◆3

第30話「春にして」

 私が部屋で穏やかな春を窓から眺めていると、ブレア夫人がやってきた。


「ミス・クロムウェル、失礼致しますね」


 大抵、ブレア夫人はお手製のジャムを添えたスコーンと紅茶を持って来てくれる。それが私には何よりの楽しみだった。

 焼きたてのスコーンから濃厚なバターの香りが漂う。


「今日は温室コンサバトリーで育てたスモモのジャムです」

「美味しそうですね」


 お世辞ではなく、ブレア夫人の手作りジャムはどれも美味しい。

 ブレア夫人はテーブルの上にティーセットを広げ、支度を終えると腰に下げた鍵束をシャラリと慣らしてソファーに座った。


「さあ、どうぞ召し上がれ」

「ありがとうございます」


 横に割られたスコーンに、たっぷりのクロテッドクリームとスモモジャム。頬張ると、ジャムには砕いたアーモンドが混ぜられていて、丁度いいアクセントになっている。


「このジャムもとっても好きです」

「あら、ありがとうございます」


 フフ、とブレア夫人も春の日差しほど穏やかに微笑んでいる。


「旦那様はお小さい頃、苦い薬が嫌だと言ってよく泣かれたので、いろんなジャムでごまかしてきました。スモモジャムもお気に入りでしたよ」


 フレデリック様の話題になると、私は自分の耳が象のように広がってしまうような気がした。それを自覚すると恥ずかしくなる。


 ブレア夫人は鋭いから、私が隠そうとする感情も見通してしまうのではないかと不安になる。だから、ブレア夫人とフレデリック様の話題に触れる時は慎重に、とにかく気をつけなくてはならない。


 私がフレデリック様に恋心を抱き始めたことを知れば、誰もがやっぱりと思うだろう。

 到底つり合いが取れるはずもない相手だから、そんなふうには見ないと考えていた私が甘かった。それは自然に、抗う術もなく、私は恋をした。

 ろくな結末にはならないと思っているくせに、それでも止められないのが悲しい。


 そう、悲しいのだ。

 恋というのはこの世の春のように素晴らしいものではない。誰かがそう言ったとしても、私にとっては違う。

 決して覚られないように耐え忍ぶしかない恋だからだろう。


「だからミセス・ブレアのジャムはこんなに美味しいのですね」


 私が当たり障りなく答えると、ブレア夫人は紅茶をひと口飲み、それからカップをソーサーに戻した。


「――実は、毎年春になるとこのお屋敷にはお客様が見えるのです」

「春になるとですか?」

「ええ。この地方の冬は不慣れな人には厳しいですから。ミス・クロムウェルも驚いたでしょう?」


 寒かったし、風の強さに驚きはしたけれど、部屋は十分あたためてもらえた。それに、冬の間、フレデリック様がいてくれて楽しい時間も多く過ごせた。だから、嫌だとは思わなかった。


「私はよくして頂きました。寒くはなかったですよ」

「それならよいのですが。……そのお客様は気難しい方ですので、冬はお嫌いです。そして、そんなお客様のことを旦那様は歓迎しておられません」


 はぁ、とブレア夫人はため息をついた。


「歓迎されていないのですか?」


 そういえば、フレデリック様は屋敷に人を呼ぼうとしないのだった。それならば、その客人は呼ばれていないのに勝手に来るということらしい。


「ええ。ミセス・ボーフォートと仰って、旦那様の叔母様に当たられます。ですが……まあ、来訪の目的があからさまですので、旦那様はご迷惑なのですよ」


 血縁者なら、金銭目当てというところだろうか。それならばフレデリック様が嫌がるのもわかる。

 それで、とブレア夫人は私の方をちらりと見遣った。


「旦那様はミス・クロムウェルをミセス・ボーフォートに会わせたくないとお考えのようです」

「ああ、それは……」


 私の存在はこの屋敷で不自然すぎる。自分でもそれくらはわかっている。

 それでもブレア夫人は気遣いながら言ってくれた。


「ミセス・ボーフォートは、ガヴァネスに敬意を払ってくださる方ではありません。旦那様はそれがお嫌なのでしょう」


 私のような者を必要もないくせに屋敷に雇い入れていることを説明するのが嫌なのだろうと思った。

 そうではなくて、その叔母が私に不躾なことを言うのが目に見えていて、フレデリック様はそれを心配してくれているとブレア夫人は言う。


 だとしたら嬉しい。そういうことならば、私は本来の自分よりももっと強くいられる。何を言われても平気だ。


「そんな扱いには慣れています。もちろん、お客様の前に出ないようにと仰られるのなら言いつけ通りに致しますが」

「旦那様の持ち家は他にもあります。ただ、ミセス・ボーフォートはこちらが旦那様の一番のお気に入りであることをご存じですから、他所では納得されないでしょう。ミス・クロムウェルにしばらく別のお屋敷で待って頂いてはと提案してみましたが、ここほどに行き届いていないので居心地もよくないから、それも駄目だそうです」

「それほど長期ではないのでしょう? 少しくらいなら私は構いませんが」


 これまで、寄宿学校の粗末な寮や宿泊所にいたこともあるのだ。それくらいなんでもない。

 その間、フレデリック様やナンシー、ブレア夫人に会えないことだけが残念だけれど。


 ブレア夫人はそんな私に苦笑して見せた。


「いえ、旦那様がお許しにならないので。なるべくミセス・ボーフォートと顔を合わせないように過ごして頂くということになりそうですが」

「その間、ナンシーの授業や乗馬もできませんね」

「ええ。退屈かとは思いますが」

「本を読んだり刺繍をしたり絵を描いたり、部屋ですることはいくらでもありますわ」


 私はブレア夫人に安心してほしくてそう言った。少なくとも私は、フレデリック様の迷惑にはなりたくないのだ。


 その客人がいる間はじっと、どんなに春の日差しがあたたかくても、花が綻びそうでも外へは出ない。

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