第8話「ナンシー」
私は部屋にいて考え事をしていた。
ここにいると、ふわふわと体が浮いているみたいに落ち着かない。
ずっと覚めない夢を見ている。
ただし、その夢の結末はどこへ行きつくのかわからないから、良い夢だとは言えなかった。
フレデリック・イングリス氏は一体何を考えているのだろう。
移民船に乗ろうとした私を心配してこの屋敷に迎えてくれたのだとして、誰が相手でも同じことをした慈善家なのか。それとも、気まぐれな性質で、思い立って行動するけれど持続せず、私は急に放り出される可能性もあるのだろうか。
考え込んでいると、扉がノックされた。
「ミス・クロムウェル、少し話せるかい?」
イングリス氏だ。優しい声音で問いかけてくる。
「はい」
私はソファーから立ち上がり扉を開いた。すると、そこにいたのはイングリス氏と――小さな女の子だった。
四、五歳といったところか。茶色のパサついた髪をおさげにしていて、僅かに両目の間隔が広い。のんびりとした顔立ちだ。汚れてあちこちがほつれたスカートと足にまったく合っていない大きな木靴を履いている。
どう見ても労働階級の子供だ。
「ええと、この子は……」
私が困惑していると、イングリス氏は女の子を促す。
「さあ、自分で挨拶できるね?」
女の子はコクリと大きくうなずいた。
「ソーギル村のナンシー・トレギアです! 五歳になりました!」
発音にヨークシャー訛りのある、元気な、元気すぎるほどの自己紹介だった。
イングリス氏は満足そうだ。しかし、私はわけがわからない。
「ナンシー? そ、それで?」
戸惑う私に、イングリス氏は微笑んだ。
「父親が毎日この屋敷まで配達に来るから、君の生徒に丁度いいかと思ってね」
「え……?」
「ただし、六歳になったら村の学校に通うから、とりあえず一年だけだ」
本気で私の生徒が誰も見つからなかったのだろう。それで、やっと見つけた適任がこの子ということらしい。
けれど、私が今までに教えてきたのは、中流階級の子女だ。不自由することなく、綺麗な衣服を身にまとい、余分な教育を受ける余裕のある家庭の子供ということ。食い詰めの労働者の子供を教えたことはない。
労働者の家庭は日々の生活に精いっぱいで子供の教育などそっちのけだ。学校に入るまでほぼ野放しで育つ子供に一体何を教えたらいいのだろう。
ピアノを教えても、家にピアノなどない。フランス語もラテン語も、この子の生涯には関わってこないだろう。
――見るからにみすぼらしかった。
「ナンシー、先生の言うことをよく聞いて学ぶんだよ」
イングリス氏は白い手袋をした手でナンシーの頭を撫でた。手袋は汚れたかもしれない。
ナンシーは嬉しそうにうなずいた。
「はい! フレデリック様!」
この粗野な子供が淑女としての教育を受けてどうなるというのだろう。
大体、イングリス氏には関わりのないことなのに、この子を教えて私に給金を払うというのがそもそも馬鹿げている。
この人は本当に、何がしたいのだ。
イングリス氏は固まっている私に向け、精一杯気を遣っているような素振りで言う。
「明日からしばらく、僕はまたロンドンに行くけれど、段取りがついたらすぐに戻ってくる。必要なものがあればタウンゼントに言ってくれ」
「ロンドンに? そうなのですか?」
それならヨークシャーに戻ってこなくとも、用事が済むまで私をロンドンで待たせておけばよかったのに。私をこの屋敷へ連れてくるためにわざわざ帰ってきたらしい。
「なるべく早く戻るから」
「はい……」
実際、イングリス氏がいてもいなくても、私と関わることはそれほどないのではないか。
この屋敷に住まわせて保護したつもりなら、これ以上構う必要はないのだから。
私はイングリス氏に恩義を感じていないわけではないが、少々は苦手であったのかもしれない。やることが突飛で、何を考えているのかがまるで見えないのだ。
イングリス氏は宣告通り、翌朝にはまた旅立っていった。
その代わり、私が関わるようになったのは、小さなナンシーである。
「先生、おはようございます!」
ナンシーはすこぶる元気な子供だった。
「おはよう。ねえ、そんなに大きな声を出さなくても聞こえるのよ。もっとそっと挨拶しましょうね」
「はい!」
ため息が出るほど声が大きい。
ナンシーの父親は牛乳を配達しにくるそうだ。いつも美味しい牛乳をたくさん運んできていて、その牛乳で作ったバターは最高だとコックが褒めてくれたらしい。大声で教えてくれた。
「……まず、お顔を拭きましょうか」
思わずそう言ってしまうほど、顔が汚れていた。昨日はここまで汚れていなかったが。
「はぁい」
あまりにも物がよくわかっていない子供だ。言われるままに手の甲で猫のように顔を擦り始めた。
「あっ、ちょっと待って」
私は濡らした
ナンシーはどうして私に身だしなみを整えられているのか、よくわかっていないようだった。きっと、家族の皆がこれくらい汚れているのだろう。それでも大人しく、どこか嬉しそうに座っていた。
「さあ、始めましょうか」
もう、きりがないと諦めた。拭いても梳かしても、服までは綺麗にならないのだ。
「先生、ありがとう!」
汚いから綺麗にした。そう、汚かったのだ。
それなのに、ナンシーは自分が汚いと卑屈にはならなかったらしい。私なら恥ずかしくて震えたかもしれない。
幼いというのは時にいいことのようだ。
あまりに素直な感謝を、私はどう受け止めていいのかわからなかった。
「……あなた、字は読んだり書いたりできるのかしら?」
「ううん、ちっとも!」
予想通りの答えが返ってきた。
「じゃあ、最初からね」
「はぁい」
――結論だけ言うと、ナンシーは優秀な生徒ではなかった。
インクで手をベタベタにしてしまうし、見た通りを書いているはずなのに間違えている。間違えてはいなくても、バランスがおかしくて文字に見えない。
けれど、初日から厳しいことを言うのもいけないだろう。私は根気よくナンシーの間違いを直してやった。
「うーん、字って難しいね」
「難しいですね、よ。言葉遣いには気をつけましょうね」
「はい!」
耳の奥がキンとした。悪気はない。ナンシーはニコニコしている。
ちなみに、ナンシーを教えるのは、父親がすべての配達を終えた帰り、迎えに来るまでだ。大体、いつも昼を少し過ぎたくらいになる。
「お迎えが来ましたよ」
エミリーが呼びに来てくれて、ナンシーは椅子からぴょこりと飛び降りた。そして、エミリーがいる扉の方に駆けていったかと思うと、急に振り返ってお辞儀をした。
「先生、今日はありがとう! じゃあ、またね!」
笑顔を振り撒き、まるで友達と別れるような気安さで去っていった。エミリーが顔を背けて小さく忍び笑いをしていた。
少なくとも、私は今日の自分がガヴァネスとして相応しい仕事をしたとは思えなかった。
これでは学校の教員だ。なんだか、生徒に合わせて私もどんどん色あせていくような気分だった。
ナンシーが帰ってほっと息がつけた。少なくとも、耳を突き抜けていくような大音量で話す人がいなくなったのだから。
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