第11話「涙、のち」
結局のところ、領民のことだからなのか、フレデリック様の方が私よりもナンシーのことをよくわかっていた。
来なかったのは昨日だけ。
その夜が明けると、ナンシーは勢いよくやってきたのだ。
「せんせぇっ! ごめんなさいっ!」
おはようございますという挨拶も忘れて、ナンシーはノックもせずに私のところへ飛び込んできた。
わんわん、わんわん泣きじゃくりながら。
「ナ、ナンシー、その顔――」
右目の周りが真っ黒な痣になっていた。黒くなった目から涙をポロポロと零している。目を擦りそうになったから、私はナンシーの手を握った。そうしたら、ナンシーは顔をさらに歪めて泣いた。
「おとーとを、おんぶして、こけて。でも、行くって、先生のところに行くって、言ったのに、だめって。来れなくて、ごめん、なさいっ」
弟を背負って、とっさに手を突いて顔を庇うこともできなかったのだろう。頭を打っていたのなら、親だって心配して寝ていなさいと言ったかもしれない。
「いいのよ。ひどい怪我だもの、来れなくて当然だわ。そんなに謝らないで」
一日休んだくらいでナンシーはこんなに泣いてしまうのだ。
どうしてだろう。怪我が本当なのだから、堂々と休めばいいのに。
そう考えて、ふと、無理をしてでも行かなくてはならないと思わせたのは私なのではないかという気になった。
私はナンシーが来なかったことで仮病だろうと決めつけた。ナンシーを少しも信じていなかったのだ。きっとナンシーはそれをわかっていた。
心がチクチクと痛み出す。
ナンシーは泣きながら、顔をぐしゃぐしゃにして言った。
「先生が、真剣に、教えてくれる、のに、あたし、ばかだから、全然できてない、し、ちゃんと、しなくちゃって、思って……でも、家のインクは、あんまり使っちゃだめって。だから、地面に、いっぱい書いて、練習した、の。でも、地面、持ってこれない、しっ」
嗚咽を堪えながら話すから、とても聞き取りにくい。けれど、言いたいことは十分に伝わった。
ナンシーは、私が苛々していたのは覚えの悪い自分のせいだと思ったのだ。だから、地面に書き取りをして覚えようとしていた。
紙もインクも無駄遣いはできない切り詰めた暮らしの中、ナンシーにできることはそれくらいだったのだろう。
顔に痣を作ったナンシーが、枝で地面に文字を書き続けている姿を思い浮かべ、チクチクと痛んでいた私の胸から血が流れるような感覚がした。
この子はこれまでに勉強したことなどなく、何もできないのは当然のことだ。私が苛々していたのは、どうせこの子に教えたところでできないと見下していたからに過ぎない。
労働階級の子供に教えても、立て板に水をかけ続けているようなもので、とても無駄なことをさせられているという思いが私の苛立ちに繋がっていた。
けれど、裕福な家庭の子供たちがこれまで私にどんな態度を取ってきていたか、それを身に染みて知っているのは私自身だ。私が真剣に教えてくれているなどとは誰も言わなかった。
こんなに純粋に慕ってもらえたことが今までにあっただろうか。
ナンシーはいつだって笑顔で私のそばに座っていたのに、それに応える私が微笑んだことはあっただろうか。
ナンシーの涙が、ポタリと私の手に落ちる。
それはナンシーの涙ではなかった。私も泣いていた。
マクラウド邸で、子供たちは私の言うことなど聞かなかった。敬うどころか、虐げて楽しむだけの存在でしかなかった。
ガヴァネスは、子供にすら馬鹿にされる。孤立無援で、誰の助けも期待できない弱者だ。
そんな中にぽつりといると、徐々に人を信じることができなくなる。誰も彼も敵だと、心のどこかで思っていた。
勝手に疑い、そしてナンシーのことも傷つけてしまった。この無垢な子供を。
ごめんなさい、と謝ろうとしたけれど、その代わりに私はナンシーを抱き締め、背中をトントンと叩きながらやっとの思いで言った。
「ありがとう、ナンシー。すごく嬉しいわ」
ありがとう。
曇った目を晴らしてくれて。
子供に身分も育ちも関わりない。ナンシーはこんなにも心優しい子供だ。誰に劣ることもない。
こんなに素晴らしい生徒を持った私が泣き言を言うのは違う。
私もまた、この子に相応しい教師にならなくてはいけないのだ。
しばらく二人で泣いて、気が済んだら顔を見合わせて笑った。こんな清々しい気持ちになったのは久しぶりだった。
「今日はお勉強できなかったけど……」
ほとんど机に向かわずに終わってしまったから、ナンシーが気まずそうだ。
けれど、そんな日があってもいいような気がした。肩の力を抜いて、ゆっくりと歩み出す、そんな日が人には必要だ。
「そうね。でも、たまにはいいでしょう」
にこりと微笑むと、ナンシーも嬉しそうに笑った。
「うん!」
迎えが来た時、私はナンシーの目元の痣に、痕も残らず綺麗に早く治りますように、と祈りを込めてキスをした。
大きく手を振って元気に帰っていったナンシーを見送った後、私の部屋を訪ったのはブレア夫人だった。
例によってお手製の美味しいジャムを持参して、二人でティータイムだ。
私は泣いていたことを気づかれたくなかったが、ブレア夫人のような人に隠せるはずもなかった。ただ、口に出してそれを指摘するのではなく、含みのある視線と微笑とをたたえながらうなずいていた。
「随分すっきりしたいい顔をしていますね」
この泣き腫らした目を見て言うのだから、なんでもお見通しらしい。私は苦笑してしまった。
「ええ。あの子の無垢な魂に触れて、いかに私が愚かだったかを知って反省しました」
正直に言うと、ブレア夫人はクスリと声を立てた。
「それは良いことですね」
紅茶の香しい匂いが、いつもよりも強く感じ取れた。泣いたからお腹が空いたのかもしれない。
コクリと紅茶を飲むと、あたたかさが優しく体に染みていく。まるで薬のように気分が落ち着いた。
だからか、気づけば私は口を開いていた。
「――私、ここへ来る前にいたお屋敷の子供たちと上手く行っていなかったんです」
ブレア夫人は合いの手も入れず、静かに聞いていた。それが語ってもいいという合図に思えた。だから、続ける。
私は語りながら、それほど昔ではない出来事を思い起こす――。
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