ヨークシャー・ムーアの駒鳥
五十鈴りく
◆1
第1話「余った女」
「――母国語に加え、フランス語、ラテン語、ドイツ語を少々。裁縫、絵画、音楽を教えられます、と。非常に結構。
窓を背にして座る職業斡旋所の面接官は、そう言って銀縁の丸眼鏡を押し上げた。
凡庸すぎて押し出すには弱いと正直に言えばいいのに、下手な当てこすりだ。
ヴィクトリア女王陛下が治めるこのロンドンは見せかけだけ豊かであるけれど、私のような後ろ盾のない女が溢れ返っている。
本来、
それでも、女性がどうしても働かざるを得ない状況において、唯一淑女として体裁を保てる職業がガヴァネスであるのだから、落ちぶれた中流階級の女たちがガヴァネスになるのは自然なこと。
そんな昨今だから、学校で学べる平均的な能力しか備えていない小娘など推奨できたものではないわけだ。
けれども、ここで立ち上がり、面接官をキッと睨みつけながら捨て台詞を吐いて立ち去るという愚行は犯さない。そんなことをしても一ペニーたりとも得をしないから。
「
これを言った時だけ、面接官の顔に人らしい感情が見て取れた。
「この赤毛は父親譲りなんです」
「そのお父様は?」
「子供の頃に亡くなりました」
ああ、と面接官は予期していた通りの答えを受け取ると、また眼鏡の奥に感情を隠してしまった。それというのも、一人ずつに感情移入していては身が持たないせいだろう。職を求めてやってくる女たちを、まるで品物のようにして捌いていかなくてはならないのだから。
「求人はいくつかあるのですが、あなたのように若くてお綺麗な方は、ねぇ」
ため息交じりに言われた。歓迎されないのだという言葉は口から出てこなかったが、それでもちゃんと伝わる。
自分が特別美人だとは思わないけれど、若いだけで不都合なのだろう。ガヴァネスという職種上、容姿や若さが裏目に出ることもある。家人との
面接官は眼鏡の奥から盗み見るような目つきで私を見遣った。
「前のお屋敷でお暇を出されたのはどうしてでしょう?」
それを言われると、何も答えられない。
「マクラウドさんのところは小さくて大人しいお嬢さんが二人だとお聞きしました。マクラウドさんは紳士、奥様はご病気で伏せっておられますけれど、居心地は悪くなかったでしょう?」
「……私がガヴァネスとして至らなかったのです」
涙を呑んでそれを言うしかない。ガヴァネスとしてというよりも、人として至らないのかもしれないが。
いつまでも甲高い少女たちの笑い声が耳から離れず、夜も眠れなくなるのに、それでもまた同じ職を求める。ガヴァネスとして働くことにこだわりがあるわけではなくとも、それしかできないのだから仕方がない。
このご時世、女が自立した暮らしを求めること自体が難しいのだとわかっている。それでも、母たちの世話にはなりたくなかった。
面接官は机の上の書類をめくり、無感情な声で読み上げる。
「ミス・クロムウェル。改めて言うことでもございませんし、あなたは重々承知のこととでしょうけれど、ロンドンには職にあぶれたガヴァネスが大勢おります」
本当に、それは痛感している。
前のお屋敷を辞してから一ヶ月、職を探すガヴァネスのためのハーリー街にあるガヴァネス宿泊所で暮らしているが、もうそろそろ置いてもらえなくなる。失業中のガヴァネスに対し、施設の部屋は足りていないのだ。
けれど、勤め先が決まらないまま追い出されても行く当てがない。週十五シリングの宿泊費は今の私にとって安いものではなく、それ以上のところなどもっと払えない。委員会の方に延長を申し出るしかないと腹をくくった。
どこへ行っても、ガヴァネスは所詮〈余った女〉なのだ。
相続できる財産もなく、よって結婚とは無縁の女たち。そのくせ、生まれと育ちは中流階級であるために、労働者に紛れてしまうには矜持が邪魔をする。
それでも、毎日生活費の心配をしなくてはならない女が優雅でなどいられるものだろうか。ひと通りの教育を身につけ、見苦しくないようにと見た目を取り繕い、所作に気をつけたところで、財産がないという一点のみでその価値は道端の石ころだ。
本当は、ガヴァネスが真の淑女たり得ないことくらいわかっている。認めたくはないけれど。
「お父様は亡くなられたそうですが、お母様は? 他のご兄弟は? 頼れる方はいらっしゃらないのかしら?」
「母は再婚していて、私は家族とは疎遠です。財産もありません。働くしかないのです」
父は薬剤師だった。次男で実家から受け継ぐ財産はなく、若くして結婚した両親に蓄えと呼べるようなものもなかった。幸せだったけれど、稼ぎ頭の父が亡くなってしまえば収入は途絶えた。
それから、私と母は僅かな金で細々と生活して、生活費はほぼなくなっていた。だから母は再婚したのだ。
それを言うと、面接官は諦めたようだった。話を打ち切るために軽くうなずく。
「それでしたら、移民船に乗ってみるつもりはございませんか?」
「えっ?」
「ロンドンでは求職するすべてのガヴァネスに勤め先が見つかるとは申せません。ですから、海を渡り、新地にガヴァネスを送り込むという活動を行っております」
「聞いたことはありますけれど……」
ぎこちなく答えた。
希望した者に女子移民協会が渡航費を貸しつけてくれるという。ダニーディン、メルボルンなどへすでに渡ったガヴァネスがいるのだ。
上手くすればロンドンにいる以上の給金が支払われ、快適に過ごせる。しかし、下手をすれば不慣れな土地で路頭に迷うかもしれない。
これは人生の大博打である。もし、移民船に乗ったなら後戻りは容易ではないのだから。
けれど、ロンドンにしがみついたところで、私には何もない。あたたかな家庭も、家族も、何も。
捨てられないものなどないくせに、ここで臆するのは何故だろう。
それは自分の限界を知っているからだ。何も持たない、凡庸な能力しかない、それでいて淑女であることにこだわるちっぽけな娘。それがロビン・クロムウェルだ。
――そんな自分が嫌なら、船に乗れ。自分の翼で羽ばたいてみろ、とどこかから声がする。
どこにいたって、そんなに変わりはないのだ。それなら、イギリスである必要はない。地面と空と、話の通じる人間が僅かにいればそれでいいのではないのか。
「……無理強いは致しません。
その可能性はとても低いのだと、声の響きから嫌でも伝わる。
私は皮手袋を嵌めた手をギュッと握り締めた。
「わかりました。新天地へ向かうことに決めました。どうかよろしくお願い致します」
これを言った時、面接官の目には憐れみしか見えなかった。
どんな慰めも要らない。私は必要事項だけ聞くと足早に部屋を後にした。
建物の外へ出た途端に吹いた秋風が冷たく感じられたのは、私が孤独だからだろうか。
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