第22話「トレギア家」
村の入り口ではナンシーが待っていてくれた。いつ到着するかもわからなかったのだから、ずっと待っていてくれたのだろう。
「先生~!」
いつもに輪をかけて嬉しそうに手を振ってくれた。
そのナンシーが手を繋いでいる男の子が弟のダニエルだろう。ナンシーとよく似ている。
「ナンシー、待っていてくれたの? ありがとう」
私がアスターの背から降りた時、ナンシーはえへへ、と照れたように笑った。
フレデリック様は馬上で少し身を屈め、私に向けて声をかける。
「先に用を済ませてから戻ってくる」
「はい」
「ミス・クロムウェル。こちらを」
私の横を通り過ぎる時、フィンリーは預かっていたバスケットを渡してくれた。
甘い匂いのするキャラウェイ・ケーキだ。中身が何かということを告げていなくとも、ダニエルが目を輝かせて見上げている。
「じゃあ、まずお母さんに会わせてくれるかしら」
「はぁい」
私はナンシーにバスケットを預け、アスターの手綱を引いて歩いた。
ここは小さな村だと聞いたけれど、私には大きくも感じられた。広い牧草地があり、雨風にさらされ続けて色の変わった木製の柵が巡らされている。ほとんどの家畜は小屋にいるのか、見えるところにいるのは数頭の羊だけだった。冬を前に、
ナンシーの家はレンガ造りで、壁に壊れた戸板や梯子が立てかけてあって雑多な感じがした。けれど、その生活感で話に聞いた通りの家族が住んでいると思えた。
「ああ、先生、よくいらっしゃいましたね」
話し声が聞こえたのか、ナンシーの父親のジョンが玄関の扉を開けてくれた。アスターを見てうなずく。
「いいポニーで。こっちの柵の中に繋いでおきましょう」
「ええ、お願いします」
私はアスターの鼻面を撫で、それからジョンに任せた。
「さあ、あばら家ですが中にどうぞ」
中からは芋を茹でているような匂いが僅かにした。それがなんとなく落ち着く。
そう広くない家の中、竈の前で振り返ったのはトレギア夫人だ。ああ、なるほど、間違いなくナンシーの母親だと思える顔立ちと、顔いっぱいに浮かべた笑顔がそっくりだった。
「ようこそ、先生! いつもナンシーがお世話になっています!」
とても声が大きい。それもナンシーによく似ていた。
だからか、初めて会った気がしなかった。自然と顔が綻ぶ。
「初めまして、ロビン・クロムウェルです。お会いできて光栄です」
これは社交辞令ではない。本当に、ナンシーの家族には会いたかった。どうしたらナンシーのような無垢な子に育つのか、環境を見てみたいと思えた。
外は散らかって見えたが、中は綺麗に掃除されている。客が来るとあって掃除してくれたのかもしれない。
ブレア夫人が持たせてくれたキャラウェイ・ケーキを受け取ると、夫人は大げさなくらいに喜んでくれた。
「あら、結構なものを頂いてしまって。でも、子供たちが喜びます」
「用意してくださったのはミセス・ブレアですので、帰ったら大変喜んでもらえたとお伝えしますね」
「ええ、そうしてくださいな」
それから、夫人はナンシーとダニエルに向かって言った。
「ほら、お茶の支度をするからエレンを呼んできて頂戴」
「はぁい!」
エレンというのは、ナンシーの姉だ。確か十四歳だという。
家の中にいないらしく、ナンシーは弟の手を引いて外へ飛んでいった。それを見送ると、夫人は悪戯っぽい笑みを浮かべて私を振り返った。
「こうして先生にお会いするまで、本当は心配でした。あの子はお上品な作法なんて何も知りませんし、もちろん私たちも知りません。いかにイングリス様のお願いとはいえ、嫌な思いをするんじゃあないかって」
「ええ、ロンドンから来るガヴァネスの生徒になってくれなんて、おかしな注文ですものね。引っかかって当然ですわ」
実際、最初の頃は何も上手く行かなかった。今のような関係が築けるようになったのは、すべてナンシーの善良さによるところだ。
正直に答えた私に、夫人は苦笑した。
「でも、今は行かせてよかったと思っています。あの子、とても楽しそうですから」
「私も、ナンシーに出会えて幸せです。あんないい子と接したのは初めてで」
私の掛け値なしの賞賛を夫人は優しい目をして受け入れてくれた。
「それは先生がいい方だからですよ。子供はちゃんとわかってますからね」
夫人にそう言ってもらえただけで、私はここへ来た甲斐があったように思う。
どんな努力も報われなかった過去が嘘のように、ここへ来てからの私は幸福だ。
胸の奥でぽかぽかと暖炉の火が点ったようなあたたかさがある。この火が消えることはありませんようにと願いたい。
「ただいま、お母さん! あのね、リジーたちと林檎の皮占いをしたら、わたしの未来の旦那様のイニシャルは〈L〉だっていうのよ。ねえ、どう思う? わたしは何か手違いがあったんじゃないかって考えてて――」
年頃の女の子らしい話し声がして振り返る。エレンはすらりとした綺麗な子だった。
「あっ、初めまして、先生。ナンシーの姉のエレンです」
サラサラの髪を揺らして挨拶してくれた。
「初めまして、エレン。会えて嬉しいわ」
「ナンシーから聞いたのですけど、先生のお名前はロビンさんですよね?」
と、エレンが瞬きを繰り返す。
「ええ、そうよ」
「可愛いお名前ですね!」
「ありがとう」
大体の人はまず初めに名前のことを訊ねてくる。赤毛だからよく似合っていると。
このやり取りには慣れた。
「ほら、エレン、手伝って頂戴」
「はいはい」
夫人が湯を沸かし、ミルクをたくさん入れた紅茶を振る舞ってくれた。
あのキャラウェイ・ケーキは、私は味見程度に頂いた。子供たちにたっぷり食べてほしいから。
ティータイムを終えると、ナンシーが立ち上がった。
「先生に羊たちを見せたいの!」
「ああ、そうだね。お見せしておいで」
私も羊は見たかった。ナンシーがとても可愛いといつも言っている。
「家畜はうちの亭主と息子たちが世話をしています」
「ええ、ではそちらにもご挨拶してきますね」
牧場では牛と羊を育て、農作も手掛けているそうだ。燕麦など、刈り取って家畜の餌にできるものを育てておけば一石二鳥なのだそうだ。トレギア一家は雇われの身で、牧場経営者は別にいる。そして、その経営者に土地を貸しているのがフレデリック様というわけだ。
ナンシーに連れられ、私は家畜小屋へと近づく。風が運んでくる家畜の臭いに少し怯んだ。足元で踏み散らかされた藁を踏んで滑らないように気をつけつつ小屋の中へ入る。
小屋を掃除していたのがナンシーの兄二人だ。
「ウォルター兄さん、ショーン兄さん、先生が来ましたよ!」
ナンシーの大きな声が小屋に響く。長男のウォルターが長柄のブラシを持つ手を止めて振り返った。
「こんなところにレディを連れてくるなよ。お召し物が汚れるじゃないか」
「私が羊たちを見てみたいと言ったのです。どうぞお気になさらず」
すると、ウォルターは少しはにかんだような表情を見せた。
「それならいいんですけど。……ナンシーの先生ですから、どうぞ好きに見ていってください」
「ありがとう」
ショーンは人見知りなのかウォルターの後ろに隠れてしまった。
「先生、あっちにいますよぅ」
掃除をしているここに羊はいなかった。放牧中なのだろう。
小屋を抜けていくと、草の広がった柵の中を羊たちがのっそり歩いていた。牧羊犬も今は伏せって動かないが、耳と目が警戒を怠らない。
この時、柵の中にはジョンとフレデリック様がいた。二人で何かを話ながら羊を眺めている。
フレデリック様は私たちに気づき、軽くうなずくような仕草をした。私たちが近づくと会話に混ぜてくれる。
「ああ、家畜の状態について訊ねていたんだ。今年はどうかと思って」
牧場の経営の良し悪しは地代にも関わってくるのかもしれない。フレデリック様はいつもこうして状況を把握するために各地を回っているのだろう。
「今年もまずまずでさぁ。牛たちの乳の出もいいから、バターもクリームもたくさん仕込めそうですし。ああ、羊たちは段々食欲が落ちてきましたね」
「もうそんな季節か」
フレデリック様は訳知り顔でうなずいたが、私は驚いて羊たちを見た。
毛が膨れ上がっており、とても痩せ細っているようには見えないけれど、食欲がないというのはよくないことではないのか。人間でも病気の時には食欲がないのだから。
のんびりとした羊たちを眺めつつ、私は不安に駆られた。羊たちに何かあったら、ナンシーはとても悲しむし、経済的にも打撃だろう。
私はハラハラしながら口を挟む。
「あの、食欲が落ちてしまって大丈夫なのでしょうか? そもそも、どうして食欲がなくなったのでしょう?」
フレデリック様は、私と目が合った途端に黙り、どこか狼狽えたように見えた。
「い、いや、それは……」
何かを説明してくれるのかと思ったら、その先が続かなかった。目を逸らしたフレデリック様の顔が徐々に赤らんで見えた。
私が首をかしげていると、ナンシーが隣で元気に答えてくれた。
「あたし、知ってますよぅ! こういうの、ハツジョーキっていうんです!」
とても大きな声で答えてくれたが、ジョンが慌ててナンシーの口を塞いだ。どこまで意味をわかっているのかは謎だ。
私は――フレデリック様に負けないくらい赤面した。少なくとも、独身女性が訊いてはいけないことだったらしい。わざとではないけれど。
「そ、そうなの……」
恥ずかしくなって顔が上げられなかった私に、ジョンが笑いを噛み殺したような声で言う。
「春頃には仔羊が産まれます。先生、その頃にまた来てやってください。可愛い仔羊に会えますから」
「ぜひ。楽しみにしていますね」
またひとつ、楽しみが増えていく。これで寒い冬も乗り越えられそうだ。
掃除を終えた小屋に羊たちが戻されていく時、私は羊に触れさせてもらった。羊は大人しく、私が触っても嫌がらなかった。ふんわりとした手触りがなんとも心地いい。
「この子はリリーっていって、女の子ですよぅ」
「まあ、見分けがつくのね?」
「顔が違いますよ?」
ナンシーが言うには顔が違うとのことだが、残念ながら私には同じ顔に見えた。
帰路に着く途中、私は馬上でフレデリック様に何度かお礼を言った。
乗馬を教えてくれたこと、アスターを連れてきてくれたこと、今日、私につき合って村まで来てくれたこと。
もっと言うなら、私を雇ってくれたこと、ヨークシャーに連れてきてくれたこと、いつも優しく接してくれること――言い出したらきりがないほどだ。
フレデリック様は私の言葉を笑顔で受け止めてくれていた。
今日は笑顔以外の表情も見られて、それがとても新鮮だった。今日のことがトネリコの赤い実のように鮮やかに目に焼きついていると言ったら、フレデリック様は嫌がるだろうか。
そんなことを考えながら、私はその晩、優しい気持ちで眠りについた。
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