第28話「スノードロップ」
ナンシーに会えない冬が、私にはとても長く感じられた。
だから、やっと顔が見られた時、私は外からやってきてひんやりとしたナンシーを力いっぱい抱き締めていた。二ヶ月は経っていないはずだけれど、この年頃の子供は少し会わないだけで急に大きくなったような気になる。
「先生、会いたかったです!」
ナンシーも私に腕を回し、頬ずりしてくれた。
「私もよ。会えて嬉しいわ」
来れない間に少しばかりの宿題を出しておいた。ナンシーも家の手伝いがあるから、負担になるほど増やしたつもりはない。
ナンシーは個性的な絵を提出してくれた。羊たちの絵だ。それを見て、私は顔が綻ぶのを抑えられなかった。
「リリーの出産はもうすぐだろうってお父さんが言ってました。生まれたらすぐに教えますねぇ」
えへへ、とナンシーも嬉しそうだ。
「ええ、楽しみにしているわ」
待っている時間も幸せだった。この幸せが終わってしまうのが残念なくらいに。
雪が徐々に減り、そんな中で咲いたスノードロップがムーアに点々と咲いていた。
白く小さい不吉な花。
不幸を運ぶとされる花。
そんなものは人が勝手に不幸を何かのせいにしたいだけなのだとわかっていても、眺めていると心に引っかかりを覚えてしまう。
どうしてだか、スノードロップの花から目が離せない。
それはきっと、今が満たされているからだ。
幸せな時間はいずれ終わる。幸せであるから、失う時を恐れている。その不安が今の幸せを欠けたものにしてしまう。
今を精一杯楽しまないと勿体ないと思うのに、期間限定であると知っているからこそ、未来に怯えている。
そんな私の心をスノードロップは引きつけるのだ。
風がヒュウと吹いて服の中に入り込む。どこへ向かうでもなくぼうっとしていた私は、フレデリック様に声をかけられて我に返った。
「ロビン、具合が悪いのかい?」
薄青い目が私に向けられる。そこには私を心配してくれる気持ちが溢れていた。
戸惑った私は、失礼に当たらないようにさりげなく目を逸らし、アスターの首筋を撫でながら答える。
「いえ、少し寒く感じただけです」
「そうか。それなら戻ろう」
「はい」
フレデリック様が前を行き、私はアスターをゆっくりと歩かせながらこっそりとその背中を見つめた。
来るべき日に、私は堂々と立派に別れを告げられるだろうか。
◆
――けれど、私の心が打ちのめされるのに秋まで待つ必要はなかった。もっと手前に、すぐそこにあったのだ。
この世の中は幸せや喜びばかりでできているのではないのだから、不幸は身近にある。
どうしてだか、近頃の私はそれを忘れていたらしい。
春の嵐がひどくて、数日ナンシーが来られない日が続き、そうして次に来た時にはその消沈ぶりに驚いた。
泣き腫らした目は、ひと晩のことではないだろう。何日も泣いて過ごしたのだと思えた。
不吉な予感に、私の心臓が寒さに凍えるようにギュッと縮んだ。ナンシーは私の顔を見て、また涙が滲んでくる。
「せんせぇ。あのね、リリーの赤ちゃんね、死んじゃったの」
「え……っ?」
私が声を漏らすと、ナンシーはわっと泣き崩れた。
「生まれてきたのに、生きられなかったの。可哀想だけど、駄目だったの」
人の子も、動物も、すべての命が無事に生まれて健やかに育つわけではないのに。
私は少しもその心構えをしていなかった。楽しみにと、その柔らかい心だけを抱えていた。
だから、この報せにはなんの心構えもできていなくて、泣きじゃくるナンシーを慰めなくてはと思うのに、大人げなく一緒に泣いてしまった。
「リリーも頑張ったのに、可哀想ね……」
言葉を持たない獣だから、心の痛みを明確に伝えてくることはない。
それでも、どんな生き物でも子を失った時は悲しいのだと思う。
私は一人になると、ナンシーの描いた羊たちの絵をぼうっと眺めた。
人とは違って表情を浮かべないはずの羊たちが笑っているように見える。リリーらしき羊のそばに仔羊がいる。生きられなかった可哀想な仔羊が。
この絵のように幸せにすくすくと育ってくれたらよかったのに。
この頃、私は涙もろくなっているのかもしれない。一度泣き始めるとなかなか抑えられなくなる。
こんなにも悲しいのは、世界が残酷だからだ。汚れのない無垢な仔羊でさえ生きることを許してくれない。
それならば、私は?
その仔羊よりは罪深いのではないのか。
家族にもなじまず、家に寄りつこうともしない。小さなことにこだわる親不孝な私には、この先に幸せなどなれっこないのだろうか。
いろんなことを考えてしまう。それも、悪い方へと。
それでも、いつまでもこのままではいけない。心の中にスノードロップの花が咲き誇るような物悲しさが続くのでは、春を迎えられない。
この悲しさにどう向き合っていこうか。
私は仔羊の冥福を祈った。
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