第9話「ロンドンに咲く花」

 翌日もまた、ナンシーは軽やかな足取りでやってきた。


「先生、おはようございます!」


 やっぱり声が大きすぎる。私は顔をしかめてしまったけれど、ナンシーは気づかなかった。


 ――これは仕事だから。

 イングリス氏の酔狂から始まったことだとしても、これで給金が支払われるのなら耐えなくてはならない。

 覚えの悪い生徒にも教えなくてはならない。それがまったく身につかず、忘れ去られるだけのものでも。


「昨日のおさらいをしましょう」

「はぁい」


 返事はするのだが、ナンシーは昨日書けなかった文字はやはり書けなかった。


「昨日も同じところを間違えたわ。ここ、気をつけて」

「難しーですね。なんでこんな形なんだろ? もっと簡単にすればよかったのに」


 先人が編み出した文字にケチをつけつつ、ナンシーの表情はコロコロ変わる。笑っていた顔が、文字と同じように傾きながら険しくなっていた。


「ほら、背中が丸まっているわ。背筋は伸ばして」

「はいっ」


 そして、ナンシーはとてもおしゃべりな女の子だった。少しも黙っていられず、気がつくとすぐに自分の家族の話をする。

 だから私はすっかり、ナンシーのトレギア家について詳しくなってしまった。


 ナンシーは五人兄弟の四番目。兄、姉、兄、弟がいるらしい。父は楽しい人で、母は料理上手で、村の人たちは皆優しくて仲良しなのだそうだ。村には牛や羊といった家畜がたくさんいて、仔羊なんてびっくりするくらい可愛いとか――。


「わかったから、字を書くことに集中しましょうね」

「はぁい。先生はロンドンから来たんでしょう?」

「そうよ」

「ロンドンにはどんな花が咲いているの?」


 ナンシーは、インクがついてしまった指を紙に擦りつけながら私を見上げた。


「花?」

「うん。ムーアにはたくさんの花が咲くから、ロンドンはどうなのかなって」

「薔薇くらいは咲いているわよ」


 どうしてこの子はこう、くだらないことばかり話したがるのだろう。

 そんなことよりももっと真剣に、教えたことを覚えてほしい。こんなに話しながら書くから覚えられないのだ。


「薔薇かぁ。薔薇も好きだけど、あたしはヒースが一番好き。あのね、夏には――」


 嬉々として語り出したナンシーを、私はぴしゃりと止めた。


「おしゃべりはそこまで。さあ、続きを書いてしまいましょう」

「はぁい」


 しょんぼりと、ナンシーはミミズののたくったような字を書いた。そして、迎えが来た。




 そんな日が数日続き、イングリス氏はまだ戻らなかった。

 私はナンシーとエミリーと、時折ブレア夫人とティータイムをするくらいしか人と話さなかった。他の使用人たちとは顔を合わせる機会もない。


 マクラウド邸での私は、使用人たちには敬遠されていた。ガヴァネスは使用人ではないという線引きなのだから、使用人たちに仲間意識など持たれるはずがなかった。私もまたそれでいいと思っていた。ここでもそれは変わらない。


「先生、おはようございます!」


 毎日、大きな声で挨拶をする。


「おはよう、ナンシー」


 私は事務的に返した。

 毎日、飽きもせずに同じような話をする。何がそんなに可笑しいのかと訊きたいような話を、笑いを交えて話すのだ。


 幼いから、日々の生活の仕組みもよくわかっていない。金がなければ食べていけないのだということも知らない。不安が何もなく、この世の中は楽しいことで満ち溢れているらしかった。


「またここ、間違えているわ。同じ失敗は繰り返さないの」


 声に苛立ちが混ざってしまう。この子はどうしてこんなに間違えるのだろう。

 それはつまり、私の授業が退屈だからだ。こんなことを今習う必要がないからだ。来年には学校に通い出すのだから、その時に覚えればいいだけの話である。


 イングリス氏の頼みだから来ているだけであって、ナンシーは早くから勉強したいなんて考えていなかったのだ。


「ごめんなさい、先生」


 しゅん、と耳を垂れた子犬のようになる。そんな姿にも苛立った。

 やはり、労働階級の子供に過ぎた教育は必要ない。それなら私が躍起になって教え込もうとしたところで無駄だ。


 本当に何をやっているのかがわからなくなってうんざりする。イングリス氏は私がこんな惨めな思いをしていることなど知らず、善行を施したといい気になっている。

 こんなことならば、来なければよかった。後悔をしないつもりで選んだくせに、後悔しかなかった。


 この日は終始苛々してしまっていた。それがナンシーにも伝わったらしく、口数が極端に減った。

 そして、迎えが来た。


 翌日、ナンシーは来なかった。

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