第2話「街角で」

 行き先がシドニーとは――。


 耳を疑ったが、オーストラリアだ。思った以上に遠い。

 それでも、一度決断したのだから、勢いのままに向かうだけだ。


 私がイギリスを去るとして、引き留める者は誰もいない。いるとしたら、ランカスターにいる母くらいだろう。あとは父方の叔父とも手紙だけの交流がある。叔父も移民船と聞いたら心配するかもしれない。


 ――宿泊所に戻ったら、二人に手紙を書こう。

 母への手紙には感情を何も差し挟みたくない。ただの報告だけでいい。


 今の気持ちを言葉に表したら、弱い自分が表に出てきてしまう。私は、大好きだった父を亡くした後、泣きじゃくって手がつけられなかった幼い少女のままだ。何も大人になどなれていない。


 そのくせ、母とその家族に対しては未熟さを認められなかった。私は平気だと、そんなことばかりを口にしている。


 渡航となると、私は本当に異国の地で自立して暮らしていけるだろうか。本音では不安だらけだ。

 行きたくない。船なんて途中で沈んでしまえばいい。

 それなのに、余計な矜持が否定的な言葉を呑み込ませてしまうのだから、本当に愚かだと思う。


 異国。船。海。見知らぬ人々。

 考えただけで寒気がする。コルセットを締めつけ過ぎたかのように苦しくなった。

 馬の蹄鉄の音、車輪の回る音。ロンドンの喧騒が急に掛け替えのないものに思えてくる。


 私のさまよう視線の先で、年端も行かない子供が街角でうずくまっているのが見えた。珍しくもない光景であることが悲しい。きっと、おなかを空かせすぎて動けなくなったのだろう。それがわかっても、今の私にはこの子に分け与えるほどのゆとりはない。


 けれど、私は服を着て、今のところ飢えることなく生きている。その私がこの靴さえ履かずにいる子供にパンのひとつも与えられないというのなら、私は我が身可愛さにこの子を見殺しにしたと言えるだろうか。


 一日食事を抜けばいい。それでこの子が一日ひもじい思いから解放される。

 あの子供よりも私の方が、これからどうとでもできると考えよう。


 私は一シリングを握り締め、その子のそばへ行くと手を伸ばした。


「大丈夫? 起きられる?」


 そっと声をかけたつもりだったけれど、私は勢いよく顔を上げたその子供に突き飛ばされた。


「っ!」


 まったく構えていなかっただけに尻もちをついてしまった。その拍子に握っていた硬貨が石畳の上に転がる。子供は獣さながらの敏捷さで一シリングに飛びつき、それを拾うなり駆け去った。もちろん、礼などひと言もない。


 ――あれだけの元気がまだ残っていたことを喜んであげるべきだろうか。それとも、恩知らずだと罵るべきだろうか。

 私の心はどちらにも傾かなかった。それすら億劫に感じるほど擦り切れた。


 道行く人々が、油っぽく汚い地面に座り込んだ私を嘲笑うような視線を投げかける。その人たちは富裕層ばかりではなく、商人や使用人もいた。そんな相手にすら、私はわらわれるのだ。真っ当に生きているつもりなのに、財力がない女だというだけで世間はこんなにも冷たい。


 立たなくては。一人で立たなくては。

 涙を堪えて立ち上がりかけた私に、白い手袋をした手が差し伸べられる。


「どうぞ、つかまってください」


 丁寧な口調だ。まだ若い男性の声。

 身なりのよい紳士らしく、私はとてもその顔を直視することはできなかった。うつむきがちに答える。


「あ、ありがとうございます」

「お怪我がなくて何よりです。よろしかったら、当家の馬車で送らせて頂きますが?」


 スカートが汚れている。歩いて帰るのは恥ずかしいだろうという配慮なら結構だ。

 その汚れたスカートで馬車の座席に座る方が嫌だから。


「お気遣いには感謝致しますが、歩いて戻れますので」


 私がそう言っても、その紳士は去らなかった。


「後で痛みが出るかもしれません。あまり無理をなさるべきではないと思いますが」


 親切心から言ってくれている。わかっているけれど、私は構ってほしくなかった。独身の女が監督者もおらず一人歩きしているのだから、それだけでどういう身の上なのだかわかるだろう。

 自分の口も養えていないくせに他人に施そうなんて、どうしようもない馬鹿だと思われているようでいたたまれない。


「いえ、どこも痛くありませんので」


 そう言って去ろうとした時、その紳士はすり抜けかけた私の手を握った。私はハッとして、初めてその紳士を見上げた。


 若いとは思ったけれど、思った以上に若かった。多分、私と同じくらいだ。

 仕立てのよいシルクハットの下の髪は濃い色合いの金髪で、アイスブルーの目は柔らかな眼差しを私に向けている。目鼻立ちの整った顔で、社交場でもてはやされていて当然の男性だ。


 自家用の馬車を従え、上等な服装をして、容姿に恵まれている。銀のスプーンを咥えて生まれてきたような人物だ。

 そんな男性が私に向けて微笑んでいる。さらに居心地が悪くなった。


「あなたの親切心にあの子供は報いなかった。けれど、あなたの行いは正しかった。それならば、正しい行いをしたあなたに報いがあってもよいでしょう。報いるのがあの子供でなくとも、例えば通りすがりの誰かであっても。さあ、お送りしましょう」


 どうやら一部始終を見ていたらしい。正しいと言ってもらえたことは嬉しい。汚れた服で歩かせるのが忍びないと気遣ってくれたことも有難いと思う。けれど、それだけだ。手を貸してもらう理由にはならない。


「あ、あの……」


 彼は微笑んでいるだけだ。柔和な笑みなのに、どうしたわけか押しが強いと感じる。


 私は、この慣れない状況で上手い断りを入れることができないでいた。どう言えば角が立たずに去れるだろうか。私にはこの紳士を満足させるような礼をすることもできないのだから。


 黒塗りの四輪馬車を前に、私は困り果てた。こんな立派な馬車でガヴァネス宿泊所に送ってもらうなど考えられない。恥ずかしさのあまり心が折れそうだ。

 口に出してそれを言わずとも、紳士は何かを察したのだろうか。


「見ず知らずの男が急にこのようなことを言い出したのでは、ご迷惑でしょうか?」

「迷惑だなんて、そんなことはありませんが……」


 気が引けると言った場合、この紳士は遠慮など要らないとでも答える気がした。恵まれた人は根っから善良なのだろう。

 すると、彼は笑顔を保ちながら名乗った。


「僕はフレデリック・イングリスと申します。――ヨークシャーに領地を持ちますが、今日は所用でロンドンに来ていました」


 ヨークシャーにマナー・ハウスを構えている地主らしい。貴族ではなくとも、ジェントリだ。下手をすると貴族より裕福な場合もある。


「ヨークシャーですか」


 父が生きていた頃、私もその辺りに住んでいたことがあったかもしれない。幼かったために何ひとつ覚えていないけれど。

 イングリス氏は嬉しそうにうなずいた。


「ええ。乾燥して寒さの厳しいところですが、僕にとっては楽園です」


 乾燥して寒さの厳しいところを楽園と呼べるのかどうかはわからないが、当人がそう思っているのならば私が口を挟むことではない。はあ、とおざなりな返事をしておいた。


「あなたのお名前は?」

「ロビン・クロムウェルです」

「ミス・クロムウェルですね?」

「はい」


 多分一生未婚のままだ。卑屈な心を抱えた私に、イングリス氏はうなずいた。


「これで僕たちは見ず知らずではありません。どうぞ、お送りします」

「は、はぁ……」


 手を放してもらえない以上、私が逃れる術はなかった。イングリス氏はきっと、私が口でなんと言おうとも遠慮しているとしか受け取らないのだ。だから、私を置き去りにしたのでは本人のためにはならないと考えている。

 口で言って信じてもらえないのならどうにもならない。私は諦めた。


 イングリス氏がこう言うのなら、送ってもらってそこで別れたらいい。それで終わりだ。

 恥ずかしい思いもそこで終わる。ほんの少し辛抱すればいいだけ――。

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