第10話「駒鳥」
転んでしまって怪我をしたから、当分休ませるというのがナンシーの父親の言い分だった。
本当は、泣きじゃくって行きたくないとナンシーが言ったのだろう。
面白くもない勉強、苛々した先生。
仮に私が生徒だとしても楽しくはなかっただろう。
けれど、嘘はついてほしくない。嫌なら嫌だと言えばいい。
一人で苛々して疲れた私は、部屋からほとんど出なかった。何か用はないかと顔を出してくれたエミリーにも素っ気ない態度しか取らなかった。どこへ行っても私は駄目だ。そんなふうにしか考えられなかった。
そんな時、イングリス氏が帰ってきた。私も出迎えに行かないわけにもいかず、外へ出た。
使用人たちに紛れ、頭を下げていると、使用人たちは仕事に戻り始めた。私はそこに取り残されたようで、イングリス氏はそんな私の前に立った。ふわりと香水の匂いがする。
「ミス・クロムウェル、生徒の様子はどうだろう?」
にこやかに、目を輝かせて訊ねてくるけれど、それに対する私の返答は暗いものだった。
「……今日は来ていません」
目を瞬かせるイングリス氏から私は顔を背けた。
「来ていない?」
「ええ、転んで怪我をしたそうです」
「ああ、そうか。それは仕方がないね。早く来てくれるといいけれど」
イングリス氏はその口実をそのまま信じたらしい。
フィンリーが従僕たちに荷物を運ばせている間に、私たちはそんなやり取りをしていた。イングリス氏はそろそろ屋敷の中に戻るだろうと私が待っていても、イングリス氏はなかなか動かなかった。だから、余計なことを言ってしまう。
「……もう来ないかもしれません」
ぼそり、と聞こえるか聞こえないかというほど小さな声だったのに、イングリス氏は耳ざとく拾った。
「来ないって? どうして?」
会話を長引かせるつもりはなかったのに、と悔いても仕方がない。どう説明しようかと考えていると、イングリス氏は私の手を引いた。
「歩きながら話そうか」
「は、はい」
断れるはずもなく、私はイングリス氏と敷地を歩く。
秋口の今、緑はまだ多く残って屋敷を彩っている。袖をまくり上げた
ヨークシャーの日光は、霧の深いロンドンよりも煌めいていた。それでも、乾いた風が吹くと肌寒い。
「それで――」
イングリス氏は私を見ないまま、遠くを見つめていた。金色の髪が光を受けて本当に綺麗だった。成人男性としてでも美しいのだから、子供の頃はまさに天使だっただろう。一人息子で両親の愛情を一身に受けて育ったからこそ、こんなにも優しくいられる。
「どうしてナンシーがもう来ないと思うんだ?」
その問いかけに、私も正面を見据えたまま答える。
「あの子は今まで、窮屈な勉強などしたことがなかったのでしょう。私の教え方は厳しかったですし、あの子には面白くもなかったはずです。いつ行きたくないと言い出しても不思議はありませんでした。せっかく骨を折って頂いたのに、不甲斐なくて申し訳ありません。私はきっと、ガヴァネスには向いていないのでしょう」
淡々とした語り口調になるのは、そうしないと胸が痛むからだ。
私が人を教えるのに向いているとイングリス氏は言ってくれたけれど、それは買い被りであると私が自分で示してしまった。
――先生って、教え方がとっても下手ね。ああ、なんて退屈なんでしょう。
頭の中にこだまする。何度も何度も繰り返された言葉。
誰も好き好んで私の授業など受けたくないのだ。
知っていたけれど。
さあ、これからどうしようか。本当にどうしたらいいのだろうか。
誰か、教えてほしい。
どうやって生きていけばいいのかを――。
この時、イングリス氏が急に立ち止まった。
そうして、木の枝を指さす。
「ああ、駒鳥がいる」
だからなんなのだ。鳥の話をしている場合だろうかと思ったけれど、イングリス氏は優しい目をして駒鳥を見つめた。胸元が赤い小鳥は、無邪気に枝を揺らしている。
「ロビン」
名を呼ばれ、私はギクリとした。イングリス氏は私の方に見向き、にこりと微笑む。
「
この人は、社交場で浮名を流しているのだろう。そうでなければ、こんな笑顔で言わない。
私は冷めた心地で答えた。
「子供の頃、この名前のおかげで私は死体の役ばかりさせられました。自分ではあまり好きではありませんが、あなたは私の雇い主ですから、お好きなようにお呼びください」
マザーグースの〈駒鳥のお葬式〉だ。
――誰が駒鳥を殺したの? それは私と雀が言った。
動物たちが殺された駒鳥の葬儀を行う童謡になぞらえ、子供たちは私を殺された駒鳥に見立てて遊んだ。当の私はちっとも楽しくなかった。
イングリス氏はなんとも言えない硬い表情を浮かべている。死体なんて物騒だっただろうか。
「子供の頃のことはよく覚えている?」
「そうとは言えませんね。小さい頃のことはうろ覚えです。実はヨークシャーに住んでいた時期も少しだけあったはずなのですが、その頃のことはまったく覚えていません」
誰でもそんなものだろう。嫌な思い出の方が色濃く残っているものだ。
この時、イングリス氏はもう一度、改めて私を呼んだ。
「ロビン」
ギクリとするくらい力強い声だった。けれど、イングリス氏の表情は、先ほどの呼びかけほどには優しくなかった。
アイスブルーの瞳が本当に氷のように見えたくらいには厳しかった。
けれど、次の瞬間にはふとその険しさが和らぐ。
「じゃあ、これからあなたのことはロビンと呼ばせてもらうよ。だから、僕のことはフレッドでいい」
「……さすがにそれはできかねます」
「イングリス様という呼ばれ方は苦手なんだ」
「では、旦那様とお呼びしましょうか」
「そんなに僕の名前を呼びたくないのかな?」
どうしてこんな話をしているのだろう。ナンシーのことを話していたはずなのに。
私の当惑をイングリス氏は楽しんでいるのだろうか。
「そうではありませんが、お屋敷の人々は私が分を弁えていないと不快に思うのではありませんか?」
洗礼名で呼び合うような仲になった覚えはない。傍目にそれがどれほど奇妙に映るのかがわからない人ではないはずだが。
すると、イングリス氏はどこか悲しそうに言った。悲しそうに見えるような顔を作っただけだろうけれど。
「無理強いしたいわけじゃない。親しみを持って呼んでもらえたらいいと思っただけなんだ。そのうちに呼んでもいいと思えたらそうしてくれるかい?」
「はい、わかりました」
多分そんな日は来ない。そんなことをしたら厄介事が増えるだけだろう。そう呼びかけるのなら、心の中だけにしておこう。
イングリス氏――フレデリック様は、私の言葉が上辺だけであることを見抜いただろうか。そっとうなずいただけだった。
「それで、ナンシーのことだけれど」
「はい」
新しい教え子を探すとでも言うだろうか。
けれど、誰が来てもきっと一緒だ。私に満足してくれることなどない。
うつむいた私に、フレデリック様は言った。
「きっと来るよ」
「えっ?」
驚いて顔を上げた。けれど、フレデリック様が慰めを言っているようには見えなかった。
まっすぐな目は、真実だけを――真実だと信じることだけを私に伝える。
「転んで怪我をしたというのだろう? だから、怪我が治ればまた来る。あなたはその時に備えていればいい」
「そんなこと……」
私の目が泳いだからか、フレデリック様は再び駒鳥のいた枝を見上げた。駒鳥はいつの間にか飛び立ち、そこにはいなかった。
青い空を見上げた。
曇りではなく、白い雲が浮かぶ、よく晴れた空が広がっている。
鳥たちが行き交い、青空に影を作った。
首が痛くなるほど顔を上げたのは、いつ振りのことだっただろうか。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
Who killed Cock Robin?
I, said the Sparrow,
with my bow and arrow,
I killed Cock Robin.
誰が駒鳥 殺したの
それは私 と雀が言った
私の弓で 私の矢羽で
私が殺した 駒鳥を (Wikipediaより抜粋)
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