第5話「ラッシュライト・ホール」

 これほど長く汽車に揺られたのは久しぶりだ。長旅に疲れたというのなら、それは汽車のせいではなく、イングリス氏のせいかもしれない。


 行き場のない私を雇ってくれるイングリス氏に感謝しているのは間違いないが、こうした人が身近にいたことのない私にとっては誰よりも気の張る相手である。肩肘張って、姿勢よく座席に座っているだけで疲れてしまう。


「さあ、着いたよ」


 汽車が駅に着けば、イングリス氏は私を気遣いながら降りる。下車する客たちが足早に去る中、私に人がぶつからないように周囲の様子を確かめていた。荷物を持ったフィンリーが合流すると、イングリス氏は朗らかに笑う。


「寒くはない?」

「ええ、平気です」


 本当は、少しだけ肌寒い。北へ来たのだなと乾いた風が差し込むにつれて思う。


「馬車で迎えに来るようにしらせてある」


 イングリス氏に促され、私はついていく。いくつかある馬車のうちのひとつと御者に目を留め、イングリス氏はうなずいた。

 トップハットを脱いだお仕着せリヴァリーの御者が恭しく頭を下げる。


「おかえりなさいませ、旦那様」

「ただいま。こちらがミス・クロムウェルだ。これから我が屋敷に住み込むことになる」


 イングリス氏はどの程度のことを事前に知らせておいたのだろう。少なくとも、この中年の御者にはそれほど詳しくは伝わっていない。目を瞬かせる仕草でそう感じた。


 淑女ならば、使用人風情に丁寧な挨拶をすることはない。堂々としていればいいだけだ。

 ただ、今の私はその堂々とというのが難しかった。結局、目は泳ぎ、どちらともつかないような曖昧な様子でそこにいただけである。


 イングリス家の馬車は、ロンドンのものと同じほどには立派だった。馬車の扉に入った家紋には鳥がいる。

 毛艶のよい立派な馬が四頭も繋がれていて、馬車が立派であればあるほど私は委縮してしまった。


 それでも、私たちを乗せた馬車は走り出した。フィンリーは御者台にいる。

 再びイングリス氏と二人きり、流れる景色を眺めながらの道行だった。


 ヨークを発って、時が経てば経つほど、人の手が加わった物は見えなくなった。

 曇った空の下、見渡す限りの草原。木。緑と茶色の繰り返し。


 イングリス氏は窓の外をじっと見つめていた。それほど真剣に見つめる先に何かがあるわけではない。きっと考え事をしているだけでその目には何も映していないのだろう。

 ずっと押し黙っていた私は、ぽつりと自然につぶやいていた。


「……ここは、何もないところですね」


 それがいけないという意味ではない。何もない方が心休まる時だってある。ロンドンは雑多すぎた。

 けれど、その多くのものから離れて寂しさや不安を感じていないかと問われるならば、いないと断言はできない。


 わがままだと自分でも思う。

 イングリス氏は、私のつぶやきに驚いたような顔を向けた。


「何もない? 本当に?」

「え、ええ……」


 その勢いに驚いた。そんなにおかしなことを言ってしまっただろうかと。

 よく考えてみると、この辺りはイングリス氏の領地なのかもしれない。気を悪くしたのだろうか。

 余計なことを言ったと私が悔いても、イングリス氏が怒ることはなかった。


「焦っても仕方がない。ゆっくり行こう」


 まるで自分に言い聞かせるかのように、イングリス氏はそう言った。




 馬車は日が暮れる前にイングリス氏のマナー・ハウスの敷地へと辿り着いた。番小屋を抜け、奥へと進んでいく。さすがにここまで来ると何もないということはなかった。


 広大な庭、菜園、そして背の高い窓とオランダ風の破風がついたジャコビアン様式の屋敷。赤煉瓦の古い建物だが、それ故に荘厳だ。目立つように小尖塔ピナクルが建てられている。


 この屋敷に住むのはどんな人々だろう。まず、イングリス氏の奥方、そして子供。執事や家政婦、使用人も数多くいるはずだ。


 どんなにたくさん人がいたとしても、それが私と交わる人々ではないことも今となってはよく学んだ。ガヴァネスは家族でも使用人でもない、そういうものなのだから。


 ついに馬車が到着し、従者のフィンリーが主人に声をかけて馬車の扉を開いた。イングリス氏が降り、私をエスコートしてくれる。

 しかし、私は気が気ではなかった。私を雇うに当たり、奥方の許可があったようには思えなかっただからだ。


 馬車から降りるのに手を貸すのなら、フィンリーでも十分である。イングリス氏が自ら私を淑女として扱ってくれても、傍目にそれが行き過ぎと見えないとは限らない。私のドレスはすでに最先端の流行を過ぎている。いくら胸を張っても見劣りはするだろう。


 屋敷の入り口に奥方らしき女性はいなかった。いたのは、燕尾の上着スワローテールコートの、イングリス氏の父親くらいの年齢の執事と、家政婦ハウスキーパーらしき婦人である。その後ろに従僕フットマンやメイドが大勢控えていて、一斉に頭を下げた。その数は、マクラウド邸よりもずっと多く、使用人たちが波のように頭を下げる様子には圧倒された。


 もちろん、私に頭を下げたのではない。イングリス氏にだ。


「おかえりなさいませ、旦那様」

「ただいま、タウンゼント、ミセス・ブレア。こちらがガヴァネスのミス・ロビン・クロムウェルだ」


 挨拶もそこそこに、イングリス氏はすぐさま私を使用人たちに紹介してくれた。私は気後れしつつもそれを面に出さないように、なるべく落ち着いた振る舞いを心がけた。


「ロビン・クロムウェルと申します。不慣れですが、どうぞよろしくお願い致します」


 執事と家政婦の目が、なんとも言えずさまよったのを私は仕方のないことだと思って諦めた。


「ミセス・ブレア、彼女を部屋へ案内してくれ。それから、晩餐には同席してもらうつもりだ」


 そう言われてギクリとしたのは私の方だ。晩餐ともなれば正装しなくてはならない。この立派な屋敷と紳士に恥ずかしくない装いができるとは言い難かった。

 そんな私の心を誰も読み取れない。執事と家政婦はそろって、畏まりましたと答えた。


 イングリス氏と別れ、家政婦のブレア夫人が私を案内してくれる。フィンリーから荷物を受け取った若いメイドが後に続いた。


「このお屋敷――ラッシュライト・ホールは、旦那様が所有されるうちで最も長く滞在されるところなのですよ」


 そんなにお気に入りの屋敷に私を招いてくれたことに少し驚いた。ここにはどんな生徒がいるというのだろう。

 階段を上がった廊下の先で、私はブレア夫人に訊ねる。


「あの……私が教えることになる子供はどんな子なのでしょうか?」


 私の一番の関心はそこである。子供と上手くやれなければ、早々にここを去ることになってしまうのだから。


 ブレア夫人は足を止め、振り向いた。灰色の髪をひっつめた厳しい面立ちの老婦人に、私は思わず気後れしてしまう。


「旦那様はあなたになんと仰ったのですか?」


 質問に対する答えをくれるのではなく、質問が返ってきた。しかも、眉根を寄せて。


「家の者を教えてほしい、と……」


 その途端にブレア夫人はため息をついた。私はその様子に胸がざわついた。


「子供ではないのでしょうか?」


 思えば、〈家の者〉というだけで子供とは言っていない。イングリス氏はまだ若いから、もしかすると子供ではなくて妹か弟なのだろうか。そして、それほど小さくもないのかもしれない。

 しかし、ブレア夫人が語ったことは私の予想とも違ったのだ。


「旦那様は二十一歳になったばかりの独身でございます。お子様はいらっしゃいませんし、ご兄弟もおられません。ご両親も亡くされてご親戚の方々がおられるだけです」


 天涯孤独とはいえ、イングリス氏には地位も財産もあり、社交場に出れば友人知人は山ほどおり、寂しいなどということはないのかもしれないが。私だって家族がいてもいないようなものなのだから、血の繋がりがすべてではない。

 けれど、そうすると――。


「そうすると、私は一体誰をお教えするために雇われたのでしょう?」


 この問いかけにはブレア夫人も困ってしまったようだ。


「それは旦那様にお訊ねください。わたくしにはわかりかねます」


 そうして、私は部屋に通された。そこは、やはり私には過ぎた部屋だった。

 ここは客間だろう。見晴らしの良い、大きな窓がある。


 マクラウド邸では、家政婦たち上級使用人の部屋の並びの一室を借りていた。何か――この待遇に不気味な何かを感じ始めた。


「あ、あの、このお部屋は客室でしょう? 私は客人ではありませんから」


 すると、ブレア夫人は苦笑した。メイドはさっさと荷物を部屋に運び込んでいる。


「客室はここだけではありませんし、この屋敷にお客様が来られることなど稀ですから、部屋は余っています。何より旦那様がそうしろと仰ることですから。……晩餐までにはまだ時間がありますし、まず軽食をお持ちしますね」


 ブレア夫人は控えていたメイドに目を向ける。


「このメイドはエミリー・ホップウッドです。何かあれば彼女にお申しつけください」

「ありがとうございます」


 私よりもいくつか年下だろうけれど、まっすぐ目線の定まったエミリーはしっかりした娘のようだ。丁寧に頭を下げた。


 しばらくするとブレア夫人が言ったように、サンドウィッチと紅茶が運ばれてきた。メイドのエミリーはそれを残して部屋を去る。


 この時になって私はようやく息をつけた気がした。

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