第6話「優しい否定」

 晩餐に相応しい正装と言っても、手持ちの服から選べるのは紺のドレスだけだ。若い娘が夜会に行くような露出はまるでなく、喉元までしっかりと襟がついている。浮ついたところが何もない。


 流行からは外れているとしても、何もクリノリンやバッスルでスカートを膨らませているわけでもなく、そこまで見苦しくはないと思いたい。


 せめてと、小さな真珠のついた真鍮のブローチで胸元を飾った。これは去年、叔父がクリスマスに送ってくれたものだ。花型が可愛らしくて気に入っているけれど、イングリス氏から見れば安っぽいだろうか。


 呼ばれるまでに私はひたすら深呼吸を繰り返し、心を落ち着ける。

 イングリス氏はどんな思惑があって私をこの屋敷に招いたのだろう。教えるべき子供のいないこの家に。


 イングリス氏は善良だと思う。けれど、わからないことだらけのところにいるのは地面に足がついていないのと同じくらい不安なものだ。


「支度はできていますか? さあ、参りましょう」


 呼びに来たブレア夫人も装いを改めていた。黒いビロードの裾をつまみ、私の前を歩く。

 正餐室にはすでにイングリス氏がおり、華やいだテーブルセットに囲まれていても姿が霞むことはなかった。純白のテーブルクロス、そのテーブルの角に飾りつけられた瑞々しい植物、磨かれた燭台――私が知る晩餐の中では一番立派だった。


 従僕フットマンに椅子を引かれ、私とブレア夫人はテーブルに着く。食事を共にするほどイングリス氏にとって、この家政婦の信頼が厚いのだと伝わる。


「旅の疲れは取れたかい?」


 イングリス氏がにこやかに声をかけてくれた。私はそっとうなずいたが、本当は心配事が多すぎて休まるはずもなかった。


「ええ。お気遣い痛み入ります」


 私は生徒の話がしたかった。それでも、イングリス氏が切り出してくれるまでもう少し待つことにした。


 次々に料理が運ばれてくる。

 澄ました顔からはそれとわからないが、背の高い従僕たちは料理を冷まさないように厨房から長い脚を必死で動かして料理を運んでくれるのだ。


 スープから始まり、イングリス氏は慣れた手つきで料理に手をつけた。ブレア夫人もだ。ブレア夫人はきっと、夫に先立たれた未亡人だろう。二人が操る手元の銀器シルバーの煌めきを私はなんとなく見つめていた。


 自分が場違いであることは承知している。

 私は長らく寄宿学校で過ごし、それから働いていた。ゆとりがなく、ギスギスした私は二人から見れば少しも優雅ではないのだ。


 知識と教養を身につけたガヴァネスは、使用人とは違う。労働者ではない。

 しかし、実際のところ、私は淑女として扱われ慣れていない。マクラウド邸で私を淑女として見てくれたのはマクラウド氏だけだった。使用人たちの方が私を侮っていた。


「……ええと、口に合わないものがあったかな?」


 イングリス氏が困惑気味に私を見ていた。私の手も口もほとんど動いていなかったのだから、そう思われても仕方がなかった。


「すみません、緊張してしまって……」

「そうなのか? 気を楽にしてくれたらいいのに」


 緊張しているのも嘘ではない。けれど、それ以上に私が食欲を失くしてしまう理由は、淑女として扱われて戸惑う自分に失望するせいだ。


 品位だけは失いたくないとガヴァネスになったくせに、自分が気取っているだけの労働者だと本当は気づいている証拠だろう。真に淑女なら、この扱いを当然と受け入れられた。こんなに肩身の狭い思いはしていない。

 一体、私はどう在りたいのだろう。


 ――わたしたち、先生みたいになりたいわけじゃないのよ。

   それなのに、先生に教えてもらわなくちゃいけないなんて変よね。


「――それで」


 というイングリス氏の声で我に返った。

 イングリス氏は気まずそうに続ける。


「あなたの生徒のことだけれど」

「は、はい」

「実はあてが外れてしまって、これから探すことになる」


 この発言に私が唖然としたのは言うまでもない。

 明らかに必要がなかったのに私を雇うと言ったのだ。やはり、職にあぶれて行き場のない私を憐れんだのか。


 高貴な人々は、恵まれない者に施す義務があるという考えを持つ。

 私はいつの間にか〈施される者〉になっていたのだ。何が淑女か。


「……いえ、お気遣い頂いてありがとうございます。そういうことでしたら、何も骨を折って頂かずとも結構ですので」


 精一杯の矜持を言葉に乗せたつもりだが、声が震えていたかもしれない。

 恵まれた人の優しさは、時に悪意よりも残酷だ。移民船に乗ると言った私が、イングリス氏にはとても不憫に映ったのだ。


 憐れまれた私は、今、とても青ざめていただろう。

 施されるほどに惨めな存在になったつもりはなかった。まだ自分の才覚で生きられると思っていた私を、イングリス氏は優しく否定したのだ。


 明日にはここを出て行こう。

 歩いて最寄りの町か村まで出て、ヨークかリースまで行けば雇い口も見つかるかもしれない。それまでに手持ちの金が尽きなければいいが。


 それを告げる前に、ずっと黙っていたブレア夫人が使用人を叱責する時のような目をしてつぶやいた。


「旦那様があなたを雇うと申し出られたことを憐れみと受け取ったのでしたら、それで気分を害するのはいかがなものでしょう。あなたは雇い口がなく逼迫していたそうですね。今のあなたに必要なのは、矜持よりも生活するための場所と食事です。救いの手を差し伸べた相手に噛みついて、そして保たれる矜持などたかが知れていますよ」


 あまりの厳しさに、私は寄宿学校に通っていた頃に戻ったような気分になった。

 好条件で助けてくれたイングリス氏を敵と見なすのはあまりにも恩知らずだと、ブレア夫人は憤りを感じたのだろう。わかっていても、なけなしの矜持まで失ったら、私はますます足元が覚束なくなる。


「ミセス・ブレア、あまり彼女を責めるようなことは――」


 イングリス氏まで困惑していた。彼はどこまでも善良だ。

 けれど、ブレア夫人はそんなイングリス氏にも厳しい。


「当人が結構と仰るのなら放っておけばよいのです。旦那様は一体何をなさりたいのですか?」


 言葉に詰まっている主人を、給仕の従僕たちも見守るしかなかった。

 イングリス氏は家督を継いでから日が浅いようだ。古参のブレア夫人に頭が上がらないらしい。


「まあ、それくらいにして。料理が冷めてしまいますから」


 執事のタウンゼントさんがやんわりと割って入ってくれて、私はひどくほっとした。

 私なりに、ブレア夫人の言い分が正論であるということは理解しているつもりだ。それから、私のせいでイングリス氏まで困らせてしまったのも悪かったと思っている。


「あ、あの、生徒がいない以上、ガヴァネスとして雇うというのが無理なのはわかりました。だからといって、私は客人ではありません。勤め先は探しますが、何かお手伝いできることがあればしたいと思います。失礼なことを申し上げてすみませんでした」


 私がこれを言うと、イングリス氏は首を横に振ってフォークを皿に置いた。


「いいや、あなたは人を教えるのに向いているはずだ。生徒は探すから、もうしばらくだけ待ってほしい」


 その生徒とやらはイングリス氏とは無縁で、その生徒が育ったところでイングリス氏に利益があるとは思えない。

 ブレア夫人はもう何も言わなかった。主がそうしたいのなら好きにしたらいいとでも言いたげだ。

 多分きっと、この屋敷の誰もがイングリス氏の考えを肯定しないだろう。


 この時の料理の味はもちろんのこと、何を食べたのかすら、私は後になっても思い出せなかった。

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