第18話「奥様の形見」

 フレデリック様のお母様の乗馬服は、ブレア夫人によって私の手元に届けられた。


「こちらが〈奥様の形見〉の乗馬服ですよ」


 〈奥様の形見〉をやけに強調された。だから大切に扱えということだろうか。

 ブレア夫人はにこやかで、いつものことだが表情からは考えが読めない。


「ありがとうございます」


 緊張しつつも恭しく乗馬服を受け取るが、その乗馬服は擦れた跡もなく真新しかった。


「……奥様がこの服に袖を通されたのはいつでしょうか?」


 怪訝に思って訊ねると、ブレア夫人は手を組んでうなずいた。


「袖を通されたことはございません。用意をしたものの、結局乗馬はしなかったというわけですね」

「しなかった? それは、お体の具合が関係していたのでしょうか?」


 元気になったら乗馬をしたいという希望を胸に抱きつつ、その夢は叶わずに生涯を閉じられたのだとしたら、私が着ていい代物だとは思えない。いくらフレデリック様がいいと言ってもだ。


 ブレア夫人は楽しげにと笑うばかりで答えてくれない。自分で考えなさいとでも言れている気分だった。

 私は畳まれたツイードの乗馬服を広げてみた。そして、あれ? と気がつく。


「奥様が亡くなられたのはいつでしたか?」

「六年ほど前です」

「この服は六年以上も前のものではありませんね。デザインが新しいです」


 この乗馬服は細身のエンパイアスタイルだった。安全性を考慮して、もしスカートが引っかかってしまっても馬に引きずられないよう、力を加えるとボタンが外れる仕組みになっている。捲れないようにスカートにゴムバンドもついていた。


 こういうデザインになったのはわりと最近だったはずだ。乗馬はしなくとも、ロンドンに住んでいればそれくらいの情報は入ってくる。


 私が乗馬服から顔を上げると、ブレア夫人は笑いを噛み殺していた。


「乗馬服と女性用の馬具は奥様の形見として残されていましたけれど、使わなかったということにしてあなたにお渡しする。わたくしは旦那様のご指示にちゃんと従いましたよ」

「買ってきたのですね! わざわざ!」


 馬も探してくると言っていたし、フレデリック様に散財させてまで乗馬がしたかったわけではない。フレデリック様にとっては安い買い物なのかもしれないが、こういうことはやめてほしい。過度に施されるのは嫌だ。


 これは返そう。乗馬はしない。

 私が震えていると、ブレア夫人は私の肩にそっと手を置いた。


「まあ、少し落ち着いて。座って話しましょう」

「……はい」


 ブレア夫人には何か言い分があるようなので、私はまずそれを聞くことにした。

 眼差しには包み込むような優しさを感じる。それはフレデリック様を包むためのものだった。


「旦那様は、お母様の形見のすべてを使用人にお配りになりました。この屋敷で旦那様のご両親の肖像画や写真の一枚も目にしたことはないでしょう?」

「あ……」


 本当だ。私が行った場所がすべてではないにしても、一度もそういった家族の肖像を見たことはない。フレデリック様の口から家族の思い出が語られたこともなかったかもしれない。

 これが意味することは――。


「奥様はとても美しく、気性の激しいアイルランド人アイリッシュのご婦人でした。簡潔に申しますと、仲睦まじい親子ではありませんでしたから、旦那様はお母様の思い出の品を大切に取っておくようなことはなかったのです」


 子供の面倒をみるのは乳母ナニーで、上流階級の夫婦は社交に忙しい。子供を顧みないというのも珍しい話ではなかった。兄弟もいないことだから、フレデリック様の幼少期は寂しいものであったのか。

 逆に私は、実父が生きていた幼少期が一番幸せだった。皮肉なものだ。


「お父様もですか? 大事な跡取り息子を顧みなかったと?」


 すると、ブレア夫人は悲しそうにうなずいた。そして、私が抱えている乗馬服に手を重ね、微笑む。


「これをあなたは受け取れないと旦那様にお返しになる? それとも、黙って受け取るかしら?」

「それは……」


 ただでさえ過分な待遇を受けているのだ。これ以上フレデリック様から何かを受け取るのは心苦しい。


 けれどそれは、私の言い分であって、フレデリック様は必要だと思われたから私のためにこの乗馬服を用意してくれた。受け取れないと突き返して私は満足だとしても、フレデリック様はどうなのだろう。私が新しいことに目を向けただけで嬉しそうにしてくれたのに。


 乗馬服も馬具も受け取らず、乗馬も学ばないと言いきれば、多分フレデリック様は残念だと顔を曇らせる。

 私は、自分のために断るか、フレデリック様のために気づかない振りをするか、そのどちらかを選べるのだ。


「……〈お母様の形見〉をお借りしようと思います」


 フレデリック様が嘘をついたのは、私に気兼ねさせないように考えてのことだ。気遣いには気遣いで返せるようにならなくては。

 私が答えると、ブレア夫人は微笑んだ。


「ええ、怪我には気をつけてお楽しみくださいね」


 ブレア夫人もきっと、私にそうしてほしかったのではないかと感じた。親子仲の悪かったフレデリック様たちのそばで、ブレア夫人はずっと心を痛めていたのかもしれない。


 けれど、それならばフレデリック様には屋敷に寂しく鎮座するピアノの音色を懐かしむ気持ちなどなかったはずなのだ。

 果たして、子供部屋の扉を隔てて聴く音色が好きだったかどうかはわからない。


 なんの思い入れもない、インテリアと化したピアノを私に弾かせようとするのは何故だろう。

 それがむしろ、嫌な思い出を払拭するためだとしたら? 新たな音によって塗り替えたいという思いからだとしたら?


 私にはそれができるだろうか。自信はないけれど。

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