第29話「感謝」
イングランドの春は、春の嵐が過ぎ去ってこそ初めて心安らげる。それでも、今日は日差しにぬくもりが感じられた。
私は庭を歩きながら考える。
枝に停まった
咲き始めたライラックのそばのベンチに座り、私は手を組んで祈った。この祈りは――。
「ロビン?」
いつの間にか、フレデリック様が気づかわしげに私を見下ろしていた。
フレデリック様のお屋敷なのだから、どこにいても不思議ではないけれど、この広さでよく遭遇するものだ。フレデリック様のお気に入りの場所に私が入り込んでいるだけだろうか。
「フレデリック様……」
「何を祈っていたの?」
静かに問いかけ、フレデリック様は私の隣に座った。肩が触れそうなほど近い。
私は落ち着かないながらに答える。
「亡くなった仔羊に」
そう、とフレデリック様は微苦笑した。私がいつまでも済んだことに捕らわれていると思うのかもしれない。
「仔羊の話は聞いたよ。楽しみにしていただけに残念だ。ロビンがずっと落ち込んでいたのも仕方がないね」
私が嘆いたところで現実は何も変わらない。それくらいは知っている。
だから――。
私にできることはなんなのか。それを考えた。
「実は、その子に捧げる名前をずっと考えていました。女の子だったそうですから、〈デイジー〉に決めました。
落ち込んでいたのも本当だけれど、名前をどうしようかと悩んでいたのもある。
亡くなってしまったとしても、生まれてきたのも事実だ。どんなに短い生涯でも名前があってもいいだろう。
私はこうして、この名前で、私と縁があった仔羊のことを覚えていよう。
残酷な世界だからこそ、寄り添って魂が触れ合う奇跡があってもいい。
うつむかず、空を見上げた。
初春の空の優しい色はフレデリック様の瞳によく似ている。
隣でフレデリック様が身じろぎをしたのがわかった。そっと顔を向けると、フレデリック様は目を細めてうなずいてくれた。
「その仔羊は、あなたにとても感謝しているよ」
「そうだといいですね」
私はようやく笑えた気がした。私の心にも春が近づいているのかもしれない。
どんな悲しみも、いつかは遠のいていく。
この時、フレデリック様が白手袋を嵌めた手で私の頬に触れた。私は驚きが勝ちすぎて身動きも取れず、瞬いただけだった。
「その仔羊が感謝を伝える方法はないから、僕が代わって礼を言おう。ありがとう、ロビン」
ふわり、と手が添えられていない方の頬にフレデリック様の顔が近づいた。唇が触れたのはほんの数秒だったけれど、私にとっては焼き鏝を当てられたほどの衝撃だった。
多分、フレデリック様は私が呆けてしまうのも予想通りだったのだろう。少し笑って立ち上がった。
「じゃあ、体を冷やすから、ほどほどにして中に戻るように」
「は、はい」
私は、どうやって声を出したのか覚えていない。何もかも感覚が狂って、私が私でなくなったような気がした。それくらい、心臓がおかしかった。
この症状が何を意味するのか、私は知りたくない。
それでも、認めない私を糾弾するように体が内側から騒ぎたてる。
――私は大事にされ過ぎている。
だからといって、勘違いしてはいけないのに。後で苦しむだけなのに。
ごまかせないほどに、私はフレデリック様といる時に喜びを感じている。同時に切なさも。
感謝と尊敬と、決して抱きたくないと思っていた感情と。
フレデリック様の心が奈辺にあるのか、私には到底わからないのに。
【◆2 ―了―】
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