第17話「乗馬」

 そんな話をした後だったから、庭園を歩いて馬小屋の辺りまで足を伸ばしてみたくなった。

 馬小屋には馬車馬と乗馬用の馬がいる。馬は敏感な動物だから、馬丁グルームが細心の注意を払って世話をするのだ。


 風向きによっては馬小屋が見えないようなところまで臭いが漂ってくる。ロンドンの道は馬だらけだったから、この臭いには慣れているけれど。香ばしいような匂いもする。餌の燕麦えんばくだろうか。


 馬小屋から首だけ出している馬たちは、いずれも手入れが行き届いていて艶やかだ。表に繋がれている馬に、馬丁が両手で力強くブラシをかけていた。馬は大人しく、されるがままだ。


 私がじっと馬を見ているのに馬丁が気づいた。三十代前半くらいの黒髪の男性だ。立っていて馬と目が合う丁度いい背丈をしている。


「あの、何か……」


 馬丁は困惑気味に訊ねてきた。私はどう答えるべきか迷いつつも近づいて会話を試みる。


「立派な馬ですね」


 馬を褒めたのに、馬丁は自分が褒められたように嬉しそうな顔をした。素朴な人だ。


「ええ、このお屋敷の馬は良馬ばかりですよ。餌にも気を遣っていますし」


 馬は自分のことだとわかっているのか、うなずくような仕草をした。本当に言葉がわかるのなら、私を乗せてくれるといいのに。


「そのようですね。ここは空気が澄んでいて環境にも恵まれていますし。この子は馬車をくのですか?」

「そうですね、いずれは。まだ若いですから、調教しなくてはいけませんし」


 そういうものらしい。

 私がうなずきながら聞いていると、馬丁は探るようにして言った。


「あの、あなたはガヴァネスのミス・クロムウェルですよね?」

「ええ、そうです」


 顔は知らずとも、思い当たる人物がいなければわかるのだろう。正直に答えた。

 それから、私は馬を眺めながら訊ねる。


「乗馬用の馬も見てみたいと言ったら見せてもらえますか?」

「旦那様がお乗りになって出かけられたので、一番いい馬はいませんが」


 フレデリック様が騎乗すると、絵のように様になるのだろう。それは聞かなくてもよくわかる。

 馬丁はフッと笑った。


「旦那様は動物の扱いに長けていらして、私共馬丁よりも馬の心がおわかりになるようでして。こちらは不要とされないように懸命に働くだけですが」


 駒鳥が好きだと言ったり、狩猟を嫌ったり、動物好きなのかもしれない。懐かれそうな雰囲気がある。


「お優しいですものね。馬にもきっとそれがわかるのでしょう。でも、あなた方も十分馬には好かれているように見えます。ブラシをかけてもらって、気持ちよさそうでしたもの」


 すると、馬丁ははにかんだ笑みを浮かべた。


「ありがとうございます」


 そんな会話をしていると、馬の蹄が地面を蹴る音がした。急いて駆けているのとは違う、軽やかな音だ。


 音のする方を振り返ってみた私に、フレデリック様が気づいた。従者のフィンリーも後ろからやってくるけれど、フレデリック様の方が少し先を走っている。馬丁は帽子を脱ぎ、私は膝を曲げて挨拶をした。


 そうしていると、フレデリック様の騎馬がすぐ近くで止まった。闇のような漆黒の馬だ。

 ――なんて綺麗なんだろう。力強い脚、長い鬣と首、聡明に光る瞳。相応しくない者が跨れば振り落としそうな、気位の高さを感じた。


 その馬に負けていない乗り手であるのは間違いない。

 フレデリック様は意外そうな表情をしながら馬から降り、馬を馬丁に託した。こうして見ると、ブラシをかけてもらっていた馬が随分小さく思える。


「ロビン、珍しいところにいるね?」


 こんなところにいると、まるでフレデリック様を待ち伏せしていたみたいだ。後ろから追いついたフィンリーはそう思ったかもしれないが、断じて違う。


「おかえりなさいませ。ええ、馬が見たくなって」

「馬が? ロビンは馬に乗れるのかい?」

「乗れませんけど、乗れたらいいなとは思っています」


 それは本音ではあったけれど、このたったひと言にフレデリック様が食いつくとは思わなかったのだ。


「乗りたいのか。じゃあ、練習したらいい。好きな馬を選んで――いや、女性なら小型のポニーがいいかな。探して来よう」


 ニコニコと上機嫌で言い出したから、これには私の方が困った。


「あ、いえ、乗れたらいいですが、乗馬服もありませんし……」


 それに、女性が騎乗するには横鞍がいる。淑女は男性のように脚を開いて跨るわけにはいかないのだ。

 すべてにおいてお金がかかってしまうから、乗りたいけれどそう簡単には行かない。


 私はフレデリック様に迂闊なことを言ってはいけないと反省したが、この時すでに遅かったのかもしれない。


「それなら気にしなくていい。僕の母親の乗馬服と馬具が残っていたと思う。ミセス・ブレアに頼んで、用意ができたら知らせるよ」

「え、えっと……」

「ロビンならすぐに乗れるようになる」

「は、はい」


 笑顔なのに断りきれなかったのは、フレデリック様が前のめりだったからだ。

 本当に馬を走らせるのが好きで、私もその爽快感を味わうようになれば随分気分が晴れると考えてくれてのことだろう。


 お母様の乗馬服も馬具も無駄にせずに済むという思いもあるのか。フレデリック様のお母様なら、背が高くてすらりとしていた気がする。その乗馬服があまり手直しを必要としなければいいのだが――。

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