第12話

 茅森かやもりが緑色のチェックペンで、教科書の用語を塗りつぶす。そこへ赤シートをかざすと塗りつぶした箇所が墨塗教科書みたい真っ黒になって、暗記に最適なのだとか。


 それにしても、茅森かやもりに指摘された「雪見」とは正しい言葉なのか、造語なのか。

 茅森かやもりがマーカーとチェックペンで教科書を改造しているうちに、私は教室後方に設置されている本棚に近づいて広辞苑を開く。


 第七版の、広辞苑。


 ゆきみ、ゆきみ、ゆきみ…………。

 ……あった。「雪見」。


 言葉と言葉が交錯するお堅い世界に辟易しつつ、ちらりとその意味をのぞけば、雪景色を眺めること的なことが書かれていた。

「雪見」とは「だいふく」のことじゃなくて、ちゃんとした意味を持った言葉だったのだ。私は何気にドヤ顔で茅森かやもりにそのことを告げると、またもや苦笑いしつつ「さすがに広辞苑の言葉は疑えないわね」と認めてくれた。えっへん。


 教科書の塗りつぶされたセクションは「第七章 万有引力」だ。「第一宇宙速度」だとか「ケプラーの法則」だとか、目にするだけで呻きそうになる言葉の数々。


 塗られていく教科書をぽけーっと眺めながら、私はふと「物理」ということで連想したことをぽつりと口に出してみる。

 それは、私が、高校に入学して「物理」という授業を受けたときからずっと抱いていただった。


「ねぇ。どうして、物理の世界には『悪魔』が頻繁に持ち出されるんだろうね?」

「悪魔……?」


 茅森かやもりがぴんときていないようで、首を傾げる。


「ほら。『ラプラスの』とか『マクスウェルの』とか。私、ちょっと不満なんだよね。『悪魔』ってモチーフがさ」

「不満? 別にわたしは気にしたことないけど……。何がどう不満なの?」

「んー……、なんていうかさ、『悪魔』って言葉よりも『天使』って言葉のほうが色々と素敵な響きじゃない? 私的にはそっちのほうが好きなんだよね」


 まぁ、確かにねぇ、と茅森かやもりは少し視線を上に向けてから言う。手を動かすのを一切止めようとしないところは、シングルタスクな私にはとてもできそうにない神業だ。


「でもそれは、わたしたち現代人からすればって言語感覚なんだよね。『悪魔』を英語でいえば『demon』なんだけど……」


 そこから始まった茅森かやもりの講釈にほうほう、と耳を傾ける。


 どうやら「悪魔」——「demon」の古い英語としては、「daemon」であり小文字の「a」が一つ余計に多く、またその概念はギリシャ語からきているものらしい。

 ギリシャ語の世界では、「daemon」というのは、人間と神様のあいだをやり取りするいわゆる仲保者的な立場、神様に代替して人間に働きかける精霊みたいな存在。

 元来その精霊は、「悪」の象徴だったり「悪」を司る存在であったわけではない。むしろ、神様に近い「超越的存在」や「神聖」的な印象のほうが強かったらしい。


「そこから時代が進んで、人間がその超越的存在にそれぞれ『善悪』という概念を与えて、『天使』は正の象徴に、『悪魔』は負の象徴になったわけ。デーモンもエンジェルも最初は神様に近しい存在に過ぎなくて、『天使=神聖』とか『悪魔=邪悪』みたいなイメージは元来からあったものではないらしいよ」


 教科書にペンをこすりつける茅森かやもりの手がそこで止まる。「第七章 万有引力」の章末のページだ。

 ちらっと目を向けると、ちょうど77ページで、ゾロ目のラッキーナンバー。

 

 楽しくなって、でーもん、でーもん、でーもん、と口に出して繰り返していると、だんだんと音的に「揉んでー、揉んでー」と言っているような気がしてやめた。

 変な妄想とかしちゃうし。それに、好きな人の目の前で変なことを繰り返して言うのはやっぱり恥ずかしかった。……あぁ、もう一人で勝手にほっぺ熱くなってるし。


 作業を終えた茅森かやもりが、ふう、と落ち着きの息を吐いた。ポケットから三日月型の櫛を取り出して優しい手つきで髪をとかし、黒いゴムで一本結いにした。


 その、びん櫛に吸い寄せられるようにして目がいった。持ち手の部分が黒く上品に染められた美しく綺麗なそれが、茅森かやもりにはよく似合っていた。


「その櫛……なんというか、高そうな代物だね」

「代物って。まぁ、誕生日にお母さんがくれた大切なものだよ」

「綺麗。持ち手、真っ黒で」

「漆塗りなんだって。だから、ここまで上品に真っ黒いの」


 へぇ、漆。


「そういえば誕生日って言ったけど、茅森かやもりっていつなの?」

「七月七日。つい二週間前」


 なんて運命か。ここにもラッキーナンバーが。

 もうほとんどこじつけに近いレベルである。


 私が一人で勝手にうきうきしているのを、なんだか胡乱げな目で見つめる茅森かやもり

 いや、胡乱げというよりは半目がち……いやいや、というよりは伏し目がちだ。


 芹沢せりざわはちょっと恥ずかしそうに肩を揺らすと、意を決して訊ねるみたいにして。


「……えっと、それじゃあ芹沢せりざわの誕生日はいつなの?」


 その顔は、ちょっと赤かった。


 私は、意気揚々と答える。


「実はね私もゾロ目なの。聞いて驚きたまえ。なんと、六月六日なのだ」

「え……? 六月六日なの……?」


 私がむんと胸を張って言ったのに対し、茅森かやもりはなんだか気落ちした調子だった。

 なんで? と目で訊ねれば、それは当然といえば当然の回答で。


「……だって、六って悪魔の数字でしょ」


 ……あぁ、なるほど。私、6×6=ダブル悪魔あくまなのか。


 おーい、ラッキーナンバーどこいったー。

 さっきまでラッキーナンバー、ラッキーナンバーと喜んでいれたのに、どうも現実はこんなにもうまくいかない。


 六と七は隣り合わせ。

 そういう連想をしてしまってからは、天使と悪魔が仲良く隣り合わせで座っているような情景が浮かんでしまう。

 何故か、私の脳内では、天使のほうに、二日前に生徒玄関で出会った、金髪をハーフアップに結った青い瞳の名も知らぬ美少女が座っていた。少女は笑っていた。


 視線を机に下ろすと、私はへにょへにょになった紙飛行機と目が合った。

 そこにはやはり、「三十六点」と悪魔あくま悪魔あくました数字が書かれているのだった。






× × ×


 茅森ラプラス先生の指導プランとしては。


 まずは、教科書を参考に用語と公式の意味をしっかりと頭に入れること。

 次に、公式が定着してきたら教科書に載っている例題に手を出してみること。

 最後に、教科書の章末問題や参考テキストといった、いわゆる標準レベルの問題が解けるようになること。


 その大括りのスリーステップで、進行していくらしい。


「ふぇ……」


 いざそのプランに沿って勉強開始となると、なんだか大変そうで気が遠くなる。


 だけど、普段なら教科書を閉じたい気持ちでいっぱいの私も、好きな人の前ではちょっとぐらい頑張って手を動かしてみる気にはなるものである。

 用語の説明をさらっと終えたところで、茅森ラプラス先生による公式解説が始まる。茅森ラプラス先生はぽてぽてと黒板の前まで歩いていって、チョークを握った。


「万有引力っていうのはまず、二つの天体間の距離の二乗に反比例する」


 ほうほう。

 なるほど。


「次に、万有引力は二つの天体の質量を掛けたものに比例する」


 ほうほうほう。

 なるほどなるほど。


「前述した距離と質量の関係式に万有引力定数Gが合わさると、教科書に載ってある通りの公式になる」


 ほうほうほうほう。

 なるほどなるほどなるほど。


「これが、万有引力の公式」


 茅森かやもりがカチカチ、とチョークで公式をつつきながら言う。「F=GMm/r²」。


 茅森かやもりが私に振り返る。


「どう、わかった?」

「ごめんなさい。全然わかんないです」


 がくり、と茅森かやもりがずっこけた。なんてオーバーリアクション。


「……わ、わかんないって。これ、公式を理解するうえで前提の説明だよ? こんなところでつまづいてたら、一生物理克服できないよ」

「いやいや、その前提すら理解してなかったから赤点ギリギリなんじゃないですか」

「なんで教わる側がそんなに偉そうにしてんの。もうちょっとわかろうしなさいよ」


 わかろうとする努力はしてるよ。授業中だって、補習中だって。


「だけど理系チックなワードが飛び交うと途端に眠くなっちゃうんだよね。理系アレルギーってやつなのかな」

「理系アレルギーって」

「公式を覚えるなら、もうちょっと気楽な感じで頭に入れたいんだけど。語呂合わせとかダジャレとか、言葉遊び的なやつで」

「語呂合わせ。周期表覚えるときみたいに『水兵リーベ、ぼくの船』的な?」

「そうそう。そんな感じの。万有引力の公式にも、そういうのないの?」


 うーん……、と茅森かやもりが首を傾げる。

 そして頭の中でわきたつ言葉をちょこちょこと黒板に書きつけると。

 

 茅森かやもりは少しニヤついて、こんなことを言い出した。


「語呂合わせとか言葉遊びにはならないけど」

「なに?」

「万有引力の公式って、恋愛で比喩的に表せなくはないかもね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

百合ときどきクモリ。 安達可依 @todokakushi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ