第12話「自尊心」

 求職中の私を雇い入れてくれたマクラウド氏は、ワインの卸売りで財を成した実業家だった。

 すらりと背が高く、申し分のない紳士だ。その奥方は儚げで、本当に雪のように溶けてしまいそうな美人。体が弱く、ほとんどをベッドの上で過ごしていた。


 マクラウド氏の二人の娘は人形のように愛らしかった。上の娘はルース、下の娘はフリーダ。

 最初は聞き分けがよく、私の手を煩わせるようなこともなく、従順な生徒だった。それが反転したのは、一年ほど経ってからだ。


 幼いこともあり、妹のフリーダはそれほどでもなかったのだが、姉のルースが事あるごとに反抗的になっていった。


「先生って、どうしてうちに来たのかしら?」

「新聞に求職の広告を出したら、旦那様が目を留めてくださったからよ」


 ふぅん、とルースは青い目を眇めた。




「ミス・クロムウェル、私の天使たちはいい子にしていますか?」


 マクラウド氏は忙しい身ではあっても、顔を合わせるごとにちゃんと私の目を見て挨拶してくれた。身だしなみも隙なく整え、紳士然とした振る舞いのマクラウド氏は私から見ても立派だった。


「ええ、教えがいのある賢い子たちですわ」


 こういうことを言って喜ばせてあげるのも職務のうちかと思っていた。忙しいマクラウド氏の心配事は少ない方がいい。ただでさえ奥方が寝込んでいて心労が多いのだから。


「そう言って頂けると安心します。どうかよろしくお願いします」


 ガヴァネスに敬意を払ってくれる雇い主というのは本当に少ないと聞く。よい人に雇ってもらえて幸せだと思った。




 ――夜な夜な、ゴホゴホと咳き込む音がする。

 マクラウド夫人だ。詳しいことは聞いていないが、病状は思わしくないのだろうか。


 儚い風情の人だけれど、時折ヒステリックな叫び声が響いた。体が弱っているから、心も弱っている。当たり散らしたくなっても仕方がないのだろう。


 けれど、あの優しいマクラウド氏が鬱憤をぶつけられるのは気の毒だった。



 

「先生って、どうしていつもそんなに物欲しそうなの?」


 ある日、ルースに言われた。

 呼吸が止まるほど驚いて何も言い返せなかった。


 ルースは、そんな私を蔑むような目をした。七歳の女の子は、大人が思うほど子供ではないのか。

 それからというもの、ルースは私を散々馬鹿にし、一切従わなくなった。姉の様子を受け、妹のフリーダも尻馬に乗る。


 ただし、マクラウド氏の前では相変わらず天使だった。父にべったりと甘えながら、私に冷たい視線を送る。

 お前は他人だと。家族ではないと吐き捨てるような目だ。


 そして、極めつけに――。




「あなたが毎日腕をつねるのだと、ルースが泣きながら私に訴えるのです。体罰を許した覚えはありませんよ」


 ベッドの上で上半身だけを起こした夫人が、精一杯の威厳を保って私を叱る。


 もちろん、体罰など与えていない。ルースの狂言だが、寝たきりの夫人は子供たちに甘い。何もしてやれない罪悪感を優しさで埋めているのかもしれないが、それが正解なのかは私には判断できなかった。


 そんなことはしていないと言えば、娘を嘘つき呼ばわりするのかと返されるのがわかっていた。認めれば、幼気な子供にひどい暴力だと非難される。私はどうしていいのかわからず、ただ悲しげに立っていた。

 その表情から何かを読み取ってくれるはずもなく、夫人は乾いた唇を噛んでから続けた。


「私は潔白ですと旦那様に訴えようというの? あの人がガヴァネスなどの味方をすると思うのなら、それはとんでもない思い上がりですよ」


 夫人は最初に会った時よりも幾分痩せた。目だけが大きくギラギラと光を放つが、その光は不穏で、ナイフの刃が翻った時に見せるような光だった。敵を前に命を燃やしてでも抗おうとする。


「いえ、私は……」


 敵ではない。そんなふうに目のかたきにされるようなことは何もないはずなのに。

 痩せて血管の浮いた手が、シーツを力いっぱい握り締める。


「あなた、私が早く死ねばいいと思っているのでしょう?」

「そ、そんなことは……」


 ない、と言いきってしまえるだろうか。一度くらいは願ったことがあったかもしれない。

 だとしても、そんなものは本気ではない。ないけれど、それがきっとことの発端だった。


「私が死ねば、あの人の後妻に収まれると思っているのでしょう? でも、お生憎ね。娘たちはあなたが大嫌いだそうよ。あの人は娘たちを溺愛しているから、娘たちが嫌がることはしないわ。大体、財産もない惨めな〈余った女〉なんて、結婚できると思うだけで図々しいのよ」


 次々と溢れ出る毒は、夫人の腹の中で十分に熟成されていた。ベッドに伏して天井を見つめながら、夫人はずっと自分が死んだ後のことを想像していたのだろう。


「この家を去りなさい。あの人にも、娘たちにも、あなたは不要よ」


 わかりました、と。それ以外に何が言えただろうか。


「――お世話になりました。皆様、どうぞお健やかに」


 今、解雇されても行く当てなどないくせに、惨めに縋りつくことはできなかった。飢えて死ぬよりもそれが嫌だと思えたのだ。


 狂気一歩手前の奥方と、父親を奪われると敵愾心を見せる子供が恐ろしかった。

 先のことよりも、ただ単にあの家から逃げ出したかった。何も考えたくなかった。


 私は平凡で弱い人間だ。

 だからこそ、マクラウド邸の人々と良好な関係を築くことができなかった――。



     ◇



 語り終えると、私は深く息をついていた。

 体の奥底に溜まっていた薄暗い感情をすべて吐き出すようにして。

 けれど、これだけではない。最後にまだ言わなくてはならないことがある。


「私は母と再婚した家族ともいい関係が築けませんでした。財産もなく、特別な才能も持ち合わせず、将来には不安しかありません。自分だけでどうにか生きていかなくてはならないと思いつつも、マクラウド家に憧れました。紳士な旦那様と可愛い子供、理想的な家だと思えたのです。こんな暮らしができたらいいのにと。夫人も子供たちも、私が隠し持っていた願望に気づいたのでしょう」


 何もマクラウド氏に秋波を送ったりしたことはない。ただ少しの憧れを持っただけだ。

 それでも、女の勘は鋭い。夫人ばかりか子供たちまで私を見る目が変わった。

 自分が蒔いた種かと思うと、虐げられても誰を責めるわけにも行かず、結局自分自身を責め続けた。不相応な憧れが身を滅ぼしただけだと。


 こんな身の上で、まだ誰かに頼りたいと考える弱さは命取りになる。それなのに、どんどん自分に自信が持てなくなった。自分が厭わしかった。


 役立たずで物欲しそうな顔をした女。それがロビン・クロムウェルなのだと。

 あの家で過ごして、悲しいけれどそれが身に染みてわかったのだ。


 ブレア夫人も呆れただろうかと、恐る恐る目を向けた。けれど、ブレア夫人は静かに紅茶を飲み、顔を微かに傾けただけだった。


「か弱い女性が庇護を求めるのは当然のことでしょう。そうなんでも自分で解決できるものではありませんよ。とりあえず、済んだことは忘れておしまいなさい」


 微笑むでもなく、叱るのでもなく、ブレア夫人は淡々と言った。

 忘れてしまえというのは多分、至言だ。わかっていても難しいけれど。


 ブレア夫人はスコーンを横に割り、クロテッドクリームとジャムを塗ってくれた。


「美味しい……」


 ほっと息をつきながらスコーンを味わっていると、ブレア夫人は微かに口の端を上げた。


「旦那様があなたをここへ連れてこられた時――」

「えっ?」


 ギクリと体が強張った。美味しいスコーンで喉を詰まらせそうになる。

 それでも、私がとても知りたいことだ。ブレア夫人は教えてくれた。


「あなたが自尊心を失って見えたと仰いました」


 自尊心など、粉々に砕けて飛び散ってしまった。

 フレデリック様はあれだけのやり取りで察してくれたのか。


 だからといって、教えてほしい子供もいないのに、見ず知らずの私を雇う気になったのは普通ではないと思うけれど。


 そこでブレア夫人はフフ、と声を立てて笑った。思わず笑ってしまうくらい、私が間抜けな顔をしていたのかもしれない。


「けれど、あなたを立ち直らせるのは容易ではないとわかっていたから、このヨークシャーに連れてくることにしたのだそうです」

「ああ、ここにはブレア夫人がいらっしゃいますもの。イングリス様はブレア夫人をとても信頼されていらっしゃるのですね」


 厳しいようでいて、ブレア夫人はとても公平な人だと思う。だからこそ、私は打ち明け話をする気になれたのだ。

 しかし、それは少し違うらしい。


「いいえ、旦那様はこのヨークシャーの大地に助けてもらうことにしたのだそうです」

「ヨークシャーの大地?」

「ここは自然の豊かな恵みの多い土地です。もちろん冬の厳しさはありますが、それを差し引いても素晴らしいところです。少なくとも旦那様はそう考えておいでなので、ここで過ごせばあなたの心も随分安らぐだろうと」


 私はこれまで、そんな考え方をしてみたことは一度もなかった。

 自然が心を癒す。そんなものなのだろうか。


 わからないながらに、他人の私を気遣ってくれたフレデリック様に今まで以上の感謝をしようと思えた。

 この大地がフレデリック様の言うような効果を持つのか、目を見開き、耳を澄ませてそれを感じてみよう――。


     【◆1 ―了―】

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