第16話「ピアノ」

 私がこのヨークシャーのラッシュライト・ホールにやってきてから、ひと月と少しの歳月が過ぎた。


 その間、フレデリック様の客人が訊ねてくることもなければ、大々的にパーティーが催されることもなかった。

 本当にフレデリック様は人づき合いが嫌いなのだろうか。人当たりがよいと感じるだけに不思議だ。


 この日も私はナンシーに書き取りと計算を教える。

 そして、ナンシーを見送った帰りに庭園を歩くと、フレデリック様がいた。ニコニコと微笑みを浮かべながら私に訊ねてくる。


「ロビン、ピアノのレッスンはしないのかい?」


 この屋敷には立派なピアノがある。ただし、誰も弾かない。調律はされているものの、長らく弾く人がいないらしい。


 そのピアノはフレデリック様の母親のものだという。大切な形見の品だから迂闊に触れないと思ったのも事実だが、それ以前にナンシーにピアノを教えても、ナンシーはそれほど弾く機会に恵まれないのだ。


 読み書きがもう少し上達して、それでも時間にゆとりがあるようなら教えてもいいが、一年では多分無理だろうと思っている。


「そうですね、先に教えるべきことを終えてからにしようと考えています」


 正直に答えると、フレデリック様は残念そうに見えた。


「あのピアノが音を奏でるのは、まだ先のことかな」


 中流階級以上の娘であれば多少は弾けるだろう。ピアノが弾ける女性をここへ招けばいいのに、変に気を持たせるようで嫌なのだろうか。


「フレデリック様がそんなにピアノの音色がお好きだとは知りませんでした」


 それに限らず、私にとってフレデリック様は未だ謎が多い。

 自然が好き、狩猟が嫌い、駒鳥が好き、人づき合いが苦手、家族はいない――その情報にピアノが好きと新たに加わる。


 フレデリック様は、うん、と言ってうなずいた。


「そうなんだ。ロビン、ナンシーのレッスンは別として弾いてくれないか?」

「えっ……」


 難色を示したつもりはないのだが、こう改めて言われると緊張してしまう。

 しばらくなんの練習もしていないのだから、私の指だって十分に錆びついている。耳が肥えた人には聞き苦しいだけかもしれない。


「ピアノに触れるのは久々ですので、少し練習させて頂いて、それからでしたら……」


 まるで私の方がピアノを習いたての女の子のような気分になった。正確に弾けるようになったか聞かせてもらいますよ、と先生に試されている時の緊張感だ。


 そんな私の気持ちはフレデリック様には伝わらなかったのかもしれない。笑顔でうなずかれた。


「楽しみだな。そのうち、ミセス・ブレアに楽譜を出しておいてもらおう。好きなものを弾いてくれたらいいから」

「は、はい」


 当分、ナンシーが帰ってからはピアノの練習だ。これはよい機会だと捉えるべきだと私は前向きに考えることにした。


 庭園では、フレデリック様が教えてくださったように、アーチに絡んだ白い蔓薔薇は未だに咲いている。

 次第に風が冷たく感じられるようになったのに、まだ頑張っているのが健気に見えた。フレデリック様が大事にされるのもわかるような気がした。



     ◆



「――それで、その時はウォルター兄さんが怒って大変だったのです」


 私のもとを訪れたナンシーは、身振り手振りで昨日の出来事を話して聞かせてくれた。


 昨日、ナンシーの家では飼っている羊の柵を修繕していたらしい。

 ナンシーの兄たちが羊を散歩させる時、次兄ショーンの注意が足りず、羊の数が足りなくなっていることに長兄のウォルターが気づいたのだそうだ。


 皆で慌てて羊を探しに走り、どうにか捕獲することができたらしいが、ショーンはウォルターから拳骨を見舞われ、相当に叱られたらしい。


 家畜は財産だから当然のことではあるけれど、聞けばショーンはまだ十歳だそうで、仕方がないような気もする。長兄のウォルターは十八歳、間に姉が挟まるのだが、ナンシーとはわりと年が離れている。


「拗ねたショーン兄さんは隠れて泣いていて、エレン姉さんがこっそり糖蜜トリークルを混ぜたミルクを持っていってあげたのです。それを飲んだら、ショーン兄さんはケロッとして出てきました。あ、目はボンボンに腫れてましたけど。あたしだったらもうちょっと隠れて泣きます。ショーン兄さんはタンジュンなのですね」


 プクク、とナンシーは笑いを堪えながら文字を書いていた。五歳の子供のちょっとませた言い方に、私も笑ってしまう。


「それで、お母さんはなんて仰っていたの?」

「お母さんは笑ってて、兄弟喧嘩なんて喧嘩のうちに入らないって言うんですよぅ。喧嘩に入らない喧嘩ってなんでしょうねぇ?」

「あら素敵ね」


 私には兄弟がいない。義理の兄ならいるけれど、兄弟喧嘩になんてとても発展したことはなかった。滅多に口も利かなかったし、他人よりも遠い存在だった。だから、兄弟喧嘩をするのは仲がいい証拠なのだと思える。


 ナンシーの家は仲がいい。毎日、狭いベッドにぎゅうぎゅうになって寝ているそうだ。

 今となっては、そんな暮らしもあるのだな、とナンシーの話を面白く聞いている。


「そぉですか? えっと、家に帰ると、あたしが今日、何を教わったのかを家族に話すんです。皆、先生ってどんな人なの? って訊くんです」


 と、ナンシーは力の抜けきった笑顔を浮かべてみせる。

 家でナンシーは私のことをどう話しているのだろう。聞きたいような、聞きたくないような。

 苦笑していると、ナンシーはペン先を宙でぐるぐると回しながら首をかしげた。


「あたしも、先生を家族に会わせたいなって思って、お父さんに先生を馬車に乗せてもいい? って訊いたんですよぅ。そしたら、こんな汚い馬車に先生みたいなレディを乗せられないって。う~ん、荷物がいっぱいで乗るところはないってほんとは知ってるんです」

「ナンシーのご家族には会ってみたいけれど。歩いていくには遠いかしらね」

「先生はお馬に乗れませんか?」


 ナンシーは、どうしても家族に会ってほしいようだ。

 けれど、フレデリック様にお願いして馬車を出してもらうのも気が引ける。ガヴァネスごときが立派な馬車で村に乗りつけるのもどうかという話だ。


「乗馬はしたことがないわ。ごめんなさいね」


 乗馬ができたらよかった。とはいえ、乗馬服も持っていないのだ。一から揃えるとなると、貯蓄どころの話ではなくなってしまう。

 またいつか、ナンシーが私のもとを旅立っていった後に一度くらいは訪ねてみたいけれど。


「残念ですねぇ」


 がっかりしたナンシーに、少しだけ申し訳ないような気分だった。

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