第14話「陰口」

 私はフレデリック様と別れ、屋敷の中に戻った。


 ホールから階段を上っていくと、クスクスと若い娘の笑い声が聞こえてくる。メイドたちが仕事の合間に手を止めて話に花を咲かせていた。


 喋りたい年頃だ。ただ、手元が疎かになっているのは頂けない。仕事は仕事なのだから。

 この先も度重なるようならブレア夫人にそっと報告した方がいいだろうか。


 メイドたちは階段を上がってきた私に気づいたが、話をやめる気はないようだ。私にはなんの権限もないとわかっていての態度である。


 ――この日は何も深くは考えなかった。けれど、その翌日。




 フレデリック様は出かけていた。領地を管理するに当たり、あちこち出かけなくてはならないことも多いそうだ。それでも、メイドのエミリーいわく、フレデリック様は独身の上流階級の男性としては長く屋敷にいる方らしい。


「旦那様はあまり派手な人付き合いを好みません。本来、この季節なら狩猟が盛んですが、旦那様は狩猟がお嫌いです。〈狐狩り〉フォックス・ハンティングですらもってのほかだと仰って、領地では絶対にお許しになりません」


 上流階級の男性は、大体が狩猟をする。銃で獲物を撃ち、成果を競い合うのだ。


 しかし、狐狩りは奇妙なもので、狐は食べるために狩られるのではない。巣穴を塞ぎ、猟犬を使って追い詰めるだけだ。最後には猟犬が狐を噛み殺してしまうという残忍な遊びを紳士たちが行うのは知っているが、私としても聞くだけでゾッとする。


 義兄も季節になると参加しているらしく、めったに家に寄りつかない私がクリスマスに帰る時でさえその武勇を語りたがるが、耳を塞ぎたいばかりだった。フレデリック様が狩りを嫌うと聞いて、むしろほっとした。


「獣だって生きているのだから、玩具のように扱うべきではないと思うわ」

「女性は血を見たがりませんが、男性では珍しいでしょう。旦那様が嫌がられるので、この屋敷では狩猟肉ゲームが食卓に上ることはほぼありません。前に鳩をお出ししたらひと口もお召し上がりにならなかったそうです」


 そう言われてみると、食事に肉は出るが、牛、豚、鶏といった家畜の肉がほとんどだ。雉、鳩、雷鳥、兎などはほぼ出ない。

 どうもフレデリック様は徹底しているらしい。


「お優しい方だから、銃で撃つという行為が受け入れがたいのでしょうね」


 私がなんとなくつぶやくと、エミリーは真顔からほんの少し口元をピクリと動かした。


 エミリーは、訊ねたことに対してはちゃんと答えてくれるが、愛想がいいとは言えない。ほとんど表情がなく、考えも読み取りづらかった。


 それが悪いというのではない。真面目なしっかりした娘だと思う。

 昨日のメイドたちのように仕事中に声を立てて笑っていたりはしないのだろう。


 そのうち、エミリーと打ち解けた話ができる日が来るのか、平行線なのかはわからない。ガヴァネスとメイドの関係など、こんなものだろうと言ってしまえばそれまでである。




 そうして、ナンシーが来ていつも通り勉強を始めた。自分の名前は間違えずに書けるようになった。

 いくつかの単語を並べ、ゆっくりと進めていく。成果を急いでも身につかなければ意味がないから。

 心地よい時間が流れていく。


 学ぶ意欲のない生徒に無理強いをし、どんなことをしてでも詰め込まねばならないと考えるのは教える側としても苦しいのだ。

 幸い、ナンシーは覚えがよくないとしても意欲はある。何度でも飽きずに続けてくれる。それが私は嬉しかった。


「先生、ありがとうございました! じゃあまた明日!」


 この笑顔だけで報われる。別れる時も明日が待ち遠しくなるほどだ。


「はい、また明日ね。待っているわ」


 階段の踊り場まで行ってナンシーを見送った。またキッチンまで行くと邪魔だろうから。

 そこでふと、私は庭の蔓薔薇を見に行こうと考えた。この屋敷の庭園なら、きっと立派なものだろう。

 階段をそっと、音を立てずに下りていくと、下に行くにつれて話し声がした。また昨日のメイドたちだ。


「――絶対そうよ。でも、そんなこと不可能なのにね」

「そりゃあそうでしょ。だって、貴族令嬢どころかガヴァネスよ?」


 ガヴァネスと聞こえた。それなら話題は私のことらしい。

 私は階段を下りながら、さらに背筋を伸ばした。こんなことはよくあるのだから、うつむいていてはいけない。


「でも、あのガヴァネスはイングリス准男爵夫人の座を狙っているわ。旦那様といる時の顔を見ればわかるんだから」


 やだぁ、と声を上げ、二人して笑い合っている。

 当の本人がそこで聞いていると知ったら、二人はどうするだろう。

 どうもしないかもしれない。ガヴァネスを敬ってくれる使用人など僅かだ。馬鹿にしたところで誰にも咎められない。


 私は、はぁ、とため息をついた。

 ここでもまた、そういう目で見られるのだ。これは私が悪いのだろうか。


 誓って言うが、フレデリック様のような男性の妻になりたいと考えたことはない。人にはそれぞれ見合った分があるのだから、自分に見合わない伴侶を持った後に破綻するのは目に見えている。つり合いなどまったく取れていないことくらいわかっているのに。

 疚しくないのだから、堂々としていよう。


 ――マクラウド邸ではそれができなかった。けれど、今は違う。何も疚しくはない。

 私が階段を下りきる前に、お喋りなメイドたちには叱責が飛んだ。運悪くブレア夫人が通りかかったのだ。ため息をついた音が聞こえた。


「あなた方、使用人には品格が必要でないと考えているのかしら? もしそうでしたら、それはひどい誤りですよ」


 激昂するよりも、静かで射抜くような声に背筋が凍る。通りかかりの私でさえそうなのだから、当事者たちは震えていることだろう。階段を下りきってみると、エミリーと同じくらいの年頃のメイドが二人、本当に震えていた。


「も、申し訳ございません、ミセス・ブレア」


 二人は青ざめて謝ったが、ブレア夫人はスカートの裾の先まできちんと隙なく整えた姿で立っており、まるで弁明など聞く耳も持たないようだった。凍てつく冬そのもののような印象すら受けた。


「このような陰口を旦那様もお許しにはならないでしょう。屋敷に相応しくない者を雇い続けるわけには参りません。荷物をおまとめなさい」


 ブレア夫人とはあれからもよくティータイムをして話を聞いてもらっていた。厳しそうではあったけれど、実際はあたたかな人だと考えていた。けれどそれは、私がその対応に見合った教養を示せたからであって、無作法は我慢ならない性質なのかもしれない。


「こんなことは二度としません! 家族に仕送りをしないといけないのです。どうか、お許しください……っ」


 声を震わせて、一人のメイドが頭を下げた。もう一人は驚いて口も利けないありさまだったが、同様に頭を下げる。急に暇を出される心配などしたことがなかったのだろう。


 周囲がざわつき始めた。執事のタウンゼントさんが何事かと寄ってきて、それによってブレア夫人は近くに立っている私に目を向けた。私に対してはフッと目元を和らげる。


「ああ、あなたは何も気にせずともよろしいのです。これはこちらの問題ですから」


 メイドの教育は家政婦の務めである。私が口を挟むことではない。

 大体、私は侮辱されたのだ。淑女であるという自負があるのなら、侮辱には毅然として立ち向かわなくてはならない。名誉を傷つけられたと思うのなら――。


「あの、この二人と少しお話をさせて頂きたいのですが」


 私が表情らしきものを浮かべないまま告げると、ブレア夫人はどこか心配そうな目をした。私のことを気遣ってくれているのだろうか。

 それでも、ブレア夫人は私の希望を尊重してくれた。私が何も言い返さずに終わるのでは気が済まないと考えたのかもしれない。


「ええ、わかりました。それが済み次第、私のところへ寄越してくださいね」

「はい。……では、二人ともこちらへ来てください」


 落ち着いて話せる場所は私の部屋しかなかった。借りている客室は立派すぎて、未だにここを自分の部屋だとは言えないのだが。


 中に入り、私はソファーに腰を下ろした。二人のメイドはもちろん続けて座ることはなく入り口に立ったままでいた。居心地が悪そうにしている。


 よく見ると、二人の態度はまるで違った。茶色の髪をした垂れ目の娘は青ざめたままだが、もう一人の黒髪の娘は私に気丈な目を向けていた。挑むような目をしたこの娘の方が家族に仕送りをしなくてはならないのではなかったか。

 私は小さく息をつくと切り出した。


「私がイングリス様といる時にどのような表情をしているのか、詳細に教えて頂けるかしら?」


 この切り出しに、メイドたちは二人してきょとんとした。

 皮肉ではない。本当に、どんな顔をしてあの紳士のそばにいて、傍目にそれがどう見えるのかを知りたいのだ。


「当然ながら、雇い主であるイングリス様には恩義を感じているわ。けれどそれは、神様や女王陛下に対する感謝と同じものよ。私自身はそのつもりだったのだけれど、傍目にはそう見えないのね。私は一体どう見えているの?」


 マクラウド邸でも物欲しそうだと言われた。私が親切な男性に向ける目には、感謝以上のものが浮かんでしまっているのだ。

 今回はそんなつもりはなかった。フレデリック様には給金以上のものを期待するつもりはない。それなのに、今度もまた同じようなことを言われるのだ。


 違うと言葉で否定しても信じてもらえないだろう。何かを改めなくてはならないのだ。それなら、そこを正しく知りたい。


 もちろん、侮辱されたのはいい気がしないけれど、そう見えた私にも何か非があるのだろう。一方的に怒りをぶつけたのでは何もわからないままだ。


 皮肉でもなく、真剣に私は自分の何がいけなかったのかを知ろうとした。そうしたら、黒髪のメイドは相変わらず黙ったままだが、瞬かせている黒い目からは幾分険が取れたように思う。

 ボソボソ、と消え入りそうな声がした。


「……遠くて、よく見えませんでした」

「えっ?」


 私が首をかしげると、彼女はまた強い目を私に向けた。


「旦那様と一緒に歩いているところは見ましたけれど、顔が見えるほどの距離じゃなかったんです」


 怒ったように言われた。

 かと思えば、その手は離れた私からでもはっきりとわかるほどに握り締められている。


「だって、旦那様みたいな男性に親切にされたら、誰だって嬉しいでしょうっ? 結婚できたらいいなって思わない女性がいるはずないじゃないですか!」


 だから、よく知らないけれど、あのガヴァネスもそうだろうということである。


「マ、マージョリー!」


 黒髪のメイドはマージョリーというらしい。もう一人のメイドが袖口を引っ張って止めようとするが、マージョリーは私を睨んだままだった。


 私はというと、怒るつもりはなかった。なんだ、そんなことかとほっとしていた。

 それが態度には現れていたかもしれない。


「そうね。この世の中の誰か一人だけがその幸運に預かれるのでしょうけれど、それが私だとは到底思えないわ。私には夢を見ている時間はないのよ。ここにいるのも、きっと一年程度になるから、その先のことをちゃんと考えておかないといけないし」


 面白みのない答えを返した私を、二人はまたしても不思議そうに見遣った。今の私には微笑み返すほどのゆとりがあったらしい。


「わかったわ。ありがとう。――さあ、ブレア夫人のところへ行きましょう」


 これを言って私が立ち上がると、二人は肩を跳ね上げた。

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