第4話「汽車に乗って」

 約束の三日後。

 駅の雑多な人混みの中、人の群れを避けながら壁際に一人ぽつんと佇む。

 埃っぽい、油っぽいロンドンの空ともお別れだ。


 手続きというほどのものもなく、次の勤め先が見つかりましたと言って去るだけだ。荷造りだって手間取るほど荷物は多くない。それらを使い古したトランクに詰め込んだだけである。もし向こうで足りないものが出てきたら、給金が入ってから考えよう。


 それ以前に、本当にイングリス氏は来るのだろうか。そこが一番自信がない。

 ――そんな私の心配をよそに、来たのだ。あの年若い紳士は。


「おはようございます。ミス・クロムウェル」


 にこり、と清々しい微笑を浮かべ、後ろにはトランクを抱えた従者ヴァレットを連れている。茶髪につり目の、イングリス氏よりもほんの少し年上かというくらいの青年だ。


「おはようございます、イングリス様。これからよろしくお願い致します」


 なるべく優雅に見えるよう、私は膝を曲げて挨拶してみせた。


「こちらこそよろしく――ええと、これから僕はあなたの雇い主になるのだから、もう少し気楽に話しかけさせてもらうよ」

「はい、もちろんです」


 それに異存はなかった。イングリス氏はそこで従者に顔を向ける。


「フィンリー、ミス・クロムウェルの荷物も頼む」

「畏まりました」


 従者フィンリーは主の指示に恭しく従い、私の年季の入ったトランクを持ってくれた。


「では、行こう」


 イングリス氏が一等車両を使うのは当然だとしても、そこに私まで同席させてくれた。私は二等でいいとは考えなかったらしい。賓客のような扱いだ。


 そんな私の考えが透けて見えたのか、イングリス氏は戸惑う私の手を取り、腕に添えて一廉の淑女として扱ってくれる。


「ヨークまで汽車で、それからは馬車で領地へ向かうことになるけれど――」


 イングリス氏はそこで立ち止まると、私の目をじっと見つめた。その奥にある感情はなんだろうか。それを読み取るには、私はこの男性のことを知らなさすぎた。

 ただ、簡単に目を逸らしてしまえない引力のようなものがある。


「簡単には戻れない。あなたに後悔はしてほしくないんだ。本当に覚悟はできている?」


 改めてそんなことを訊ねる。しかし、これ以外の選択は移民船に乗るか、救貧院へ行くか、野垂れ死ぬか――どちらにせよそういいものではない。


「ええ、ロンドンに未練はございません」


 未練どころか逃げ出したい気持ちの方が強い。私は艶やかな都に落ちた場違いな迷鳥でしかなかった。


 余裕を見せようと笑顔を作ったが、多分そんなものはぎこちないだけだ。けれど、それに対するイングリス氏の微笑は優しかった。


「それならいいんだ。道中、あなたの話を聞かせてほしい」

「私の話ですか? これまでのガヴァネスとしての経験ということでしょうか?」


 段差に気をつけながら、私は駅員が迎え入れてくれた車両に乗り込む。絨毯や壁紙がまるで部屋のように整っていた。二等の混雑はなく、優雅な個室だ。もちろん、こんなところに乗るのは初めてだった。


 この間の馬車の時と同じく、私はイングリス氏と差し向かいで座った。とても落ち着かない。

 だから、しきりに窓の外を眺めた。流れていない風景を何度も見ている私の緊張を、イングリス氏は感じ取ったのだろう。

 私の緊張をほぐすように柔らかな声音で問いかける。


「ガヴァネスになってからも、なる前も聞いてみたいね。生まれはどこだろう?」

「ダラムです」

「そうか。独り立ちするまでそこに?」

「いえ、何度か引っ越しました。それに、私は十一歳で寄宿学校に入りました。ロンドンに出てきたのは二年前です」

「ああしたところは規則が厳しいし、小さな頃は大変だっただろう?」

「ええ。でも、友人もできて楽しいこともありました」

「ご家族と離れて寂しかったのでは?」


 これに対する答えは、ノーだ。

 ええ、とても――と心にもない嘘をつこうとした私の声に汽笛のけたたましい音が被さり、私は幾分ほっとしていた。


 カタンカタン。

 汽車が動き出す。


 私は気を取り直して別の答えを探した。


「父が亡くなって、私が十歳の時に母が再婚しました。私は見ず知らずの男性ひとを急に父と呼べる順応性がなくて、学校の方を自分で選んだのです。本当に可愛げのない子供でした」


 母よりも十三歳も年上の新しい父が気に入らなかったのもあるが、それ以上に母といたくなかった。喪が明けた途端、二年足らずで父を忘れる母が嫌だった。

 母には庇護者が必要だったのだ。嫋やかで儚い、男性に頼らねば生きられない人だから。


 嫌がりつつも、私が学校へ通う金は義父が払っていたのだし、その学校で教養を身につけさせてもらったのだから、私も同類なのかもしれないけれど。


 卒業後、ガヴァネスとして働き出すと、母とその家族には数えるほどしか顔を合わせなくなった。

 母は、私に多少なりとも罪悪感のようなものも抱えているらしく、折に触れて手紙を寄越してくる。私も返事くらいは書く。

 母のことが嫌いではない。かといって、すべてを許すほど好きでもない。それだけだ。


 窓の外を見遣る。やっと動き出した風景を眺めていてもいいだろう。

 本当は、正面の紳士に目を覗き込まれたくなかっただけだ。


「それだけお父上のことを慕っていたからだろう? 何もおかしなことじゃない」


 ハッとするくらい、私がほしい言葉をくれた。この人は私の心を覗けるのだろうか。

 その言葉に対する返しを何も用意していないのは、そんなふうに言葉をかけられるとは思っていなかったからだ。私が思わず黙ってしまっても、イングリス氏は怒らない。


 家族の話題はいけないと思ったのか、イングリス氏は話題を変えた。


「卒業後、ガヴァネスになったんだね? まだ若いから、それほど多くの生徒を教えてはいないのかもしれないけれど、何人くらいの生徒がいたのかな?」


 その話題もまた、私にはつらいものである。


「……まだ一軒のお宅のお嬢さんを二人見ただけです。七歳と四歳のお嬢さんでした」


 雇い主はトバイアス・マクラウド。三十二歳ですらりと背が高い見栄えの良い紳士だった。

 私にも良くしてくれて、良いところに勤められて幸せだと最初の一年で思った。


 奥方は床に伏しがちではあったけれど、可愛らしい二人の娘がいて、マクラウド家は理想的な一家だと私は感じていた。二人の生徒は私に懐いてくれて――。


 喉の奥がヒリヒリと、焼けつくような苦しさが戻ってきた。

 ふと、目の前のイングリス氏を恐る恐る見遣ると、薄青い目が見つめていたのは、私の手元だった。無意識のうちにスカートをつかんでいた。小刻みに震えてすらいたかもしれない。


 とっさに手を開いてみせると、イングリス氏は顔を上げてわざとらしいほど明るく笑った。


「質問攻めにしてすまなかったね。ガヴァネスを雇うのは初めてだから、どうするといいのか参考までに色々聞きたかっただけなんだ」

「いえ……」


 私には自信を持って語れることが何もないのだと、この時になって思った。

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