第7話「ブレア夫人と」
『初めまして、先生。わたし、ガヴァネスの先生ってもっと怖いおばさんだと思っていたの! 先生みたいに綺麗で可愛い
初めて会った日にかけてくれた素直な言葉、無垢な笑顔。
本当に可愛らしいと思った。この子たちには立派な淑女になってもらえるように精一杯尽くそうと誓った。
――それが狂い始めたのはいつからだっただろう。
『先生って退屈だわ。ガヴァネスって皆そうなの?』
『ねえ、先生。お金がないからガヴァネスになったのでしょう? それって、本当はやりたくないことをお金のためにしているんじゃない。お金をもらうって、どんな気分なの?』
『先生、今日はお客様がみえるのですって。家族同士のお付き合いだから、家族じゃない先生はあっちに行っていてね』
『わたし、ちっとも上達していないわ。きっと先生が手を抜いて教えているからね』
『ドレスのここ、糸が出ているわ。先生、ちゃんと繕ってくれなくちゃ駄目じゃない。こんなにみっともない恰好をさせて、わたしたちに恥をかかせたいの?』
『ねえ、先生――』
『ねえったら――――』
嘲笑する幼い口元。
ハッとして、私は夜中に目を覚ました。
月明かりが零れる、見慣れない天井。ここはマクラウド邸でもガヴァネス宿泊所でもない。ロンドンですらない、ヨークシャーの屋敷だった。
私は起き上がらずに寝返りを打ち、目尻の涙を拭ってまぶたを強く閉じた。
教え子であった子供たちは、結果として私の自尊心を踏み躙った。わかっている、私を追い出すためにだ。
もう忘れようと思うのに、いつまでも囚われている。いつまでこんなことが続くのだろう。
私が再び寝入ったのはいつだったか。二度寝をしたせいなのか、頭がぼうっとしていた。
立派すぎる凝った額縁の鏡の前で髪にブラシをかけていると、メイドのエミリーが朝食を運んできてくれた。
「おはようございます、ミス・クロムウェル。お疲れのことと思いますので今日はこちらに食事を運ばせて頂きましたが、明日からは食堂へいらして頂けますか?」
「おはよう。ええ、そうするわ。ありがとう、エミリー」
それはぎこちない、強張ったやり取りだった。私も相手も互いに気を許していない。
「何か不自由があれば遠慮なく言ってほしいと旦那様より託りました。気晴らしに庭を散策するといいとのことです」
ここの庭は広いから、下手に散歩して戻れなくなりそうな気がした。使用人たちに姿を見られるのもなんとなく嫌だった。
「そうね、そのうちに」
曖昧なことを言ったが、エミリーはきっと散歩などするつもりがないことくらい気づいただろう。頭を下げて去った。
朝食にはバターのついたトースト、ポリッジ、ゆで卵、紅茶、とそろっていた。昨日の贅沢すぎる食事よりもずっと体に優しい。
思えば、マクラウド邸を出てからこんな食事はしておらず、節約のため日に一度しか食べないこともよくあった。
贅沢をしたいのではなく、不自由がないほどの食事があるだけで私にはありがたいことだ。
朝食が下げられると、私は荷物を広げた。
貯蓄はガヴァネス宿泊所にいたころに目減りして、今では三十シリングほど。これでは旅費にもならない。
服も必要最低限しか持っておらず、売れそうな物も特になかった。
荷を解いていくうちに便箋が出てきた。そういえば、母にはまだ手紙を書いていなかった。けれど、それでよかったのかもしれない。まだどうなるかわからないような状況だから、報せるのはもっと後でいい。
のろのろと片づけていると、扉がノックされた。
エミリーだろうと思ったら違った。その声に背筋がピンと伸びる。
「ミス・クロムウェル、お茶をご一緒にいかがかしら?」
ブレア夫人だ。昨晩のことがあったので、私は寄宿学校の校長先生に対するほど畏まった気分になった。
「は、はい」
返事をすると、トレイにティーセットを載せたブレア夫人がいた。昨日ほど厳しい面持ちもしておらず、むしろどこか柔らかい。
昨晩とは何が違うのだろう。私は戸惑いながらもブレア夫人と同じ布張りのソファーに腰を沈めた。
ブレア夫人はテキパキと支度を整える。紅茶をカップに注ぎ、私に差し出してくれた。
「ありがとうございます」
「スコーンもありますよ。クリームと、ジャムは何がお好きなのかしら?」
「苦手なものはありません」
すると、ブレア夫人はフッと笑った。笑う人なのだと、失礼なことを思った。
それが伝わってしまったのかもしれない。ブレア夫人は紅茶をひと口飲むと口を開いた。
「昨日のことで身構えているのですね」
家政婦はメイドたちを取り仕切るのであって、他の使用人たちとは違う。教養を身に着けた夫人で、ガヴァネスが使用人だといって見下せる相手ではないのだ。
私はどう答えていいのか困った。それでも、ブレア夫人は怒らなかった。
「あの場では厳しいことが言えるのはわたくしだけでしたので、差し出口を挟ませて頂きましたが、あれはあなたに対する叱責のつもりではありません」
これには私の方が首をかしげたくなった。
何もできないくせに憐れみを侮辱だと受け取った私に、身の程を知れと言いたかったのではないのか。
喉がカラカラになって、私は紅茶を飲んだ。ミルクに負けない濃い紅茶の味がする。
「それでも、私が礼を欠いていたのも事実でしょう」
私がそれだけをやっとつぶやくと、ブレア夫人は苦笑した。
「旦那様がそのように受け取られたとは思いません。あまりに浮かれておいでなので釘を刺したくなったほどですよ」
この言葉に、私は目を瞬かせることしかできなかった。
けれど、ブレア夫人は途端に会話からスコーンへ関心を移した。私もおずおずとスコーンに手を伸ばし、クロテッドクリームと黄緑色のグーズベリージャムを載せて頬張った。
甘酸っぱい。今の気分になんともぴったりだった。
「美味しいジャムですね」
すると、ブレア夫人は孫に向けるほどに優しい微笑みをくれた。
「そのジャムはわたくしの手作りですのよ」
厳しい人だと思ったのに、今日は優しい。だから、私はこの夫人のことがよくわからなかった。気分屋でないといい。
ティータイムを終えると、ブレア夫人は去り際に言った。
「旦那様は出かけておいでです。あなたの生徒を探すのだそうで」
この時にはもう、ブレア夫人は笑いを噛み殺しているように見えた。
私は、はぁ、と気の抜けた声を出しただけだった。
昼食を運んできてくれたエミリーに、私は訊ねてみる。
「あなたのご主人様は紳士でお優しい方よね。きっと使用人たちにも慕われているのでしょうね」
すると、エミリーはびっくりしたように見えた。
「厳しいというわけではございませんが、どう言ったらいいでしょうか……。多分、上流階級の方々の中では変わっていらっしゃるのではないかと」
それを口にしてから、エミリーは失言だったと悔いているふうだった。とっさに言ってしまったらしい。
「あ、いえ、その、もちろんここは居心地の良いお屋敷ですし、わたしたちも旦那様にはとても感謝しておりますが」
年若いのに広い領地を持つ地主で、容姿も整っていて優しいとなれば、若い娘には憧れられてもよさそうなものだが、思ったような反応ではなかった。
すべてにおいて欠点のない人間などいないのだから、それは当然のことなのかもしれないけれど。
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