第一章

 パイプ・オルガンの発する緩やかな音色が、僕の冥想を掻乱した。どうやら、聖堂での、神父による、退屈かつ冗長な説教が、ようやく終わったようであった。少しばかりの沈黙を挟んだ後、荘厳かつ神聖な調べが、耳元に高々と響きわたる。修道女は、全員奏者として参加するので、聖歌隊の歌声がないにもかかわらず、グレゴリオ聖歌の「キリストよ憐れみ給え」なる祈りの言葉が、脳髄に反響するのであった。この修道院においては、宗教儀式的様式に、異様なまでの重要性が割り当てられていて、華美を極めており、やけに高級感のある、曙光のごとききらめきを放つ金管楽器だとか、修道女の比類ない演奏技術だとか、常軌を逸しているところがあった。新参者の僕は、奏者として参加していないのだが、かかる豪勢で、中世的な精神を思い出させる演奏を、聴いていられるのは、役得と言えよう。

 僕の生活することとなった施設が基盤とする宗教について説明すると、キリスト教に属する一派であった。申すまでもないことだが、信仰者の人口が最多であるキリスト教においても、正統派と異端派とが存在している。この修道院の分派は、僕の聞いたことの無い名であった。とはいえ、修道院の古典宗教的なゴシック形式の立派な建築様式だとか、長大な歴史を感じさせる骨董趣味的な祭具の数々が所蔵されていることだとかから、推察するところ、新興宗教団体の類には思われなかった。現に、聞くところによるとであるが、原始キリスト教から、連続的な系譜を有する伝統的教会であるらしかった。

 カトリックにおける東西教会の分裂が最たる例であって、さらに歴史を遡って、エフェソ公会議だとかカルケドン公会議だとかについてもだが、伝統的な分裂に於ける直接的要因は、極めて些細な教義論争にある、と言えよう。けれども、この修道院の属する一派は、早い段階で、教義の解釈だとか翻訳だとかの問題ではなく、いまとなっては昔の事だそうだが、反社会的性格や無法行為が問題視され、他の分派や団体から武力的総攻撃に遭って、分裂に至ったようであった。そのため現在も、この一派は、秘教的な、秘密結社めいた性格を帯びていて、人目に触れる機会が少ないそうである。

 演奏が終わると、カトリック教会でいうところの、ミサのような儀式が執り行われる。これが、いささか特異なものである。

 少女の一人が、祭壇の前へと立って、修道服を脱ぎ捨て、裸体となった。恥じらう仕草も見せず、祭壇上に横たわる。神父は、そはわが肉なり、そはわが血なり、とか言って、聖杯に注がれた、媚薬と血液とを混ぜた液体に、人肉を浸して口にする。しばしの沈黙がおとずれ、聖堂は緊張に包まれる中、神父は、一物を取りだす。そしてそれを、少女の膣に挿入し、中で精液をぶち撒ける、といった次第である。アウグスティヌスの解釈によると、アダムとイヴの楽園追放の原因となった原罪というのは、アダムとイヴが性交渉をおこなったことであって、この一派は、人間は、儀式的にその性交渉を再現するなかで、贖罪することを、毎日の義務として定めた。

 この淫靡な儀式は、十七世紀において破戒僧を風靡した黒ミサと、極めて似通った様相であるように思われるが、当事者らにとっては、由緒ある儀式であって、黒ミサと自称することはないし、まして、悪魔崇拝のつもりは、微塵もないようである。それに、放蕩貴族などによってされていたように、快楽主義的な目的のもとにおこなわれるのではなく、むしろ禁欲主義的な意識のもとにおこなわれていたのである。天使たらんと欲する者は獣であらねばならず、というパスカルの警句にもあるが、過剰な禁欲主義は、却って、人間の理性を破壊するのであろう。

 さようなことが日常的に行われるような宗教的団体なので、僕は、自分の性別を自ら公言することはしなかったのだが、外見に反して、性別が男であることが神父に露呈するのは、この修道院に来て、間もなくであった。この修道院で、衣食住を提供されている少女連中は、その見返りとして、神父に性的快楽を提供することが条件づけられている。男である僕は、性的奉仕を免除される、という訳でもなく、神父の病的な異嗜症を満足させるに過ぎなかった。度々、呼び出されるや、手や口を使って、彼の陰茎を刺激することを命じられるのである。

 とはいえ、僕の性別は、一緒に暮らす少女の間では、特に知られていなかった。性器を確認でもされない限り、知られることはないので、強いて知られる機会もないのである。

 一日に一度、朝方に、子供だけで、野外で裸体になり、一斉に水浴びをして、身体を洗い流すきまりがある。性器を確認される可能性があるのは、そのとき程度なのだが、少女たちは、互いの身体を事細かに観察する、というわけでもないので、未だ知られていない。一方で、少女の裸体というのは、僕にとって、物珍しく、関心を惹くにたるものであったので、僕は、つぶさに観察していた。裸体の輪郭を描く曲線は、いかなる自然の被造物よりも美しいものであるように思われた。

 僕は、一人の少女と、友情を深めていた。莉愛という名前であった。彼女も、最近になって、この修道院で暮らすことになった者であるらしく、僕と似たような経緯で、いつの間にか、目を覚ますとこの森の奥の修道院にいたので、他に、生きるすべが無かったようである。というのも、ここの神父は、度々、好みの少女を都市で発見しては、拉致し、この修道院に連れ込んでいる、との話であるようだ。

 莉愛は、この修道院における社会的狂気に、完全に毒されておらず、人並以上の、羞恥心というか、品格を保っていたし、修道院の規則に反発的な思想をもっているところも、美しく思われた。一方で、教義のためにか、あるいは、修道院に於ける社会的地位の確立のためにか、かの悪徳神父を盲信し、喜んで身を任せる少女どもは、女特有の生来の愚かしさに加え、動物的な性質を強く感じさせ、興味を感じさせないどころか、ひどくうんざりさせられた。

 修道院の腐敗を取り除くべく、莉愛と僕は、結託することになった。莉愛は、修道院の悪習を改善し、自分のような犠牲者がこれ以上増えないように、働きかけたかったらしく、それにあたり、味方を欲していたらしい。

修道院は、厳格な年功序列社会だ。新参者の僕たち二人は、修道女のなかで、権利も地位も乏しいので、知恵を絞る必要があった。

 僕にとって、修道院の腐敗は、別に解決しなくとも良かったのだが、莉愛の気高い志を素敵に思った。お近づきになって、この美徳に溢れた莉愛が、あのミサの女のごとく、堕落する姿を、苦痛と快楽とに歪む表情を、是非ともお目にかかりたい、と思った。僕が初めて、性的興味を抱いた相手であった。

 莉愛についても、僕を女子だと勘違いしている。隙を見て、絶対に強姦してやろう、と僕は心の中で決意した。

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伽藍 閨房哲学 @sodome

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