黒髪のアリス

宇治抹茶ひかげ

『再考』

「私は常々思うんだよ! 何が『馬鹿でも分かる〜』なの! 書いてるお前は馬鹿じゃないだろって!」

夕陽あさひはそう言って『馬鹿でも分かる数学A』を床に叩きつけた。気持ちは分からんでもないが

「馬鹿がそれ言ったらおしまいじゃないか」

「なんだと私が馬鹿だと言いたいのか!」

「そういうところだ。甘んじて受け入れるべきなんだよそこは」

「はぁ〜、もう分かんないよ何もかも。こんな勉強が何に役立つのさ! さぁ教えてくれよ!」

そう言って夕陽は左足の踵一点で大袈裟に両手を広げながらターンをした。

「とりあえずその本を読み切ってから言ってくれ。話はそれからだ」

「なんだと私を馬鹿だと言いたいのか!」

「だからそういう所だって!」

文化祭初日の正午に俺たちはなぜか暫定的に物置部屋にされている理科準備室の中にいた。窓から見える校庭にはクラスや委員会、部活動その他非公認サークル保護者会の出店と内外関係なくさまざまにやってきたお客さんで溢れていた。天気も良く大変な賑わいだ。四階からだとその様子がよく見えて、神様の気分っていうのは案外こんな感じなのだろうかと思った。程よい充実感と、疎外感。

「何浸ってんの? キモい」

「何も言ってないんだけど」

「神様も二人でいれば違ったのかもね」

夕陽はローファーをコツコツ、金色の懐中時計をカチャカチャ鳴らして俺の隣にやって来た。フリル付きの青いドレスを着る彼女はいつもよりもなんというか、目のやり場に困るというか……。

「……それは」

「街づくり系のゲームは友達に見せてこそ、だからね。そんなだから園に変なルールを作っちゃったんだよ」

夕陽はそう言って俺に満面の笑みとピースを向けた。

「そういうことかよ」

危うく恥ずかしいセリフを吐きそうになったじゃないか。

「ま、たくさんいるのも良くないのかもね。私たちは創造に失敗しちゃったわけだし」

「……」

ここで読者諸賢には説明しておくべきことがいくつかある。まず、夕陽あさひについてである。彼女の服装は青いフリル付きのドレスに黒のニーハイソックス、茶色のローファー、そして頭には黒色のカチューシャを着けたいわゆるアリスのような格好をしている。というかアリスに似せて作ったのだから似るのも当然である。彼女は校則から嫌われウィッグを嫌ったアリスだったため髪色は黒である。黒髪のアリスである。しかも原作にしっかりとした描写がないことをいいことに髪型はウルフである。ウルフて。狼のアリスは兎を食べようとしたのだろうか。

「上手くないよ?」

「うん、だから声に出してないんだって」

次に俺たちが文化祭の記念すべき初日にどうしてこんな薄汚れた部屋に二人で閉じ籠っているのかという話であるがこれはクラスの出し物『演劇:不思議の国のアリス』の初演が原因である。ルイス・キャロル原作のあの有名な童話であり普通にやっていれば普通に成功すること間違いなしの演劇であるのにも関わらず俺たちのクラスは死ぬほど失敗した。驚くほど滑って担任が劇の中盤にそっと教室から離れたぐらいである。まだお茶会のシーンだったのに。

「あれは酷かったね。私ティーカップ投げようとしちゃったもん」

しかしそもそも制作が始まった段階からクラスでは諍いと争いとが絶えなかった。まず脚本は原作再現にするのかオリジナルを入れるかで揉め、演出はアリスをロリっぽくするかどうかで取っ組み合いの喧嘩が起き、衣装は手縫いかレンタルかで揉め最終的には同じ服が二着ずつ用意された。とにかくなんかもうどこもかしこも揉めていた。そしてその矛先は監督である俺に向いた。そう、俺は監督なのである。調整に次ぐ調整により学校に行くのが億劫になるほど毎日関係各所を練り歩きスケジュールと戦いながらどうにか形にしようと奮闘していた。それなのにどうしてか

「監督がちゃんと決めてくださいよ!」

と、どこに行っても怒鳴られ、もうとにかく辞めたかった。中間管理職の仕事ってこんな感じなのだろうか。そんなんで劇が上手くいく筈もなく、初演の後に共通の敵を手に入れた彼らは嬉々として俺と主演女優の夕陽とを全ての原因とし、追いに追われた俺たちは三十分前にこの僻地にやってきたのである。以上、説明終了。

「何が悪かったんだろうなぁ」

「監督は悪くないよ、悪いのは全部……監督だね」

「せめて二行ぐらいは頑張って」

しかし実際のところ夕陽が主演じゃなければたぶん辞めてたと思う。劇としてギリギリその体裁を保てていたのは練習中から見せた彼女のアドリブのおかげであり夕陽には頭が上がらない。俺も自分の職務は全うしていた筈なんだが。

「あー、私喉乾いたよ。ちょっと外出て買ってきても良い?」

「その格好だと目立つだろ。飲みかけでいいなら俺の麦茶飲む……か?」

自然と口から出てしまった言葉であるが、言ってしまってああ失敗したなと思った。

「ば、ばか! 飲むわけないじゃん。外で買ってくるから!」

そう言って夕陽はドアの方に向かおうとした。

「お、おいちょっと待てよ」

今外に出るのはまずい。俺は夕陽に手を伸ばす。

「麦茶は細菌が繁殖しやすいから〜!」

夕陽は俺の手をするりと躱し勢いよくドアを開け廊下を駆けていった。出てすぐに

「おい! 見つけたぞ!」

と夕陽が行った方向と反対から声が聞こえてきた。ここにいれば俺だけでも助かるが。

「……」

俺も急いで準備室の外に出る。

「監督もいるぞ! 捕まえろ!」

廊下を駆けていく。角まで差し掛かったところで階段を下に駆けていく夕陽が見えた。

「屋上が空いてるぞ!」

俺はそう上に向かって叫び階段を二、三歩だけのぼり、素早く手すりを飛び越え下に降りた。階段を駆け降り二階と三階の踊り場にいる夕陽に追いついた頃にはもう俺は死にかけだった。

「ちょっと……待ってくれ……」

 普段の運動不足が身にしみる。

「えっ! 何? 聞こえない!」

 声に反応して夕陽が急に立ち止まり振り返る。

「いやちょっとま」

箱根駅伝でタスキリレーが終わった直前のランナーのように倒れる俺は、夕陽と見事に正面衝突した。

「ぐへぇ」

雑魚キャラのような声を出して吹き飛ばされたのは俺の方である。くるりと一回転回ってから空中に放り出される。走馬灯のように、文化祭までの日々が流れる。どうしてこうなったんだ。初演だってどうにかして形に出来ていた筈なのに……神様ってやつはいないのか。あの時ああしていれば、こうしていれば。そんな一切の後悔が俺を襲う。しかしどうすることもできない。目を閉じて二階へと、落……

「ん?」

 思ったより痛くない。足は強く打ってジンジンするが、そのほかの体の部位はクッションの上に落ちたようなか柔らかさすら感じる。

「よかった。間に合った……」

目を開けると夕陽の安堵したような表情が映った。大きく綺麗な瞳に、血色のいい唇。ってそんな場合じゃない

「大丈夫か! どこか痛んだり……って何笑ってるんだよ」

夕陽はそんな俺を見てクツクツと笑い声を漏らしていた。

「だって、そんな格好で言われても」

 そりゃ確かに説得力はないかもしれないが。

「……ありがとう、本当に助かった」

 俺はゆっくりと立ち上がった。

「手、借りても良かったんだよ」

 夕陽は優しく笑ってそう言った。そうは言っても

「……ありがとう。だが、とりあえず今は逃げないと。歩けるか?」

「うん」

夕陽は立ち上がってドレスを二、三回払って満足げな顔で頷いてサムズアップをした。確か二階の一番近くの教室は科学部の部室だ。外でロケット花火を飛ばすと言ってたな。今は無人のはずだ。早足で部室の中に入る。

「うわーすごい部屋だね」

科学部の部室は雑多なもので溢れていた。小教室ほどの小さな部屋の中には乱雑に置かれた机と椅子、その上に置かれた本、雑誌、工具、そして

「タイムマシンか……? これ」

「ドラえもんで見たことあるやつだ」

座椅子、レバー、タッチパネル、電気。科学部の展示品だろうか。随分古めかしいタイムマシンを作るものだと感心していると、外から物音が聞こえてきた。

「俺はこっち見てみるわ」

 さっきのロリコンの声がする。どうやらその足音は科学部に近づいているようだった。

「おい、やばいぞ」

タイムマシンに夢中の夕陽に声をかけるがほーとかあーとか言っていて俺の声が聞こえていないらしい。どんどん足音は近づいてくる。どうする。

「やるしかないか……」

 俺はタイムマシンに夢中の夕陽の手を掴んだ。

「え、ちょっなになに、え、ええぇぇえ! むぐっ……」

 俺は夕陽と掃除用具入れの中に入った。バタバタと暴れる夕陽をなんとか抑える。

「静かにしろって……!頼むから……」

「バイオハザードでこういうシーンあったよね」

「急におとなしくなるのもなんか怖いって」

ドアが開けられる音が聞こえ、息を潜める。掃除用具入れの中から外は見えないが色々と物色しているらしい。一通り調べ終わったのか座ってお茶を飲んでいるようだ。人二人が入るのには小さすぎる箱だからか、中では自然と体が触れてしまう。夕陽の髪が俺の顔のすぐ近くにあってなんかいい匂いがする。こんなだからキモいと言われるのも仕方ないと思う。夕陽はずっと下を向いていて表情が分からない。そもそも暗いから見えていたところでわからなかったんだろうけど。

「なんか腹に当たってるんだけど……」

「私の拳だよ?」

「さも当然の如く言われましても」

「後で殺す」

 今殺さないのはこいつなりの優しさだろうか。いよいよ構図が俺VSクラスのみんなになってしまったらしい。親友に裏切られた古代ローマの英雄もこういう気持ちをしていたのだろうか。夕陽あさひ、お前もか? 段々と頭がどうでもいい事を考えだした辺りでようやくロリコンは科学部の部室から離れ、つまり俺たちも掃除用具入れから出ることとなった。

「もうっ! やりすぎだよこれは! 私が訴えたら勝てないからね」

「不可抗力だ」

「……ま、まぁ情状酌量の余地はあるとは思うけど」

 そう言って夕陽あさひは俺に背を向けた。

「どうしたもんか……」

 今はいいとしてもいずれあいつらには見つかるわけである。しかしその一方で妙にどうにかなりそうな感覚も感じる。今なら民衆に追い詰められたマリー・アントワネットの気持ちも分からなくない。

「お菓子を食べればいいじゃない、ってね。その後幽閉されるんだから私たちもそうなったりして」

「そうならないためにも、どうにかしたいわけだが」

「うーん」

夕陽は顎に手を当ててうんうん唸りながら科学部を徘徊する。

「あっ」

「どうした?」

「タイムマシン」

そういってタイムマシンを指差す。

「あのなぁ……」

「いいじゃんいいじゃん。意外としっかりしてるよ? これ。タッチパネルも触れるし。よし、文化祭の前に戻ろうよ! そうすれば監督も私もこうはならなかったし。さ、乗って乗って」

 夕陽は部室の真ん中にタイムマシンを設置し、タッチパネルの年月日を一ヶ月前に設定した。公立高校の科学部がアインシュタイン先生を超える発明をするとも思えないが、しかし文化祭の劇で主演と監督が立場を追われるぐらいの不思議が起こるのだから時を超えることぐらいできるのかもしれない。

「よし、分かった。やり直しだ」

俺は座席に手を置いた。

「おっけー! はいっ」

そう言って夕陽はレバーを引いた。

「……」

「……」

 何も起こらない。

「戻るか」

「うん」

 俺と夕陽はゆっくりタイムマシンから降りる。観念して教室に戻るしかない。演劇をやってるうちはあいつらから糾弾もされないだろう。初日の公演も終わった後にどさくさ紛れて逃げればどうにかなるはずだ。その時のことはその時に考えよう。俺と夕陽は隣に並んで科学部のドアを開ける。

「えっ」

 夕陽が今にも消えそうな声を上げる。そして、同時に俺は声を出せないでいた。驚愕のあまり、である。科学部の前の窓から中庭を挟んで教室が見える。それぞれのクラスがそれぞれに出し物をしているはずの教室には、奇妙なぐらいに整然と座る生徒たちがいた。

「嘘だろ……」

 あれだけ喧騒が響いていた校庭は世界が終わったように静まり返っており、端的に言って仕舞えばこれは

「まさか成功するとは、ね……」

 物置部屋に置いてあった意図明白な機械はどうやら本物であるらしかった。

「これは……どうなるんだ」

「ん?」

「いや、タイムマシンにも色々あるだろ。自分自身がいるパターンとそうでないパターン」

「ドラえもんと時をかける少女だね」

「うん、その辺濁してたんだけど」

著作権とか厳しいから。

「夕陽、携帯持ってるか?」

「え、うん」

「日付は?」

「あっ」

 文化祭の一ヶ月前の日付がそこには表示されていた。それと『どこ行ったの?』

 というメッセージも。

「つまりこの時間の俺たちはもういないわけか……」

「時をかける少女だね」

 という事は

「急いで教室に戻るぞ。もう未来は変わってるはずだ」

「え、うん……っていや待ってよ!」

「なんだ、早く戻らないと」

「とりあえずさ……私の体操服、持って来て……」

 夕陽は顔を赤らめてそう言った。


「どこ行ってたんだ? もう会議始まるぞ。夕陽はなんで体操服……?」

「気にするな」

 教室に置いてある夕陽の体操服を取りに行き、その後教室に戻ってきた俺たちであったがこいつらが一ヶ月後躍起になって俺たちを追いかけ回すことになるとは露ほどにも思っていないだろな。以下、回想。

「これからどうするの? 一旦帰る?」

 体操服に着替えた夕陽はタイムマシンを指差す。見つかったらどうなるか分からないため、現在は文芸部の部室に置いている。というのも部員が俺一人だからだが。

「いや、何もせず帰るのはまずい。ここに俺たちがいないという事はもう未来が変わってることになる」

「何で?」

「この時間、お前は何をしていたか覚えてるか」

「教室で寝てたよ」

「テスト解けよ」

「解き終わったから! というか未受験って私たちの成績はどうなるの……?」

「模試だから学校の成績には響かん」

「そうだけどさぁ……結構点数良かったのに」

 閑話休題。

「とにかく、このままじゃどんな方に進むか分からない。戻るにしてもある程度予測できるように今日の第一回文化祭会議は出た方がいい」

 そう、この日俺たちの全体的な方向が決まったのである。今度は、全員が納得する方向に向かわせるべきだ。何事もスタートダッシュが大事なのである。初戦に負けると勝ち進めないのが通説だからな。

「監督がアリスをやるの?」

「やらないよ?」

 以上、回想終了。つつがなく会議は進み、監督は俺に決まりアリス役も夕陽に決まった。

「それでは全体会議を始めます」

 委員長が発言すると同時に俺は手を挙げる。

「はい、立花くんどうぞ」

「『不思議のアリス』なんだが、この劇に関して俺は随分前から用意をしていて、よければこのレジュメの通りにみんなには動いて欲しいと思っている」

 本来の時間軸で失敗した部分を全て修正し、誰もが納得できるアリスを俺は昼休みの短時間で作ったのである。会議の参加者がざわつく。

「脚本は基本原作に忠実に、だがオリジナルのパートも入れる。演出に関しては衣装替えでアリスの印象を変えて、衣装は難しいものはレンタルにしようと思う」

 諍いの原因を全て潰した最強のプランだ。参加する面々も様々思うところはあるようだが意見も出てこない。誰もが納得する内容だからな。

「それと、何か揉め事があったらすぐ俺のところに来てくれ」

 これだけ言っておけば問題が大きくなる前に俺のところで何とかなるはずだ。前の時間軸ではもう手をつけられなくなってから俺の元にやって来てたからな。夕陽は俺の堂々たる様子を見て、笑いを堪えているようだった。おい

「立花くん凄いね!よし、この方向で行きましょう。異論のある方は挙手を」

 ばらつきながらも次第に拍手が起きる。会議の後、俺と夕陽は文芸部に戻りタイムマシンに乗り込む。

「これでどうにかなってると思う? 監督」

「正直分からん。けれど少しは良くなってるはずだ」

「だよね! えっと、帰る前にロト買って来てもいい?」

 夕陽は期待の眼差しを俺に向ける。

「ダメだ。運試しぐらいズルすんな」

「え〜、ケチ」

「帰るぞ」

「うん。けど、なかったことになるんだよね……」

 夕陽が最後に言った言葉は鮮明に聞こえなかった。そうしてまた、文化祭一日目の正午に戻った。

「戻ってこれたね!よ〜し堂々と帰ろう監督!」

「ああ!」

 文芸部を意気揚々と出て行ったが、結論から言ってしまえば前の時間軸よりも酷い結果となっていた。大道具も小道具も未完成、衣装もチープなものとなり、肝心の劇もどこか薄っぺらくなっていた。以下、脚本の話。

「みんな自分の委員会や部活が大事だからってクラスの出し物も手伝わずに……。夕陽さん、本当にありがとう。あなたがいなければ劇としての体裁を保つことはできていなかったわ。監督……私はあなたの意見悪くなかったと思うのだけれど、じゃあ監督がやればいいじゃんってみんな……。ごめんね、違うの。私が泣いても何も……。まだあるから、頑張ろう。私も頑張るから」

 以上、脚本の話。

「やり直しだ」

「……うん」

 こんな結末があっていいはずがない。もっといい方法があるはずだ。みんなが意欲的に参加できて、尚且つ対立が起こらない方法があるはずだ。脚本が泣いていいことなんて絶対ない。悲しみながらアリスを作るなんて、あってはならないことだ。

「次はうまくやれるはずだ。次こそは」

「あのね、監督」

「何だ? もう行くぞ」

「えっと、ね。私……タイムリープするのよくないと思ったり思わなかったり……」

「夕陽もこんな結末じゃ嫌だろ」

「うん……それはそう。けど……」

「何だ、何が良くないんだ」

「なんてことはないんだけどね私……前の時間軸で告白されたんだ。みんなが争ってる時に、帽子屋役の時庭くんから」

「……」

「それがさ、こっちではなかったみたいで……元から断ってたから何てことのない話ではあるんだけど。そういうのも全部消えちゃうのは……」

 夕陽はそう言って悲しく笑った。だが、今より悪くはならないはずだ。

「……行くぞ」

 俺はタイムマシンのレバーを引いた。けど何も変わらなかった。また引いた、何も変わらない。何回とんでも、何回やり直して、変わらない。何も変わらない。どれだけ選択肢を変えても、どれだけ前に戻っても。文化祭は失敗した。それが運命で、避けられないものであるかのように、俺たちの前に立ちはだかる。試行回数は百回を超えたあたりから、もう数えなくなった。

「もういいんだよ……監督」

「ダメだ……ダメなんだ。みんな幸せにならなくちゃダメなんだ!」

「私ね、楽しかったよ。一番最初の世界線」

「何を……」

「時庭くんから告白されてね、自分の気持ちに気づくことができたんだ。数学ができないなんて嘘」

「……」

「監督に……立花くんに教えて欲しかったんだ。監督と主演女優はずっと一緒で、だから君の頑張りは全部知ってた。ありがとう、だから大丈夫。私が側にいるから」

 何回戻ったかもう覚えていない。一ヶ月ずっと滞在したこともあった。けれど何も変わらなかった。何も、うまくいかなかった。だが、それでも……夕陽だけはずっと横で笑っていてくれた。視界がぼやける。柔らかな感触が俺を包む。

「悲しみも後悔も楽しさも、全部受け入れて私たちは前に進むんだよ。それも私たち。失敗も私たち。きっと神様もさ、だから禁断の果実なんか置いたんだよ。それでも進む私たちを見たくて」

「……時間の枠から外れた俺たちはどうなるんだろうな」

「ついて行くよ、どこまでも。ゲームはマルチプレイしてこそってね!」

 そうして正史を歩むことを決めた。俺は、ループを止めた。争いも諍いも大滑りもそのままにして、文化祭を終えた。


「これで良かったのか?」

「まだそんなこと言ってるの? キモいね」

「うん、ナチュラルに暴言が飛んできてびっくりしてるよ」

黒と青と紫が混ざったような空に、星が宝石のように光り輝いていた。月は星を邪魔しないように光を持たない。夜空に灰が舞い上がる。文化祭で使った資材を焼くキャンプファイヤーが、校庭の真ん中で行われていた。一番燃えているのはもちろん俺の組の資材だ。小道具も大道具も衣装も全てあそこに投げ捨てて、全て一mm未満の灰に化した。

「雨降って地固まるってね! みんな楽しそうだよ?」

 クラスの面々は満足そうに『演劇:不思議の国のアリス』の話をして笑い合っていた。

「しばらく演劇はごめんだ」

「私も流石に疲れちゃった」

あさひが俺の方を向き、そっと手を出す。ゆっくりとその手を握る。ここから進んで行く。後悔も悲しみも嬉しさも全部背負って、それでも俺たちは先に進むんだ。


後日談というほど時間が経っているわけでもないが後夜祭も終わりに近づいた頃、俺は一つの大役を成し遂げようとしていた。そう、タイムマシンの返却である。文芸部から科学部まではそう遠くない。他の誰にも見られないようにタイムマシンを脇に抱え、科学部室のドアを開ける。そこには意外な人物がいた。

「時庭?」

「ああ、そんなことだろうと思ったよ」

 俺の声かけにも応じず、タイムマシンをチラリと見ただけでそう言った。月の光をメガネが反射する。

「どうしてここに……」

「どうもこうも、僕が科学部の部長だからさ」

「普通に知らなかった」

「失礼だな、勝手にタイムマシンを持ち出しておいて」

 それが当たり前であるかのように時庭はタイムマシンと言った。つまり、そういうことなのだろう。

「悪かった。勝手に使って申し訳ない」

「……別にいいさ。変なやつに使われなくてホッとしてるぐらいだよ。夕陽は、まぁ変なやつだけど……」

 時庭は声を徐々に小さくしながらそう言った。事情は把握しているらしい。

「どうしてあさひの事まで」

「“それ”が答えだよ、立花。元々僕は夕陽に告白する予定だった。けれど、文化祭の第一回会議の時点で明らかに君たちの関係が以前のそれとは違うことに気づいた。ただそれだけのことさ」

 つまり、時庭は最後のタイムリープ時点で正史を辿らなかった事になるのか。

「悪い」

「謝るな、どうせ失敗してたんだろうし」

「……やり直そうとは思わなかったのか?」

「別に。というか僕は元々タイムマシン、もとい『ラプラスの悪魔』を壊す予定だったんだ」

 そんな名前だったのか、これ。

「なんでだ? 理化学研究所にでも送れば今後のノーベル賞十年は硬いと思うが」

「人類には早すぎたんだよ。タイムマシンを運用するだけのシステムも、価値観も倫理観も、諸々が百年は足りてない」

 時庭の発言から鑑みるに相当なチート機械であることが分かる。じゃあこんなところに置いておくなよ……とも思うが実際に使うアホがいることもまた想定されていなかったのだろう。時庭は窓から校庭のキャンプファイヤーを眺めていた。

「ところで、こいつの原理は何なんだ? 名前から推察するに量子力学的な機械であるとは思うんだが」

「エネルギーは人間の思考力だ。エネルギー保存の法則から逸脱した別次元の宇宙から力を引いてきて、時間跳躍のためのエネルギーにしている。原理は立花の言うとおり、量子に関わる一切の演算さ」

「それはどういう……」

 俺は全くもって理解できていなかった。時庭は不機嫌そうに俺を睨む。

「簡単に言えば突拍子もない妄想をエネルギーに変えているってことだ」

「別のことにエネルギー使えよってやつか」

「断じて違うからな」

 そう言って時庭はため息を吐く。

「ま、いいさ。幸せになれよ、立花。夕陽を泣かしたりさせたらタイムマシンを復活させるからな」

「分かった。俺の生涯をかけて、その約束は守る」

「……ならいい」

 時庭はまたため息を吐いて机の上に座った。何とも微妙な空気が流れる。

「なんだ?」

 誰かが走ってくるような音が聞こえてくる。その音は段々と科学部に近づき、ついにはドアを開いた。

「良かったあぁぁああ」

 息を切らして入ってきたのはあさひだった。

「びっくりした。どうしたんだよ……」

「驚いたのはこっちだよ! 文芸部戻ったらタイムマシンなくなってるんだもん……って時庭くん?」

「……どうも」

「もしかして、そのもしかして?」

「そう、そのもしかしてだ」

「えぇぇぇぇぇえええ」

 一通り事情を説明し、あらためて時庭とあさひが対面する。

「ごめんね……その、なかったことにしちゃって」

「いいよ、その話はもう終わった事だ」

「いやぁでもすごいな〜、タイムマシンを作っちゃうなんて!」

「別になんて事ないさ」

 そう言いつつもあさひに褒められて時庭は恥ずかしそうに顔を背けた。ちょっと可愛いなこいつ。

「ううん、本当に凄いよ時庭くんは。ごめんね……ありがとう」

「……夕陽が楽しめたなら、こいつを作った甲斐があったと思うよ」

 そう言って、時庭はゆっくりとタイムマシンを解体していった。窓際で、三人。静かにキャンプファイヤーの火を眺めるのも悪くない。そんな文化祭の終わりも、悪くはない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黒髪のアリス 宇治抹茶ひかげ @hikagenon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ