第23話「寒風の中で」
かねてからの約束の通り、私がピアノの練習を続けて、そろそろいいかと思いきってフレデリック様に披露した後のことだった。
曲目は、この屋敷にあった楽譜から選び、メンデルスゾーンにした。〈ヴェネツィアの舟唄〉がフレデリック様の好みに合ったかどうかはわからない。
ただ静かに目を閉じ、音が響くホールの中で静かに耳を傾けてくれていたかと思うと、私の指が最後の一音を跳ね上げた後、立ち上がって拍手をくれた。
「ありがとう、ロビン。とても素晴らしかったよ」
きっと、失敗していても褒めてくれたのだろうなと思う。
苦笑を交えながら私も立ち上がって礼をした。
「また聞かせてくれるかな?」
「ええ、ここにある楽譜の限りでしたら」
「あまり数がないようだね」
実際にそれほど多くはない。不仲だったというフレデリック様のお母様はこの屋敷に長く滞在することはなかったのだろうか。
私が持っている楽譜は手習い用のものばかりだから物足りない気がする。
フレデリック様はふと窓の外を見遣った。
「明日はきっと晴れるから、馬でムーアに出ようか」
庭も綺麗だけれど、フレデリック様はムーアが好きなのだ。時間が空くとは外へ出ようとする。
「ええ、ありがとうございます」
「近頃は冷え込むから、あたたかくして来てくれ」
「はい」
私がここにいるのが一年間なら、次の冬はない。今しか味わえないヨークシャーの冬を知っておくのもいいだろう。
きっと晴れるとフレデリック様が言ったように、初冬としてはまずまずの天気だった。
サラサラと頼りなく零れるような弱い日差しが冬だなと思わせる。どんなに明るくとも、夏のそれとは違うのだ。
アスターの背から空を見上げると、鳩が飛んでいた。
よく太った鳩だけれど、フレデリック様は本当に狩猟をしないらしい。長期で出かけることはほとんどなかった。
ジェントリの男性たちはこの時季、他のことを置き去りにしてでも獲物を追い回しているというのに。
けれど、それでいいと思う。優しいフレデリック様に銃は似合わない。
「ほら、あそこ。赤い実が見えるだろう? あれはナナカマドだ」
振り返ったフレデリック様の吐いた白い息が日差しに浮き上がる。それでも頬は紅潮していて、どこか少年のようだ。
指さす先に、流れる小川の縁に赤い細かな実が見えた。葉の落ちた枝に点々と、まるで火の粉ように赤い。くすみかけた自然の中で、その色はひと際鮮やかに感じられた。
ムーアにはこうした川もたくさんあるらしい。本当に、動物たちにとっては過ごしやすいところだろう。
野生の羊も草を食んでのびのびとして見えた。
「寒い中でも、あんなに実をつけていられるのですね」
ほぅ、とため息交じりにつぶやく。フレデリック様はうなずいた。
「植物は強いんだ。雪の下になっても、土の中で芽吹く準備をしている植物はたくさんある」
本当に。すぐに挫けてしまう人よりもずっと強い。
いいや、それは私が挫けていたかっただけで、立ち直ろうと願えばいつだって、春を迎えて芽吹くことができたのかもしれない。
それが億劫で恐ろしくて、立ち上がるのを拒んでいる。そろそろ、そういう自分とは決別してもいいはずだ。
風に揺れるナナカマドの枝を眺め続ける私を、フレデリック様が気づかわしげに見遣った。
「風が冷たくなってきたね。風邪をひいてはいけないから、そろそろ帰ろうか」
「はい」
あたたかくしてきたつもりだったけれど、襟や裾から風が入り込んでくる。それでも、雪が降ったらもっともっと寒くなるのだろう。
◆
冬の到来を前に、ひとつ残念なことに気づいてしまった。
雪がひどくなると、ナンシーはここに通えない。配達もほぼ止まり、保存食でどうにか食べていくのだろう。
「先生はクリスマスはどうするんです? おうちに帰るんですか?」
ナンシーが無邪気に訊いてきた。私はその質問にドキリとする。
「まだはっきりとは決めていないけれど、少し遠いから今年は帰らないかもしれないわ」
「そうなんですか? 寂しくないですか?」
「また今度にするからいいのよ」
家族が仲良しのナンシーからすると、クリスマスに家族がそろわないなんてことが起こり得るのかと愕然とした表情を浮かべていた。
少し前に、夫人やエレンと一緒に林檎、レーズン、カラントがたっぷり入ったクリスマス・プディングを仕込んだのだと楽しそうに語っていた。今から寝かせておいて、クリスマスの時に蒸し直して食べるそうだ。
ナンシーの話を聞いていると、父が生きていて幸せだった遠い昔の記憶が呼び覚まされるけれど、思い出しても悲しくなるだけだ。
フレデリック様にとって、クリスマスはどのようなものだっただろう。子供部屋で寂しく過ごす日だったのか、その日くらいは両親と過ごせたのか――。
ナンシーは帰り際に私の耳元でそっと声を抑えながら教えてくれた。
「先生、羊のリリーのおなかが大きくなってきてるんですっ。リリーの赤ちゃんの名前、つけてあげてください」
冬を越した頃に仔羊が産まれるだろうとジョンも言っていた。
私がこれを聞いた時、大変なプレゼントをもらったような気分になったと言ったら大げさに思うだろうか。
「いいの?」
大きくうなずくナンシーを私は抱き締めて喜びを表した。
この日、私は庭先を散歩していてもフレデリック様に出くわすことがなかった。
いつもはどこかで会った。会わない日があっても別段おかしくはなかったのかもしれないが、遠出しているという話は聞かなかった。
私は胸のつかえが取れないまま、彷徨うように廊下を歩いていた。
すると、向こうからタウンゼントさんが歩いてきた。丁度いいと思って訊ねる。
「あの、イングリス様はお出かけでしょうか? 用があるというわけではありませんが、御姿が見えないようでしたので」
すると、タウンゼントさんは穏やかに微笑んで答えてくれた。
「お部屋におられますよ」
――とのことだ。
少し姿が見えないからといって気にするなどおかしなことだったかもしれない。訊ねてから、やめておけばよかったと後悔した。
「そうでしたか。では、私も部屋に戻りますね」
「ええ、冷え込みますから、あたたかくされますように」
そう言って通り過ぎたタウンゼントさんが、ふと手紙らしき封筒を落とした。
「あっ、何か落とされましたよ?」
とっさに声をかけ、私がそれを拾い上げようと身を低くすると、タウンゼントさんは先ほどのゆとりが嘘のように素早く振り返った。私が封筒に手を伸ばすよりも先にそれをひったくるように拾う。
いつもゆったりとした動作のこの執事が、ここまで狼狽えるところを見たのは初めてかもしれない。
「も、申し訳ございません。その、大事なものでして」
「いえ、失くされなくてよかったですね」
どこか挙動不審というのか、慌てているのがわかった。この温厚な人にどんな秘密があるのだろう。
それを詮索するつもりはないけれど、ほんの少し気にはなったのだった。
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