未来は僕らの手の中

野墓咲

未来は僕らの手の中

「君たちには力がある」


 教室に凛とした声が響いた。俯いていた少年はハッとして机から顔を上げ、教壇の方を見た。見上げる視線の先にはあったのはパリッとした白いワイシャツを着た男で、その眼には太陽が宿っていた。男は机に手をつき、溌溂とした笑みを浮かべるともう一度ハッキリと繰り返した。


「君たちの手には無限の力が握られているんだ」


 笑みから覗く白い歯が窓から差し込む日光に当たってきらりと光った。


「これからの世界を創るのは君達なんだ。生徒諸君、信じて欲しい。未来は君たちの手の中にある。君達には無限の未来が待っているんだ」


 話を終えると飯田薫と言うその教師はまるで喝采を浴びたかのような顔で頭を下げた。実際の所、生徒達の殆どは無気力な顔で話を耳から左へと流しただけだったが、少年だけは違った。彼はHRの後、興奮した様子で新任教師の下に駆け寄った。


「先生、さっきの話は本当でしょうか」


「ああ、本当だとも」飯田は身を屈め少年に目線を合わせると、冷たいその手を大事そうに両手で包んだ。


「君のこの手にあるのが未来だ」


 少年は飯田の両手から自分の手を放し、己の手を裏返して掌をじっと見つめた。やがて諦めたように首を振った。


「僕には何も見えません」


「見えなくてもあるんだ。まずは信じる事だ。君のその力が新しい世界を創るんだ」 


 




 お昼時、少年は廊下の中庭に面した窓から空を眺めていた。彼はあの教師の言葉を反芻していた。不思議な事を言う人だ。僕に力があるなんて。


 彼は自分の手を太陽にかざしてみた。五分程そうしているとやがてその掌の中心にほのかに熱を感じた。目に見えないエネルギーが確かにあった。少年は思う。これが〝力〟なのだろうか。


 彼は窓の外に手を伸ばした。その先には樹齢50年以上の桜の木があった。創立以来からあるその木にはさび菌が寄生していて、コブがあちこちに発生していた。少年はその中でもひと際大きなコブに目をつけた。胎児のように丸まって木の幹に寄生しているそのコブまでは5メートル程だった。彼は窓から手を出すと掌をゆっくりと閉じた。


 何も起こらなかった。これは狙いが漠然としていたせいかもしれないと思った彼は、もっと具体的にイメージする事にした。もう一度手を伸ばし、意識を集中させた。頭の中で自らの手で潰されるコブを思い浮かべてからゆっくりと手を閉じた。さっきよりも更に緩やかに、頭の中にあるイメージを徐々に世界に浸透させるかのようにそろそろと。


 やがて不思議な感覚が彼を襲った。ジーンと鈍く重いその感覚は頭部の後ろ側から現れ、忽ち彼の意識全体に広がっていた。自分の意識に何か重大な変化が起きていると感じた。


 やがてコブの周辺に5つの亀裂が入った。そしてバキバキと音を立てると亀裂が中心にまで広がりコブが破裂した。骨が破裂するような乾いた音が辺りに響いた後、コブの破片が落下し、木の下に降り注いだ。


 彼はコブのあった場所をまじまじと見つめた。無残に破壊されたその真ん中には大きな穴が開いていていた。中では暗闇がじっと少年を見つめ返していた。がらんどうの闇を見ている内に、少年は胸の内から何かが沸き起こってくるのを感じ、窓から手を引っ込めるとその手を隠すように胸に抱きながらその場を逃げ出した。彼は自身の異常な体験に殆どパニックになっていて、逃げる自分の背中を冷たい視線が追っている事に気づかなかった。


 次の日のお昼休み、彼は屋上に続く階段の裏で一人、母手製の弁当を広げていた。乾奈々が少年に手製の弁当を持たせたのは、生まれて初めての事だった。その日は奈々が今までの自堕落な生活と息子に対する虐待を反省し、生まれ変わろうと決意した最後の日だった。しかし、少年には母の最後の愛を感じ取るだけの心の余裕はなかった。


 少年が弁当箱を開けると中に入っていたのは好物のハンバーグだった。冷えて白くなった肉汁がハンバーグの周りを覆っている。何時もなら心を躍らせるその光景も今は色褪せて見える。昨日の事を思うと不安で胸が苦しくなって、何も食べる気がしない。


 ふと少年は目の前にある二つの太い足に気づいた。顔を上げると、がっしりと太った短パンの少年が腕組みをしてこちらを見下ろしていた。運動靴の赤いラインを見る限り上級生で、5年か6年だろう。見知らぬその顔に少年が何か尋ねようとすると、彼はトイストーリーの弁当箱を太い足で蹴り上げた。空中で一回転した後、ハンバーグは惨めに床に落ちた。汚れた運動靴でハンバーグをゆっくりと踏みつぶすと、その上級生は青い短パンの尻ポケットから黒ずんだ木の破片を取り出し少年に向かって放り投げた。


「昨日は腐れ枝をありがとう、ゴミムシ君」






 少年は犬が好きだった。特にラブラドールの黄金の毛並みを愛したが、少年自身はどちらかと言うと打ち捨てられた野良犬の様な容貌をしていた。細く色の薄い黒髪は如何にもみすぼらしく真横に垂れさがっていて耳のよう。目は大きく常に濡れていて、泣いているように見える。頭頂部には常にフケが散らばっていて、大人達が彼を見る時は真っ先にそれが目に入った。彼らはそれを見ても顔を顰めるばかりで、その荒れた頭皮と飴玉のように薄い目が栄養失調と虐待の結果であるとは誰も気づかなかった。少年も誰かに助けを求めようとしなかったし、そうしようとも思わなかった。実の親が助けにならないのに赤の他人が助けになるなどとは考えにも及ばなかったのだ。


 少年が4年生になってから新たな苦難が加わった。いじめだ。その首謀者は上の学年のクラスの太った男子生徒で西方俊介と言った。彼は5年のボスである自分の頭上に事もあろうに腐った枯れ木を投げつけてきた無礼な下級生を決して許さなかった。


 以前にも少年に対するいじめの様なものはあったが、女子が彼と隣になるや否や机を離したり、机に悪口が彫られたりなどその程度のものだった。惨めな気分にはさせられるものの、真冬のベランダに裸で放り出される事と比べれば遥かにマシだった。


 しかし、西方が主導のいじめは両親のそれほどではないにしても死に近いものだった。お昼休みや放課後は校舎裏で彼を実験台に格闘技の練習が行われた。力に関しては父親よりは弱いのだが彼らは子供だけに加減を知らなかった。


 ほぼ同時期に母親が新しい父親と再婚した。相手は元ホストの生活受給者だった。その男はコロナで職を失ったため乾家に転がり込み菜奈と籍を入れた。最初出会った時、その男はとても優しい人に見えた。目は長い前髪に隠されて良く見えなかったが、口元には常に薄っすら笑みを浮かべていた。少年は初めて父親が好きになれそうな気がしたが、それは間違いだった。新しい父親は、今までで最も暴力的で、かつ表情が読めなかった。機嫌が良い時も悪い時も全く同じ顔で笑った。ニコニコ笑っているから機嫌が良いのかと思っていると次の瞬間拳が飛んでくる。予測不可能な突発的暴力のせいで、少年は今まで以上に家庭内で怯えて暮らすことになった。


 母親の菜奈の少年に対する態度は合成麻薬を知ってから、落下するような速度で悪化した。弁当を作ったのは最初の一日だけで、二日目の朝は部屋から出てくる事すらなかった。トリップしている時は異様に攻撃的になるらしく、よく夫と二人がかりで拷問と言っても良い程の虐待を行った。母性を司る脳細胞は既に死んでいた。


 そんな折、飯田薫が特別授業を行った。内容は「自分の悩みと向き合おう」と言うものだった。クラスでお互いの悩みを言い合い、その解決についてクラス全体で語り合うと言うものだったが、少年はその授業中、一言も喋る事が無かった。授業の最後、飯田はクラス全員にプリントを配った。


「口には出せない悩みは書いてみると良いぞ。そして客観的に自分の悩みを見つめなおしてみるんだ」


 そこで少年は、生まれて初めて自らの苦しみを言葉にした。誰にも言えなかった想いが、するすると紙面に表れた。想いはA4用紙には収まりきらず、裏面にもびっしりと書いた。彼はやはり飯田薫は凄い先生だ、と思った。口には出せない事は紙に書く、こんな当たり前の事を、どうして今まで思いつかなかったのか。


 次の日の朝、少年が登校するとクラスがざわついていた。彼が教室に入ると皆が一斉に彼を見た。皆の集まっている教室の後ろの掲示板に行くと、彼は信じ難いものを目にした。先日少年が吐き出した秘密と思いが張り出され、見世物にされていたのだ。プリントの最後には赤ペンでこう書かれていた。


「いじめや虐待になんか負けないくらい強い人間になって、自分をいじめた奴らを見返してやれ!頑張れ、君は弱い人の心を知る真に強い人間になれる」


 三つ編みの少女が、唖然として掲示板を見つめている少年に話しかけてきた。


「ねぇ、乾君って虐待されているんだよね。私、パパが警官だから相談してあげようか……」


 少年の耳に彼女の声は届かなかった。彼は再びあの不思議な感覚を味わっていたのだ。






「な、な、なんであんな事!」


 舌が震えて上手く喋れない少年を飯田は諭すような口調で宥める。


「まあ、落ち着きなさい」


 数名の教員がこちらを見ている事に気づいた少年は一瞬羞恥を感じ俯いたが、怒りがそれを上回り直ぐにキッと顔を上げた。飯田はその視線を涼しげな顔で受け止める。


「勿論、叶雄の文章が素晴らしかったからだ」


「あんな事したら、ぼ、僕は」飯田は声を詰まらせる少年の肩に優しく手を置いたが少年はそれを振り払うと言葉を絞り出した。「ま、ま、益々イジメられる。僕はもう終わりだ!」


 飯田は丸椅子から乗り出し少年の肩に両手を置くと、白い歯を見せて笑った。


「大丈夫だ。お前は強い。自分の弱さと向きあえる人間は芯に強さを持っているものだ。お前はきっと苦難を乗り越えられるはずだ。イジメなんかに負けるなよ。先生は信じてるぞ」


 少年は今ハッキリと理解した。飯田の優しさは、理屈と自己愛だけで出来ていて、他者への思いやりが欠如しているのだ。それは冷酷さと同義だった。彼は諦めたように肩を降ろすとこう言った。


「分かりました」


 職員室から出る時、少年は飯田に一瞥を向けたがそれは別の生物を見る様な冷たい目だった。


 少年は職員室を出ると、急いで教室に戻り、ランドセルに教科書を詰め込んだ。まだ放課後には早いが、今日に限って言えばサボりは気にならなかった。急いで下駄箱に上靴を詰め込み、靴を履いて走りだそうとした瞬間、少年のランドセルを誰かが掴み、彼は尻もちをついた。


 振り返ると、ひゅろ長い丸刈りの上級生が立っていた。その上級生は西方の取り巻きの一人で、仲間内からボーと呼ばれていた。彼は、いひ、と笑うと大声を上げた。


「捕まえたよ、西方君!」


 逃げようとする少年だったがランドセルをがっちり掴まれ身動きが取れず、たちまち上級生数人に囲まれた。その中の真ん中の一人は両手を広げると、芝居がかった口調でこう言った。


「ショータイムだよ、ゴミムシ君」






「チクりやがってこの馬鹿が」


 西方は吐き捨てるようにそう言うと、少年の腹を思い切り殴った。腹部にめり込む痛みを少しでも和らげようと少年は身体を折ろうとするが、後ろから背の高い上級生に羽交い絞めにされているためそれはかなわず、痛みが蛇のように身体の奥深くに食い込んでいく。際限なく増加していく痛みに少年は悲鳴を上げた。上級生たちはそれを見て笑い声をあげたが、西方だけはブスっとしたままだった。


「お陰で、先公に親に告げ口されて来週三者面談だぜ」


「西君、それマジ?」


 背の低いすきっ歯の友人に聞かれて西方は苦虫をかみつぶしたような顔で頷いた。


「ああ、しかもさっき来た親父からのラインでPS5没収するってさ」


 西方はそう言うや否や思い切り少年の急所を蹴り上げた。少年の口から潰される蛙のような音が漏れた。


「うわっ、それはひでぇ」


 背の高い上級生は顔を顰めると思わず羽交い絞めにしていたその手を離した。「しっかり捕まえてろっつたろうが!」西方が怒鳴る。少年は股間を押さえるとずるずるとその場に崩れ落ちた。


「大体何が酷いんだよ。俺だろ可哀そうなのは。折角テストで100点取ってPS5買ってもらったのに。ゴーストオブツシマだってまだ途中なんだぞ。誰の家でその続きが出来るんだよ」


 西方はしゃがむと、うつ伏せで倒れている少年の髪の毛を引っ張って無理やり顔を自分の方に向けさせた。


「お前の所にあるのか、PS5が。お前ん家みたいな生保一家の所に次世代ゲーム機があんのかよ」


 少年は口をパクパクさせて必死に返事をしようとしたが西方は返事を求めていなかった。少年の背中にまたがると後ろからその細い首にその太い腕で締め上げだした。


「え、何してんの西方君」


 うろたえる仲間達に西方は凶悪な笑い顔を見せた。


「なあ、知ってるか。人間って首を締め落として失神しても10秒以内に手を離せば死なないらしいぜ」西方は少年の耳元で囁いた。「それで許してやるよ。もし、締め落とされて10秒経ってもお前が生きていたらな」


 その囁きに冗談の響きが無い事を悟って少年は暴れたが、暴れれば暴れる程西方は少年の首を強く締め付けだした。血が止まり、視界と思考がぼやけていく。


「暴れるんじゃねえよ。寧ろ感謝する所だぜ。こんな事で許してくれるなんてな」


 少年の周りを取り囲む上級生数人も西方を止めようとしはしなかった。彼らの薄ら笑いに浮かんでいたのは、死への好奇心だった。


 このままだと自分は死ぬ。そう感じた少年は何とか右腕を使って肘打ちしたが、体重差が20キロもある相手は肉で出来た巨大な岩のようで、びくともしない。何度打っても、ただ自分の非力を感じるだけだった。


「おいおい、死ぬのが惜しくなるような人生だったのかよ」遠のく意識の中、西方の嘲るような笑い声が聞こえた。


 自分は死ぬのか。誰からも愛されず、殴られ馬鹿にされ、日の当たらない体育館の裏でただ野良犬の様に惨めに死んでいくのか。ぼやけていく思考の中でそう理解した途端、彼の奥底から突然、ある感覚が溢れてきた。


 その感覚はあの中庭の木を破壊した時に感じたものと本質的には同じだったが、あの時のようにぼんやりしたものではなかった。それは強烈なエネルギーの塊だった。少年の中でずっと眠っていた力は何億年もの間地中に沈んでいたマグマのように激しい勢いで一気に噴き出すと、ある明確な形をとった。


「おい……何だあれ」


 最初に気づいたのは西方だった。


 少年を囲む上級生たちの集団のちょうど真上の空間にそれが現れた。一見する所、透明な風船のようなそれは、体育館の屋根の上から差し込む日光に照らされてキラキラと輝いていた。


 バレーボールより一回りほど大きく、透明で、表面はシャボン玉の様に様々な色の光が混ざり合っている。全体としては平べったく、胴体から二つの関節を持った太く長い首が四つ飛び出している。首にはのっぺりとした眼鼻のない顔が点いていた。左端には他の四つより一つ関節の少ない短い首が飛び出していてこれは内側に曲がっていた。シャボン玉が手の形になりうるとしたらきっとこんな姿をしているだろう。


 西方は夢でも見ないような馬鹿げた存在が真っ直ぐ自分に向かってくるのを、避けようともせずに、呆気に取られた顔でただ眺めていた。


 巨大な手は西方の頭を掴むと、激しい力で締め付けながら、その身体を持ち上げた。体格の良い丸々とした身体が、1メートルほどの高さに浮かぶ。声も出せずに、空中で必死に足をバタバタとさせるその姿はあまりに非現実的で、事態の深刻さの割に滑稽だった。


 その場にいる上級生全員声も出せずに固まっていた。彼らの顔にはどんな感情も浮かんでおらず皆一様にぽかんとしていた。彼らは自分達が夢の中にいるのだと思い込んでいた。


 ただ一人、少年だけが明確な意思をもって宙に浮かんでいる西方を睨みつけていた。もしそこに、騒ぎを聞きつけた教員の一人が現れなかったならば、西方は空中で頭蓋骨骨折すると言う世にも奇妙な死に方をする羽目になっていただろう。


「何をやってるんだ!お前たち……」


 怒鳴り声をあげながらやって来た青ジャージの体育教師は、裏庭に足を踏み入れるや否や言葉を失った。


 何だあれは。夢でも見ているのだろうか。巨大な透明の手が太った少年を持ち上げている。その足元には、宙に浮かぶ手を驚く様子もなく睨みつけている痩せこけた少年がいた。


 少年は突然聞こえた怒鳴り声にハッと我に返ると、教員の方を見た。その瞬間、巨大な手は空に呑まれるようにして影も形もなく消え失せた。どさりと音を立てて落下した直後、着地の瞬間に右腕を捻った西方は豚の様な悲鳴を上げた。






 その男が第二校舎の奥にある小会議室に現れたのは午後6時半を回った頃だった。その場にいる人は皆、その男を始めて見るにも関わらず、彼が誰なのか直ぐに分かった。 


 ピンクの髪の毛に、オーバーサイズのドルマンシャツ。そしてサングラスと言うその恰好は如何にもホスト崩れのチンピラと言った風体で、こんな格好で保護者会に現れる人間は一人しかいなかった。


 約束の時間を30分もオーバーしたにも関わらず、乾徹は一言の謝罪もなく、会議室の一番奥の席に座ってその細くて長い脚を組んだ。


 徹がスマホを取り出してそれを弄りだした時、軽い咳払いが一つ聞こえたが、彼は何の反応も示さず、長い人差し指でスマホの画面を弄り続けた。そんな彼から皆が視線を逸らしたが、ただ一人、西方俊介の母親である西方綾子だけが刃物のような視線を向けていた。


 徹のふてぶてしい態度と、彼に対して殺意にすら似た冷徹な感情を向ける綾子を見て、保護者の誰もが来なければ良かったと後悔した。


 緊急保護者会に集まったのは教員を含めて16名程だった。不参加の保護者達は皆、コロナを理由にしていたが、それは本当の理由とは違っていた。彼らの誰もが感じたのだ。今回の保護者会は非常に厄介な事になると。


生活保護受給者で元ホストの息子が、県議会議員の息子に全治1か月の傷を負わせたのだ。ただで済むわけがない。


 その場にいる人間の中でそれを最も強く感じていたのは校長の白石薫だった。教壇に立った彼の顔は不安と疲労でとても60代とは思えないほどに年老いていた。彼は保護者全員にプリントが行き渡るのを確認すると、咳払いをして語り始めた。


「今日皆様にお集まりいただいたのは、先日校舎裏で起こった、その……生徒同士のトラブルについて現在分かっている事についてですね、説明をさせていただこうと、こういう訳でして」


 会が始まってからずっと黙っていた綾子がそこで初めて口を開いた。


「トラブルと言う言い方は不適切ではありませんか。はっきりと言うべきです。これは暴行事件です」


 白石は思わず苦々し気な表情を浮かべそうになったが、何とかこらえ、代わりに卑屈な笑顔を浮かべた。


「ええと、詳しい事に関しては現在調査中でありますが、昨日午後4時ごろ体育教員の長岡恭平先生が第一校舎裏で4年生の乾大翔君が、西方俊介君のその」


 白石はちらと、白石は黒板の前でずっと正座させられている少年たちに目をやった。教壇の横には少年と西方が並んでいた、正座させられた状態でも二人の体格差は歴然としている。


「頭部を締め付けていたと言う事でしょうかね、片手で」


 既に長岡恭平から凡その報告は受けていたはずだが、改めてその説明を口にしてみて彼は当惑した。


「そうなんですか、長岡先生」


 白石は長岡に尋ねた。


「ええ、まあ」


 会議室の出入り口に立っていた長岡は曖昧に返事をした。


 ずっと黙っているつもりだった保護者の一人、村上洋子が遠慮がちに手を挙げた。


「あの、どうやってでしょうか」


 白石は途方に暮れた顔で、長岡に視線を向けた。


 長岡恭平は、あの時見たものが夢だと思っていた。


 夢でしかありえないし、見たと感じたものをそのまま言えばややこしいこの状況が更にややこしくなる。とは言え、だとしたら自分は何を見たのだろうか。


「その、私は間違えて報告したのかもしれません」


 彼は苦し紛れにこう言った。


「乾大翔君は西方俊介君の首を絞めたのだと思います」


「思います?」


 綾子が眉を顰めた。


「あなた、現場をちゃんと見たんじゃないの」


「勿論です。ええ、ちゃんと見ました。乾君は西方君の首を絞めていたんです」


 恭平が自信なさげにそう言うと、今度は他の保護者から声が上がった。


「ちょっと待ってください。西方君はどうみても頭部を怪我しているように見えるのですが」


 最もな話だった。現実に西方俊介は頭部に包帯を巻いており、右腕にはギブスを嵌めている。小柄な少年が一体どうやってこのような事を成しえたのか。保護者達にはさっぱり分からなかった。


 そしてそれは長岡恭平も同じで、見た事をそのまま語ることが出来ない彼は黙り込むしかなかった。


 これ以上長岡教員に尋ねても埒が明かないと感じた白石校長は、少年達に尋ねた。


「君たち、あの時いったい何があったんだ」


 初めてあの時の事を尋ねられた上級生達は長岡と全く同じ当惑の表情を浮かべた。ただ少年だけがじっと静かに白石に視線を返してきた。白石はそれを見てぞっとした。冷たいその眼には如何なる感情も浮かんでなかったのだ。白石は今まで、こんな眼で大人を見る子供を見た事なかった。


「君は一体―」


 その時、西方が悲鳴を上げた。綾子が慌てて駆け寄り彼を抱きしめた。


「ああ、可哀そうに」


 そして白石を睨みつけた。


「俊介ちゃんがどうされたって、ハッキリしてるではないですか。虐められたんですよ。こんなに怯えて可哀そうに」


 息子の頭撫でながら彼女は言った。


「首だろうが頭だろうがどうでも良い事です」そして少年を指す。


「この子が私の俊介ちゃんを傷つけた。それはハッキリしてます。本人が認めてるんですし証言もあるんですから、さっさと警察を呼んでください」


 それは白石が最も避けたかったことだった。


「いや、お母さんそれは」


「何ですか。ひょっとしてこの学校はいじめを隠蔽しようというんですか」


「違います!そんな事は断じて……」


 慌てて白石が否定するも綾子が聴く耳を持つはずがなかった。


「分かりました。この事は夫にも報告します」


 すくっと立ち上がった綾子は、ずっと他人事のように後ろの席でスマホゲームをしていた徹に向けていった。


「あなたも覚悟する事ね」


「え?俺?」


 徹は顔を上げた。


「あなた何しに来たの?ここまで謝罪の一言もないじゃない」


 彼は嘲るように笑った。


「なんで俺が?そいつは俺の子じゃないぜ。血が繋がってねーし」


 その場にいる全員が呆気にとられた。西方綾子すら言葉を失った。


 会議室のドアが開いて飯田薫が現れたのは、その時だった。


「いやあ、遅れて申し訳ありません」


 彼は何時ものパリッとした白いワイシャツを着ていて手にはプリントを抱えていた。


「君は呼んでおらんが。何故来た」


 不機嫌そうに白石はそう言ったが、それには答えず飯田はプリントを全員に渡した。


「これは何ですか」


 綾子がそう尋ねると、飯田が女性なら誰もが魅力されずにいられないさわやかな笑顔を浮かべて言った。


「西方君が先週の特別授業で提出したレポートです」


 そうして彼はそれを読み上げた。そこには少年の状況が詳細に語られていた。いじめの内容は勿論、凄惨な家庭状況についても。


 家庭内で虐待を受けていた事。母親が水商売をしている事や、五人目の父親が生活保護者である事までそのプリントには書いてあった。レポートを読み終えると、飯田薫は言った。


「さて。この件で我々がしなければならない事は何でしょうか」


 飯田は周りの人々に語り掛けるようにして話を続けた。


「西方君を警察に通報する事でしょうか」


 彼は綾子の方を見た。感じやすい女性である綾子は飯田の語りにすっかり聞き入っており、涙まで流していた。


「本当に?綾子さん、それが正しい事だと本当に思いますか。西方君のこの悲痛な叫びを聞いてもなおそう思いますか」


 彼女はこう言った。


「いいえ」


 ハンカチで涙を拭うと彼女は首を振った。「そうは思いませんわ、飯田先生」


 飯田は満足そうに頷いた。


「かと言って乾君のご両親を責めるべきだとも私は思いません。ご両親も好きで水商売をしている訳ではありません。生活保護を受けているのも、乾君に手を挙げてしまうのも、すべてはこの未曽有の不況のせいなのです。彼らもまた犠牲者なんです。そうでしょう?白石校長。」


 白石は頷いた。


彼は目の前の若者が嫌いだった。主語の大きい話し方も常に自信溢れる笑顔も大嫌いだったが、今回を機に多少は彼を好きになれそうな気がした。どうやら今年最大の窮地を彼のお陰で乗り切れそうだからだ。


「私たちが為すべき事はこの件を児童相談所に報告すべき事。それだけです」


 誰もその事に異論を挟まなかった。


 後日、少年の家に児童相談所の調査が入ると言う事で保護者会は終了した。


 一方徹だけが肩を震わせながら少年を睨みつけていた。






「親に恥をかかせやがって!」


 徹は力任せに少年を殴った。左の頬を殴られた少年はリビング中央の丸テーブルまで吹き飛び、テーブルの角で頭部を強打した。起き上がろうとすると今度は蹴りが顎に当たり、少年は床に大の字に倒れた。仰向けのまま顔だけ起こすと部屋の風景がぐらぐらと揺れていた。左目は糸で張り付けられたように動かず、開くことも出来ない。


 乾徹は48時間以内にやってくる児童相談所職員の事は考えていなかった。彼の頭の中は大勢の前で自らの恥部をさらけ出された事に対する怒りでいっぱいで、明日の事が見えていなかった。彼は顔面のあちこちから血を流して倒れている少年を指さして言った。


「なあ、菜奈。あのプリント読んだかよ。こいつ、俺たちの事馬鹿にしてたんだぜ」


 菜奈は、夫の肩に寄りかかりながらろれつの回らない声で言った。


「あんたを育てる為にお母さんがどんっだけ苦労してるか分かってんの?水商売の何がわりーんだ!それであんたは生きてんだよ?何、あんた生きたくないの、死にたいの。ならお母さんが手伝ってあげようか」


 菜奈は少年の前に屈むと火のついた煙草を倒れた少年の頭に押し付けた。ジュウっと言う嫌な音がしたが、少年は声も上げなかった。頭から血を流し、殴られた左目の瞼は醜く膨らんでいたが、残った片眼はじっと母親を見ていた。夜の海面に浮かぶ月の様な冷たい輝きにゾッとして菜奈は後ろに下がった。


「何なのさ、文句があるなら言いなよ」


 彼女は震え声でそう言ったが、息子は何も言わず立ち上がると静かに両親二人を見つめていた。まるで恐れる様子のないそれは何時もの息子と違った。菜奈は更に二歩後ろに下がった。


「何、こいつ狂ってるの」


 横にいる徹に縋るような目を送る。徹は鼻を鳴らすと、少年から菜奈を庇うように一歩前へ足を出した。


「こいつは結局親を馬鹿にしてるのさ」


 彼の声も震えていた。徹は保護者会でつるし上げにされていた時の事を思い出していた。あの時もこいつはこう言う目で大人達を見ていやがった。


「そんな目で見るんじゃねえ!」


 彼は床に転がったビール瓶を拾い上げると少年に向けた。


「よーし、土下座しろ。学校でやったみたいに床に座って頭を地面にこすりつけるんだ。お父さんお母さんどうもすいませんでしたって。さあ」


 少年は目の前にあるビール瓶の裏をじっと見つめていた。シーリングライトの光が壜底を通して夕暮れの太陽の様にぼんやりと光った。


「どうした?謝れよ」


「嫌だ」


 徹のビール瓶を持つ手が震えた。


「何だって」 


「嫌だよ、父さん」少年は細い指でビール瓶を脇にずらすと、はっきりそう繰り返した。


「てめえ……」


 徹がビール瓶を頭上に掲げると、低い天井にビール瓶の底がこつんと当たった。それが合図であったかのように徹は一気にビール瓶を振り下ろした。


「親に逆らう気か!」


 振り下ろされた壜は少年の頭上でピタリと止まった。まるで大きな力で止められたかのようでそれ以上は上げる事も下げる事も出来なかった。徹が壜を引き抜こうとした瞬間、ミシっと言う音がしたかと思うとビール瓶が粉々に砕け散った。何が起こったか判断する余裕は徹には無かった。次の瞬間、彼の頭上に稲妻のような激しい痛みが落ちてきて後は何も分からなくなった。




 美奈は見ていた。巨大な手が夫の頭に手をかけると、真っ二つに引き裂いたのを。彼の身体は爆弾のように炸裂して辺りに血飛沫が飛び散った。一番近くにいた少年の顔が血で真っ赤に染まり、四畳半のアパートは嘗て成人男性だったものの破片で一杯になった。


 彼女は悲鳴を上げようとしたが出て来たのは最初の「あー」と言う発声練習の様な言葉だけで後は声が出せなくなった。喉の奥に見えない何かが入って来て彼女の舌を掴んだのだ。


 幸い足は動く事に気づいた菜奈は助けを呼ぼうと玄関まで走った。彼女は何度か夫の血や臓物に足を滑らせ、転びながらも這う這うの体で玄関までたどり着き、何とかドアノブを掴んだ。ドアノブは2000度の高温で真っ赤になっていた。声にならない叫びを上げようとする菜奈だが依然舌は動かなかった。そしてドアノブが突然炎を吐き出した。炎は彼女を包み込み、五秒とたたず彼女の身体は塵となった。


 


 


 人を焼く脂っぽい匂いが充満する赤い部屋の中で少年は一人暫く物思いにふけるようにして佇んでいたが、やがて思い立ったように玄関へと向かった。玄関のドアノブには黒こげの母の手がついたままだった。


 靴を履くと彼はドアノブに手をかざした。すると、ノブが母親の手と一緒に周り玄関のドアがスッと開いた。少年が外を出ると二つ隣のドアが開いて髪がぼさぼさの腫れぼったい顔の女性が顔を出しこちらを睨んだ。


「ちょっと、さっきから凄い音聴こえるんだけど!近所迷惑―」血塗れの少年の顔を見た途端、女性は激しい勢いでドアを閉じた。


 少年は階段を降りると、駐車場へ降り立った。誰も人はおらず、月明かりに染まった駐車場は照明に照らされた舞台のようだった。


 駐車場の入り口前では何処からか逃げ出したのか、耳の長い犬がうろうろしていた。犬は少年を見ると、のろのろとした足取りで少年に近づいてきたが、2メートルほど近くまで近づいた所で、その足を止めた。少年の顔を見ると「きゃん!」と言う哀れっぽい声を上げてその場を走り去った。


 少年はそれを見て人とは思えぬ残忍な笑みを浮かべた。彼は最早野良犬には似ていなかった。それどころかどんな動物とも似ていなかった。突然手に入れた巨大な力は彼の精神を変容させ、人とは言えぬ何かに変えてしまっていた。


 街へと続く国道へ出た彼は一旦立ち止まると、夜の風を肺が痛くなる程強く吸い込み、吐き出した。そして両手を広げると月明かりにかざした。血で濡れたその手が勝利のトロフィーの様に赤くぬらぬらと光った。


 飯田先生の言う通りだった。僕の手には無限の未来が握られていたんだ。これからの世界を創る力。一体この力を何に使ったらよいだろうか。歩きながら考えたが急には思いつかなかった。


 まあ、その内思いつくだろう。

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未来は僕らの手の中 野墓咲 @hurandon

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