第24話「線引き」
夕食を取った後、私は締めつけのない部屋着に着替えてガウンを羽織り、解いた髪にブラシをかけていた。
ここ数日は暖炉に火を入れてもらえた。炭が勿体ない気がして、まだ大丈夫だとエミリーに断ったところ、ミセス・ブレアの言いつけですと返された。私がヨークシャーの寒さを甘く見ているというのだろうか。
カタカタと風が窓枠を鳴らし、蠟燭の灯りが揺れる。
広い部屋にぽつり。私には広すぎる部屋だと改めて思った。
この時、扉がノックされた。
「ミス・クロムウェル、まだ起きていらっしゃる?」
ブレア夫人だ。私は立ち上がって扉を開けに言った。
「はい、どうなさいました?」
すると、ブレア夫人はトレイにカップをふたつ、それに水差しを載せていた。カップの中には湯気の上がった乳白色の飲み物が入っている。
「冷え込みますから、あたたかい飲み物でもと思いまして」
「まあ、ありがとうございます。どうぞお入りください」
私がそう勧めても、ブレア夫人は入らなかった。困ったように言う。
「いえ、私はこちらを旦那様のところにお運びしてきますから」
フレデリック様のところに行く前に立ち寄ってくれたらしい。引き留めてはカップの中身が冷めてしまう。
しかし、どうやらこの飲み物は〈クミス〉だ。ミルクとバターの香りがする。
小さい頃、風邪をひいた時に私もよく飲ませてもらった。砂糖で甘く味つけしてあるクミスを飲むとほっとした。
つまりが、病人や風邪予防として滋養をつけさせるために飲むものだという認識で間違っていないと思う。
ちらりとトレイの上を見ると、水差しの側には薬包があった。
「……イングリス様の体調がよろしくないのでしょうか?」
ブレア夫人は目を瞬かせ、それから少し笑った。
「随分ご丈夫にはなられたのですが、お小さい頃には喘息の発作を起こされることもしばしばで。少し熱がおありのようですが、薬を飲んで眠ればすぐにご回復されるでしょう」
熱があって、今日一日寝込んでいたということだ。
それは私につき合って寒い荒野をうろついたがためではないのか。
それに思い至ると、私はどうしても謝らなくてはならないような気がした。そして、何か私にできることを探したかった。恩人のフレデリック様が寝込んでいる時、何かの役に立てればと。
「あの……わ、私も一緒にお薬をお運びしてもよろしいでしょうか?」
自分でも何を口走っているのだろうと思った。着替えて髪も解いて、人前に出る恰好ではない。
けれど、今はそういうことには目を瞑ってほしい。具合はどうなのかが知りたい。
フレデリック様の病状を心配する気持ちだけは本当だ。
私は自分がどんな表情をしているのかを察することはできない。それでもブレア夫人は私のわがままを許してくれた。
「では、ご一緒しましょう」
「ありがとうございます!」
ブレア夫人は不思議だ。メイドのマージョリーたちに見せたような、断固とした厳しさも持つのに、こうした折には驚くほど柔軟だ。
何がその時々に最良なのかを見極めているような目を持つ。
私は燭台の灯りを手に階段を上った。ブレア夫人はトレイを持っているので、私が先を照らす。胸がドキドキといつもよりもうるさく騒いでいた。
こんな時間に出歩いたこともないし、それも人に、男性に会いに行こうとしている。ブレア夫人が一緒だとしてもはしたないかもしれない。
でも、このままでは気になって眠れそうにない。
フレデリック様の寝室は三階だ。もちろん入ったことはないけれど、場所は知っている。
ブレア夫人に代わり、私がその重厚な扉を叩いた。
「お加減はいかがですか? お薬とお飲み物をお持ちしました。失礼しますね」
そっと開けた扉の奥は暗かった。暖炉の灯りだけが赤く目を引き、衣擦れの音を立てて人が動く気配がする。
寒いから、窓も開けずに過ごしたのだろう。部屋の中は籠った生温さだった。どこか息苦しくも感じる。
「ロビン?」
驚いたような声がした。
その後、軽く咳き込む。やはり具合が悪いのだ。
姿は見えないけれど、そこにいるのはわかった。私はフレデリック様が苦しくはないか、何かしてほしいことはないか、それを訊ねたかった。
けれど、フレデリック様は咳が止まると、暗がりから絞り出すような声を上げた。
「今はいい。下げてくれ」
短い返答。その声はあまりにも素っ気なかった。
「で、でも……」
薬を飲まなくてはよくならない。私は困惑してブレア夫人を見上げた。
けれど、フレデリック様は暗がりから続けて言うのだ。
「具合が悪いんだ。下がってくれ」
それは冷たい、あからさまなほどの拒絶だった。
来るなと。出ていけと。
私は、フレデリック様の私的な空間に足を踏み入れられる身ではなかった。
ただ情けをかけられただけの雇用人だ。
いつもフレデリック様が私を気遣ってくれたのは、フレデリック様が紳士たらんと努めるから。
今のフレデリック様は病身で、そこまでの振る舞いはできないのだ。ただのガヴァネスを淑女として尊重し、扱うゆとりがない。
それを責めるのはお門違いだろう。勘違いしていたのは私の方だ。
いつも優しく振る舞ってくれたから、フレデリック様にとって私は多少なりとも気を許してもらえている存在なのだと思い上がっていた。
体調が優れない時ほど人は嘘がつけない。剥き出しの本心が出る。
弱っているからこそ、気を許していない人間をそばへは寄せつけないのだ。度を越して勘違いし始めた私は、フレデリック様にとって煩わしい女でしかない。
どうしようもなく恥ずかしくなって、惨めで、私は顔が赤くなるのを抑えられなかった。暗くてもブレア夫人には見えてしまったかもしれない。
私は困惑するブレア夫人の持つトレイに燭台をそっと置く。
「申し訳、ありませんでした」
精一杯平気な振りをして言ったつもりだったのに、声が揺らいだ。情けない。
マクラウド邸を後にした日、もう泣くのは止そうと思った。
泣いても誰も助けてくれない。疲れるばかりか、自分のことがどこまでも嫌いになってしまうから。
「ミス・クロムウェル、こ――」
ブレア夫人が何かを言いかけたけれど、涙が零れそうになって、私はそれを隠すために逃げ出した。
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