第12話
それにしても、
第七版の、広辞苑。
ゆきみ、ゆきみ、ゆきみ…………。
……あった。「雪見」。
言葉と言葉が交錯するお堅い世界に辟易しつつ、ちらりとその意味をのぞけば、雪景色を眺めること的なことが書かれていた。
「雪見」とは「だいふく」のことじゃなくて、ちゃんとした意味を持った言葉だったのだ。私は何気にドヤ顔で
教科書の塗りつぶされたセクションは「第七章 万有引力」だ。「第一宇宙速度」だとか「ケプラーの法則」だとか、目にするだけで呻きそうになる言葉の数々。
塗られていく教科書をぽけーっと眺めながら、私はふと「物理」ということで連想したことをぽつりと口に出してみる。
それは、私が、高校に入学して「物理」という授業を受けたときからずっと抱いていた不満だった。
「ねぇ。どうして、物理の世界には『悪魔』が頻繁に持ち出されるんだろうね?」
「悪魔……?」
「ほら。『ラプラスの悪魔』とか『マクスウェルの悪魔』とか。私、ちょっと不満なんだよね。『悪魔』ってモチーフがさ」
「不満? 別にわたしは気にしたことないけど……。何がどう不満なの?」
「んー……、なんていうかさ、『悪魔』って言葉よりも『天使』って言葉のほうが色々と素敵な響きじゃない? 私的にはそっちのほうが好きなんだよね」
まぁ、確かにねぇ、と
「でもそれは、わたしたち現代人からすればって言語感覚なんだよね。『悪魔』を英語でいえば『demon』なんだけど……」
そこから始まった
どうやら「悪魔」——「demon」の古い英語としては、「daemon」であり小文字の「a」が一つ余計に多く、またその概念はギリシャ語からきているものらしい。
ギリシャ語の世界では、「daemon」というのは、人間と神様のあいだをやり取りするいわゆる仲保者的な立場、神様に代替して人間に働きかける精霊みたいな存在。
元来その精霊は、「悪」の象徴だったり「悪」を司る存在であったわけではない。むしろ、神様に近い「超越的存在」や「神聖」的な印象のほうが強かったらしい。
「そこから時代が進んで、人間がその超越的存在にそれぞれ『善悪』という概念を与えて、『天使』は正の象徴に、『悪魔』は負の象徴になったわけ。デーモンもエンジェルも最初は神様に近しい存在に過ぎなくて、『天使=神聖』とか『悪魔=邪悪』みたいなイメージは元来からあったものではないらしいよ」
教科書にペンをこすりつける
ちらっと目を向けると、ちょうど77ページで、ゾロ目のラッキーナンバー。
楽しくなって、でーもん、でーもん、でーもん、と口に出して繰り返していると、だんだんと音的に「揉んでー、揉んでー」と言っているような気がしてやめた。
変な妄想とかしちゃうし。それに、好きな人の目の前で変なことを繰り返して言うのはやっぱり恥ずかしかった。……あぁ、もう一人で勝手にほっぺ熱くなってるし。
作業を終えた
その、びん櫛に吸い寄せられるようにして目がいった。持ち手の部分が黒く上品に染められた美しく綺麗なそれが、
「その櫛……なんというか、高そうな代物だね」
「代物って。まぁ、誕生日にお母さんがくれた大切なものだよ」
「綺麗。持ち手、真っ黒で」
「漆塗りなんだって。だから、ここまで上品に真っ黒いの」
へぇ、漆。
「そういえば誕生日って言ったけど、
「七月七日。つい二週間前」
なんて運命か。ここにもラッキーナンバーが。
もうほとんどこじつけに近いレベルである。
私が一人で勝手にうきうきしているのを、なんだか胡乱げな目で見つめる
いや、胡乱げというよりは半目がち……いやいや、というよりは伏し目がちだ。
「……えっと、それじゃあ
その顔は、ちょっと赤かった。
私は、意気揚々と答える。
「実はね私もゾロ目なの。聞いて驚きたまえ。なんと、六月六日なのだ」
「え……? 六月六日なの……?」
私がむんと胸を張って言ったのに対し、
なんで? と目で訊ねれば、それは当然といえば当然の回答で。
「……だって、六って悪魔の数字でしょ」
……あぁ、なるほど。私、6×6=ダブル
おーい、ラッキーナンバーどこいったー。
さっきまでラッキーナンバー、ラッキーナンバーと喜んでいれたのに、どうも現実はこんなにもうまくいかない。
六と七は隣り合わせ。
そういう連想をしてしまってからは、天使と悪魔が仲良く隣り合わせで座っているような情景が浮かんでしまう。
何故か、私の脳内では、天使のほうに、二日前に生徒玄関で出会った、金髪をハーフアップに結った青い瞳の名も知らぬ美少女が座っていた。少女は笑っていた。
視線を机に下ろすと、私はへにょへにょになった紙飛行機と目が合った。
そこにはやはり、「三十六点」と
× × ×
まずは、教科書を参考に用語と公式の意味をしっかりと頭に入れること。
次に、公式が定着してきたら教科書に載っている例題に手を出してみること。
最後に、教科書の章末問題や参考テキストといった、いわゆる標準レベルの問題が解けるようになること。
その大括りのスリーステップで、進行していくらしい。
「ふぇ……」
いざそのプランに沿って勉強開始となると、なんだか大変そうで気が遠くなる。
だけど、普段なら教科書を閉じたい気持ちでいっぱいの私も、好きな人の前ではちょっとぐらい頑張って手を動かしてみる気にはなるものである。
用語の説明をさらっと終えたところで、
「万有引力っていうのはまず、二つの天体間の距離の二乗に反比例する」
ほうほう。
なるほど。
「次に、万有引力は二つの天体の質量を掛けたものに比例する」
ほうほうほう。
なるほどなるほど。
「前述した距離と質量の関係式に万有引力定数Gが合わさると、教科書に載ってある通りの公式になる」
ほうほうほうほう。
なるほどなるほどなるほど。
「これが、万有引力の公式」
「どう、わかった?」
「ごめんなさい。全然わかんないです」
がくり、と
「……わ、わかんないって。これ、公式を理解するうえで前提の説明だよ? こんなところでつまづいてたら、一生物理克服できないよ」
「いやいや、その前提すら理解してなかったから赤点ギリギリなんじゃないですか」
「なんで教わる側がそんなに偉そうにしてんの。もうちょっとわかろうしなさいよ」
わかろうとする努力はしてるよ。授業中だって、補習中だって。
「だけど理系チックなワードが飛び交うと途端に眠くなっちゃうんだよね。理系アレルギーってやつなのかな」
「理系アレルギーって」
「公式を覚えるなら、もうちょっと気楽な感じで頭に入れたいんだけど。語呂合わせとかダジャレとか、言葉遊び的なやつで」
「語呂合わせ。周期表覚えるときみたいに『水兵リーベ、ぼくの船』的な?」
「そうそう。そんな感じの。万有引力の公式にも、そういうのないの?」
うーん……、と
そして頭の中でわきたつ言葉をちょこちょこと黒板に書きつけると。
「語呂合わせとか言葉遊びにはならないけど」
「なに?」
「万有引力の公式って、恋愛で比喩的に表せなくはないかもね」
百合ときどきクモリ。 安達可依 @todokakushi
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