進める。それでも、私が遅れていないか気遣って、何度も振り返っていた。


 どれくらいか進むと、フレデリック様は馬の歩調を緩めた。


「これから復活祭イースターの頃になると、この辺り一面にブルーベルの花が咲くんだ。それから、向こうには桜草、ブルースター、鈴蘭、勿忘草、マーガレット、アネモネ――数えきれない花が見られる。整えられた庭も綺麗だけれど、力強い野草もいい」


 それらの花が一斉に咲いたら、どんなに素晴らしいだろう。

 それでも、まだほとんど花が咲いていないこの緑の野原も十分美しいと思えた。

 春は生命力に溢れた季節だ。その力を分けてもらえたら――。


「……早く咲くといいですね」


 花が咲けば、散る日が来る。

 夏が来て、秋になる。


 そうしたら私はここにはいない。

 それでも花が咲けばいいのにと思う。


 早くここを去った方が、早く忘れられるのだから。

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