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第13話「広がる世界」

 私がナンシーと一緒に泣き、ブレア夫人に話を聞いてもらった日は、これまでにないほどよく眠れた。


 清々しい目覚めだった。

 ベッドの上で天井に手を突き上げるようにして、思いきり伸びをしてみる。この時はっきりと、もうマクラウド邸のことは夢に見ないと確信めいたことを思った。


 そうしたら、自然と笑みが零れた。小さなことかもしれないが、私の心がひとつの障害を乗り越えたのだ。それだけでここへ来た意味があったと言える。


 その後、フレデリック様とはまだちゃんと話をしていない。

 私の方から声をかけ、時間を割いてもらうには躊躇われる相手だから。向こうから声をかけてくれるか、偶然行きあわない限り話す機会はないのだ。




 朝食の後にナンシーと勉強し(本人が家で練習したと言ったように、文字には上達が見られた)、今日になって初めて、ナンシーを迎えに来た父親に挨拶する。お父さんに挨拶したいと言うと、ナンシーは嬉しそうに私と手を繋いで連れていってくれたのだ。


 ただ、ナンシーが通った道は私が知らない使用人たちの管轄だ。キッチンの横を通り、裏手から出ていくらしい。キッチンに私が現れると、昼食の支度をしていたコックや洗い場女中スカラリーメイドがぎょっとした。場違いな私は困惑しつつ、とりあえずナンシーと素早く湯気の中を通り抜けた。


「先生、あれがうちのお父さんですよ!」


 痣はまだ痛々しいが顔を輝かせるナンシーに、私も笑い返す。

 ナンシーの父親はナンシーがガヴァネスを連れてきたことに驚いたようだった。荷馬車の御者台に腰を据えたまま帽子を脱ぎ、両手でもじもじと揉みしだく。頬まで髭の生えた五十歳ほどの男性だった。


「ガヴァネスのロビン・クロムウェルと申します」


 なるべく柔らかく言ったが、彼は緊張しているようだった。


「ナ、ナンシーの父親のジョン・トレギアです。うちのナンシーがお世話様でございます」

「ナンシーはとても優しい子ですね。どんな知識を得ることよりも心根の美しさは財産ですから。ナンシーと触れあっていると、私の方が学ばせてもらっているような気分になります」


 ナンシーはきょとんとしていたが、娘を褒められたジョンは照れていた。髭に覆われた顔は野性的だが、目が優しい。ナンシーと同じ目だ。


「うちのにも先生がそう言ってくだすったって伝えておきます。ちょっとばかし心配してまして」

「ええ、それはそうでしょうね。ナンシーはよい生徒ですとお伝えください」


 正直に言って、ロンドンから来たガヴァネスのために教える子供を探すような状況は、あまり一般的とは言えないだろう。当の私ですら意味がわからない。親切なフレデリック様が自尊心を失った私を立ち直らせるために選んだ方法なのだとしても。


 荷馬車に乗った父子を私はしばらく見送っていた。ナンシーは、また明日! と大声で言いながらいつまでも手を振ってくれた。

 それが信じられないくらいに嬉しくて、私もいつまでも馬車が見えなくなるまで外にいたのだ。


 ナンシーたちが行ってしまうと、風がサッと吹いて私のほつれた髪をなびかせる。そろそろ部屋へ戻ろうと考えたが、またキッチンを抜けていくのは気が引けた。


 外から回り込んで、正面から戻ろう。その方がいい。

 私はそうと決めると歩み出す。ただし、通ったことのない道だから、また誰に出くわすかもわからない。

 邪魔になって嫌な顔をされないだろうかと、少し不安にもなる。


 垣根に沿って回り込む。緑の植木が見えた。

 広大な庭園の一部で、キッチンが近いからこちら側は菜園かもしれない。ここで採れた野菜を私もすでに食べているのだろう。


 作業する庭丁たちを遠くから眺めていると、そんな私に気づいた男性が頭を下げてくれた。

 あまりじっと見つめていては彼らの気が散る。私は立ち止まらずに進んだ。


 大勢の庭丁が働く庭園は、まだ夏の名残を留めていて十分に色濃い緑をしていた。あれに黄や朱が混ざり、次第に茶色へと移ろいで行くのだ。

 その頃には悠長に散歩していられないほど寒いのかもしれない。このヨークシャーの秋冬はやはり厳しいものだろうから。


 ――ただ、ぼんやりと空を見上げて思うのだ。

 曇り空ではあるけれど、ここはロンドンのように塵が舞っておらず、空気が澄んでいる。スモッグで先が見えないようなことはなかった。どこまでも見通せるほど、世界が清い。


 フレデリック様が言うように、この大地は私にとって療養所サナトリウム以上に適した場所になるだろうか。


 大きく息を吸い込んでみる。土や草を刈りこんだ青い匂いがするだけで、それらは不快なものではなかった。

 肺腑に外気が行き渡ると、薬のように内側から滋養になるような気がした。そう思えるのは、フレデリック様の言葉をブレア夫人を通して聞いたからではあるのだろう。


 フレデリック様と顔を合わせたら、まず何を言おう。

 その時に備えて、暇さえあれば考えている。


 ただし、上手く言葉がまとめられない。

 感謝を告げたいのはもちろんだ。それでも、媚びているようには受け止められたくない。かといって、ありきたりな科白せりふだけで片づけてしまうのも違う気がする。


 誰にも顧みられることのない存在であった私を、一人の人間として尊重してくれた。その感謝をどうすれば伝えられるだろうか。


 まぶたを閉じ、深呼吸を繰り返す。心が落ち着きを取り戻していくまで、私は目を閉じて佇んでいた。


「ロビン?」


 だから、フレデリック様が近くまで来ていたことに気づかなかったのだ。呼びかけられて、私が取り戻しかけた平静はまたどこかに行ってしまった。

 ビクッと肩を震わせ、振り向きざまにその名が口を突いて出た。


「フレデリック様っ?」


 そう呼んでほしいと言われ、そんなことはできないと私は言いきった。

 そのくせ、とっさに気安く呼んでしまったのだ。そんな自分に驚き、悔いたが、フレデリック様はというと――。


 私以上に驚いていた。

 当人もまた、私がそんなふうに呼ぶことはないと思っていたのだろう。


 名前を呼んでほしいと言ったのは本心ではなかったのだろうかと不安に思ってしまうほど、フレデリック様は目を瞬かせ、フッと顔を背けた。白手袋をした手で口を押さえ、ぽつりと零す。


「すまない、心構えがなくて」


 顔は半分以上見えないけれど、私が目を疑うほどに耳の辺りが赤い。

 いつも落ち着いて見えたけれど、本当は照れ屋で人見知りな部分もあって、身構えていないとそれが出てしまうのだとしたら意外だ。


 親近感が湧くと言っては失礼かもしれないが、私の方も釣られて照れつつも気持ちが和らいだ。

 不快でないのなら、今後も他に誰もいなければ面と向かって名前を呼びかけてもいいだろうか。


 フレデリック様は軽く息をつき、それからやっと私と向き合った。


「外を散歩する気分になったのなら何よりだ。部屋の中ばかりでは勿体ないから」


 夜会などでは前もって身構えて、いつもの紳士然とした様子でいるのだろう。

 それはとは違う、自然体のフレデリック様はどこかはにかんだ微笑を浮かべていた。それが隙のない整った容姿をほんの少し幼く見せる。


「ええ。風は清らかで、自然が目に優しく感じます」


 フレデリック様に会ったら、ナンシーのことも含め、まず礼を言いたかったのだ。

 けれど、フレデリック様はこの時、自分自身が褒められたかのように嬉しそうな顔をした。


「ああ。ヨークシャーは素晴らしいところだから。ロビンがそう感じてくれたのならよかった」


 この容姿で人当たりよく微笑んでいれば、誰からも疎まれることはない。そんな人が私の孤独に気づいてくれたのだから不思議だ。


「あの、ナンシーのことですが、私のところに通うのを楽しいと言ってくれました。私はそれがとても嬉しくて、誰かを教えるのにこんな気持ちになったのは初めてです。ナンシーと引き合わせてくださって、ありがとうございます」


 やっと礼がひとつ言えた。それだけでもほっとした。

 私が手を握り締めながら話す間、フレデリック様は言葉を差し挟まずに聞いてくれていた。とても真剣に耳を傾けてくれているのがわかるから、私は余計に緊張してしまったのだが。


 フレデリック様は静かにうなずいた。


「あなたの心が動いたのなら、それは何よりだ」


 真摯な言葉だった。

 本物の紳士というのは、ガヴァネスであろうと女性を無条件に尊重してくれるものなのだろう。私は感嘆すると共に、あの時出会ったのが私でなかったとしても、フレデリック様はやはり親切だったのだろうと痛感した。

 あそこで躓いたことが、私にとっての幸運であったのだ。


 私の心が動いたのだとしたら、それはナンシーのおかげであり、そればかりでもない。あなたのおかげでもありますと、正直に言えたらいいけれど、それは今の私には難しかった。

 言いたい言葉を呑み込み、新しい何かを探し、私はなんとなく庭園を眺めた。


 そこでふと、私はナンシーとの会話を思い出した。


「……ここではどんな花が咲きますか?」


 ナンシーは、自分がまだ見ぬロンドンではどんな花が咲くものなのかと興味を持った。私はその問いかけにおざなりに答えたのだ。薔薇くらいならどこにだって咲いていると思った。


 けれど、本当にロンドンで薔薇が咲いていたかどうか、今となっては思い出せない。

 私が見た薔薇は切り花ではなかったか。本当に、ロンドンには薔薇が咲いていたのか――。


 今になって私は、いかに自分が周囲のことに無関心であったのかを知った。

 目に映るものは通り過ぎただけだ。頑なだった私の心には何も響かなかった。


 子供を教え、導くはずの教師として、これは恥ずべきことではないだろうか。私は無知だ。

 フレデリック様は唐突ですらあっただろう私の問いかけに、目を細めて柔らかく答えてくれた。


「四季折々、数多の花が咲くけれど。特に春夏のムーアには筆舌に尽くしがたいというのはこのことかというくらいの絶景が見られる。そうだな、秋は紅葉の季節だから花は少ないけれど、向こう側に蔓薔薇クライミング・ローズが咲いているよ。薔薇は年に二度咲くから」

「蔓薔薇ですか。後で見に行ってもよろしいでしょうか?」


 どんなものでもいい。ロンドンで触れなかったものに触れてみよう。

 フレデリック様は私が何かに興味を持ったことを、どこか嬉しそうにしてくれた。


「ああ。でも、美しいのは花だけじゃない。木々の紅葉は見事だし、秋は花が終わって実を結ぶ――収穫を迎える豊穣の季節だ。花は、春になったら数えきれないほど咲くから、自分の目で確かめてみるといい」


 書物によって得られない知識がここにはあるのだ。


「ここには、ロンドンにないものがたくさんあるのですね」


 ヨークシャーを訪れた時、何もないところだと私は感じた。見渡す限り同じ風景が続いていて退屈だと。


 あの時は、私の虚ろな目には何も捉えられなかったのだ。見ようとしてこなかったものを、これからは見てみよう。自分の世界を狭めるのも広げるのも自分次第なのだから。


「あなたがそう感じてくれるようになるといいなと思ったんだ」


 何もないと言った私に、フレデリック様がひどく驚いていたのを覚えている。思い起こすと恥ずかしいくらいだ。


「自分を取り巻く環境が急激に変わって、それを楽しめるほどのゆとりはなかったのです」

「そうだろうね。けれど、こうして外へ出て散歩をしようと思い始めたのはいい変化だ」


 少し前までは部屋からほとんど出なかった。出ていくのがやはり恐ろしかったのだ。

 マクラウド邸でも屋敷の中を歩き回るのは躊躇われた。どこへ行っても嫌な顔をされたから、その記憶がまだ残っている。


「今は、いかに私の世界が狭かったのかを実感しています。これからは、学び取れることを精一杯学ばせて頂きます」


 ナンシーは来年から村の学校に通うのだから、私がここにいるのは約一年間になるだろう。

 そのうちに貯蓄を増やし、次の職を探すだけの生活費とする。ここでは買い物をすることもなく、無駄遣いとは無縁だから貯められるだろう。


 フレデリック様は私のことをじっと見て、そして気づかわしげにうなずいた。

 心のうちで彼が何を思っているのかは知らない。それらは私には推し量れないものだから。

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