第3話「唐突な雇用」
イングリス氏は私の手を腕に添えてエスコートしつつ、馬車まで歩き出した。
物言いたげな
馬車はなかなか走り出さなかった。
それもそのはずで、私は住処をまだ教えていない。イングリス氏もまだそれを知ろうとしないから。
イングリス氏は淡い目をじっと私に向けたまま、長い指を絡ませるように組んだ。手袋の擦れる音が微かに鳴る。
「あなたは、もしかするとガヴァネスをされているのでしょうか?」
言い当てられたのは、身なりから察することができたからだろう。どんなに取り繕っても、とても良家の令嬢には見えないのだ。
胸に小さな棘が刺さったような痛みを感じることすら馬鹿げているけれど。
「ええ。といっても、求職中ですが。現状ではとてもロンドンで職にありつけそうにございません。場所を変えてみることに致しました」
もう会うことのない人だから。
そう思うことで私も幾分素直に話ができた。
イングリス氏もすぐに私を助けたことなど忘れてしまうだろう。こうして話しているのは、私に関心を寄せているからではない。
私の気分を紛らわせてやろうと話し相手をしてくれているだけだ。それくらいわかっている。
「場所をですか? どちらまで?」
本気で驚いたように、目を瞬かせている。大仰に、真剣に話を聞いているというふうにして見せるのは、上流階級のつき合いでは慣れたことなのだろう。
「オーストラリアのシドニーです」
イングリス氏は馬車の中で腰を浮かせそうになった。それくらい驚きぶりだった。そこまでしなくてもいいのにとこちらが思うくらいだ。
「オーストラリア! 渡航するということですか?」
「そうなりますね」
彼に対する、最初に感じた隔たりが消えたわけではないのだが、なんとなく今は私の方が冷静なのではないかと思えた。イングリス氏はオーストラリアと聞いて本気でそわそわしているように見える。
「……あの、船旅というのはあなたのような
イングリス氏は思いつめたような表情で言った。
何も私が船に乗りたくて乗るわけではないのだが。行きずりの他人が心配してくれるほどには危ないのかもしれない。
けれど、それとわかったところでロンドンに残ってどうなるというのだろう。十シリングの出費をして新聞に求職の広告を出しても雇い主が現れるとは限らない。
「ですが、ここにいてもどうにもなりませんので、新天地で運勢が好転することを祈りたいと思います」
あのマクラウド邸を去った時、きっと私の命運は尽きた。
それでも、あれ以上は踏ん張れなかった。逃げることでしか自分を守れなかった。情けないけれど、これが現実だ。
眼前にいる気の優しい紳士は、逆境に向かわんとする私を憐れんでくれているのかもしれないが、それは他人を案じるゆとりがある暮らしをしているということ。私はイングリス氏の言葉をそのまま受け取れない。
イングリス氏は困ったように目を細め、一度口を引き結ぶとそれから薄い唇をゆっくりと開く。
「オーストラリアほどの遠方へ向かわんとするあなたなら、ヨークシャーでも構いませんか?」
「えっ?」
「ヨークシャーに来てくださるのなら、僕があなたをお雇いしましょう」
この発言によって、私の思考は混乱した。こんな上手い話があるはずはないのだ。
さっき知り合ったばかりの年若い紳士が、どうして私を雇うと言うのか。
呆然としている私に、イングリス氏はさらに続けた。
「住み込みで年に三十五ポンド。仕事ぶりを見てそれ以上になることもあります。どうでしょうか?」
マクラウド邸ですら二十五ポンドだった。これでも平均よりは高い方なのだ。年収二十ポンド前後だというガヴァネスがほとんどである。
こんな好条件だからこそ、私は訝った。一体裏には何があるのかと。
「……私が教えるのはどのような生徒でしょう?」
相当な問題児で、誰もが匙を投げたということか。
しかし、イングリス氏は苦笑した。
「僕の家の者です。詳しくは会って頂いた方が早いかと」
あまり詳しく言いたくなさそうだ。やはり難しい子供なのかもしれない。
「受けて頂けませんか?」
これを言った時のイングリス氏は切実に見えた。立派な紳士が私に縋るような目を向けている。
余程困っているのかもしれない。
どうせ、私には行く当てなどないのだ。何を決めるにしても自分が一人で決めるだけのこと。
それならば、この話に乗ってみてもいいだろうか。
片田舎の古びた屋敷に足を踏み入れた途端、いつ〈青髭〉の女たちのような目に遭うとも限らないけれど。
ただ、目の前のイングリス氏は完璧なまでに端整で、こんな人が騙すほど私に価値はないだろう。気を揉み過ぎなのか。
それにしたって、降って湧いたこの幸運を信じてもいいものだろうか。
私は息を止め、スカートの襞を握り締めた。そして、答える。
「結構なお話です。本当に私でよろしいのでしょうか?」
イングリス氏はほっとした様子で白い頬にほんのりと血の気を浮かばせた。
「ええ、どうかお願いします」
「畏まりました。では、お受け致します。いつからがよろしいでしょうか?」
「早ければ早い方がいいですね。明日にでもと言いたいところですが、あなたにも支度があるでしょう。三日後ではいかがですか?」
「三日後ですね」
この話がまとまった後、イングリス氏はようやく私の住所を訊ねた。それを御者に伝え、馬車はゆっくりと動き出す。
私が歩いて来たほどだから、それほど遠いわけでもなく、この優雅な移動はそれほどの時を要さなかった。
「では、三日後の午前九時、にキングス・クロス駅の入り口で待っています」
イングリス氏はそう言って、私を馬車から降ろした。黒塗りの馬車はすぐに駆け去ることはなかったけれど、私は馬車を降りたら急に夢を見ていたような気分になった。未だに心はふわふわと、どこかをさまよっている。
けれど、ふと、発作のように心臓がキリリと痛んだ。
――先生って、どうしていつも***なの?
甲高い笑い声。
甘い、フリルがたくさんついたドレス。綿あめのような柔らかな髪。
女の子の可愛らしい外見の中に潜む毒。
私はまだ、少しも立ち直れてはいないのだ。
一度立ち止まり、振り返ると、馬車の窓からイングリス氏が私を見送っているような気がした。
私の生徒となるのは家の者だという。イングリス氏はまだ若いから、子供がいても精々が二、三歳といったところだろう。それくらいならなんとかなると思いたい。
もう、同じ目には遭わないように、弱い自分が表に出てこないようにしっかりと閉じ込めておかなくては。
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